第19話
城に戻ると、ぷんと良い匂いが漂っていた。野菜炒め定食である。城内勤務の魔物たちには、城下町に自宅を持ちそこに帰る者もいるが、城内の居住区に詰めている者も多い。当然ながら、勇者を警戒した夜勤もある。魔王も城内で生活している。そんな魔物たちのため、食事は城内で供されることになる。このおいしそうな香りが勇者用の経路に漂わないよう、排気換気のルートは万全に整えられている。そうでなければ、魔王を倒しに来たのに炒飯の香りがする…などという間抜けな事態になる。そうなったからと言って誰も困りはしないが、何となく気恥ずかしい。
「おっ。おかえり、飯できてるぞ。」
せっせと鉄鍋で野菜を炒め、配膳しているのは賄い担当の火の四天王ヨルンである。戦闘能力が高く、かなりの数の勇者を何の気なしに殺傷しているにもかかわらず、得意の火を使ったお料理の方を好む。賄いを作っているときの方が生き生きしている。
「あと、魔王様から伝言な。夜に会議を開くって。石は魔王様に返しといたよ。」
「了解。魔王様は?」
「そこでごはん食べてるよ。お野菜好きだよな、あの子。」
「あの子じゃない。」
ヨルンは四天王ではトウリに次ぐ古株で、何百年もの時を生きている。生まれて20年足らずの魔王ごときは、内心ではちんちくりんのチビ扱いである。今では背丈は殆ど変わらないが、チビはチビだ。
食堂を覗くと、多くのむくつけき魔物たちに混ざって、魔王がつくねんとして野菜炒めをつついていた。魔王と言っても王様でも貴族でもないので、特別豪華な食事も下々によるお給仕も無い。他の魔物と同様に、食堂でセルフサービスである。むしろ、いかつい精鋭たちと比して細身の魔王の食事量はひどく少なく、お箸でちびちび口に運ぶさまは侘しくさえ見える。
なお、この箸という道具は、異世界の石ころから伝来したとされている。棒切れ2本で何でもできる便利さから、今では魔物たちの間では常用されている。魔物社会には、人間社会には無い、異世界伝来のあれやこれやが知らぬ間に根付いていたりするのである。
ぱく、と玉ねぎを食べてにこにこしている魔王を見ていたトウリは、司書長と話していたことが馬鹿々々しく感じられた。何を悩んでいたのであろうか、自分は。
「お向かいよろしいですか、魔王様。」
「うん。」
トウリはヨルンから受け取った膳を机に置いて、魔王の向かいに着席した。いつも通り、ヨルンの作る炒め物は美味しい。
「魔王様は、配下の者を粛正しようと思われたことはございますか?」
「んぐっ」
飲み込みかけていたものが引っかかって、魔王は激しくむせた。お茶を飲み、何とか流し込み、浮かんだ涙を手巾で拭いて落ち着きを取り戻す。
「出し抜けに何てことを訊くんだ。」
「失礼いたしました。少々興味が湧きまして。」
しらーっとトウリは答える。
「そんなこと、考えたことも無いよ。絶対したくないし。」
「やろうと思えばいつでもできるものなのですか?」
「…できる、と思う。でも、怖いから、そのことは考えないようにしている。」
怖がるべきは殺されるこちらだろうが、とトウリは思う。一応、我が身にも起こりうるらしい。
「こんな力は要らないのにな。」
魔王はもそもそとニンジンを食んだ。
魔物は魔物を殺すことができない。不文律でも明文化された法規でもなく、本能的に不可能だ。うっかり不注意や事故に巻き込むことはあり得るが、殺害する意図をもって行為に及ぶことはできない。そもそも、その意志が生じないし、逃れようの無い強烈な忌避感を覚える。
その唯一の例外が魔王である。魔王は魔物を殺し、魔物に殺されうる。魔王を殺すのは容易ではない。当然ながら、魔王を倒そうと夢見る勇者を超える努力と才能と計画性と運が必要だ。他方で、魔王が魔物を殺すのは簡単である。指先一つのワンタップ感覚で問答無用の抵抗不能のうちに殺害することができる。魔王は生得的にその異能を有している。とされているが、魔物を殺すことを禁忌とする感覚は、魔物の一員たる魔王にも共通である。よって、実行に移されることはまず無いので、魔王本人以外にとっては都市伝説的な扱いになっている。
「魔王様はお優しいですね。」
「へなちょこなだけだよ。」
それはその通りかもしれない、トウリも思う。そして、へなちょこであり続けさせなければならない。そう考えながら野菜を口に運んでいると、魔王がぽつりと呟いた。
「へなちょこのままでは駄目だ。変わらないと。」
「そうでしょうか。」
「ああ。やると決めた。」
決めた割には、覇気が無い。
「ミグレンの件ですか?」
「うん。…ああ、疲れているところ、遅くに会議を入れて申し訳ない。」
「そんなことは、お気になさらないでください。城の者は皆、魔王様よりも頑健です。」
戦争直後の時期や城と城下町の建設期においては、魔物の誰もが昼夜を問わず1日24時間どころか36時間働きましょうの状態だった。ひとしきり建設が完了し、魔王城と勇者殺害システムが安定して稼働し始めてからは、城内勤務者には原則的に交代勤務制が敷かれ、定時や休暇という概念が導入され、労働環境はぐっと改善された。人間よりも全ての面で頑丈にできている魔物には、多少物足りないくらいの状況だ。たまに時間外の会議を入れられたくらいで文句が出ることは無い。むしろ、ごっつぁんですの勢いだ。
トウリは湯飲みを傾けつつ、魔王の表情を探った。どことなく憂鬱そうである。まだ、いつもの魔王だ。
「ご無理をなさらないでください。魔王様は魔王様のままでよろしいのですよ。」
「うん、ありがとう。」
にこり、と魔王は力なく微笑んだ。
「でも、私だって怒るんだよ、トウリ。」
魔王は立ち上がり、空の食器の乗った盆を手に取った。お先にとトウリに一声かけて、魔王は下膳口に食器を置いて去って行った。
どことなく落ち着かない気分で食事を終え、トウリも食器を下げた。ついでに厨房に寄って、皿洗いを手伝う。洗い物、掃除、洗濯、水の四天王たるもの水仕事は何でもござれである。お肌の保水もばっちりで、手荒れも生じない。
ほい、とヨルンから汚れた鉄鍋を渡されて、トウリは顔を上げた。
「…リュゼ様がお怒りになったところって記憶にあるか?」
「無いな。ぷーってむくれることはあるけど。あの魔王様はいつもへなへなだろ。何だ、突然。」
「へなへなは余計だが、私も見たことが無いと思ってな。」
「本当に、トウリはいつも考え過ぎだよなあ。そのうち頭が爆発するぞ。」
「しない。」
トウリはピカピカに洗い上げた鉄鍋を返した。ヨルンはそれをさくっと熱して乾かし、片付ける。水と火の相性が悪いなど、誤った伝説に過ぎない。




