第1話
ばたんと勢いよく戸を開け閉めする音に続いて、軽やかだが騒々しい足音が近付いてくる。書棚に整然と揃えられた書物に異様に細長い指を這わせていた司書長は分かりやすく眉をひそめた。振り向きざまに、そこにいる対象にお小言を発する。
「魔王様、ここで走ってはいけません。何度も申し上げているでしょう。」
それが耳に入っているのかいないのか、黒髪の子どもが勢いよく司書長に抱き着いた。同じような背丈なので、子ども同士がじゃれ合っているかのようである。
「ソーイチ、勉強教えて。訓練は、嫌だ。」
ソーイチとは司書長の名である。司書長は名で呼ばれることをあまり好まない様子だが、はっきりと拒絶もしないので、忖度というものを知らない幼子たる魔王だけは名前で呼び続けている。
司書長は魔王をまとわりつくがままにして、眉根を寄せた。
「また逃げ出してきたのですか。」
ということは、と呟きつつ部屋の外に注意を向ければ、のしのしと重々しい足取りに伴う微かな揺れが感じられる。天井に頭と角をぶつけないよう背を軽く屈めながら、深紅の肌の巨漢が現れた。
「魔王様、隠れても無駄ですぞ。さあ、戻りましょう。」
魔王は司書長にへばりついたまま、顔も上げない。隠れてはいないが、従順に従う意志も見せていない。
「私はここで勉強する。」
「お勉強は午前中になさったでしょう。午後は訓練のお時間ですよ。」
「嫌だ。痛いし、ウトが怖いもん。」
怖いと言われて、ウトと呼ばれた赤鬼は少なからぬ衝撃を受けたようだった。脚から力が抜けたようにあとずさり、壁に背をぶつけた。パラパラと本棚の上から埃が舞う。それを見て、掃除しなければ、などと司書長は考える。自分では手が届かないから、いっそ、今のうちにウトに頼むと良いかもしれない。ああ、そうしよう。
「では魔王様、私と算術のお勉強をいたしましょうか。午前中は地理でしたからな。」
「うん。」
魔王は司書長から離れずに返事をする。
司書長とは、役職名ではない。司書という種族の魔物で、最年長なので自然とそう呼ばれている。司書はその名の通り、書物を司り、書物を編み、書物に収められた知識を無尽蔵に吸収し蓄積する。まるで小人のような見た目で、背は低く、腕と指ばかりが長くて、目がやたらと大きい。人間に似ているけれど、確実に人間とは違う。その差異の絶妙さが人間には不気味に感じられるのではあるが、魔物の中では際立って特異でもないので、何も言われない。ただ、何となく頼りない風貌というだけの話だ。実際、戦にも力仕事にもてんで不向きなのであるが、誰も司書長に面と向かって歯向かうことはない。司書長は魔物の中で誰よりも長い時を生き、あらゆる歴史を目の当たりにし、記憶し記録し続けている。その知識と経験の豊かさに敵う者はおらず、誰もが司書長を敬慕し、かつ畏怖しているのだ。つまり、逃げ惑う魔王にとっては、都合の良い安全地帯なのである。
「では、我々はお勉強しますので、ウトはこの部屋の掃除をお願いできますか。」
「何故そうなる。」
「あなたのせいで、埃が舞いました。棚の上もしっかり、隅々まできれいにしておいてくださいね。」
魔王の頭を撫でながら、平板な口調で司書長は言いつける。大きな声ではなく、威圧感の欠片も無いが、司書長の言葉には誰も逆らえない。
ぐぬぬぬ、とウトは歯噛みした。何分大きいので、単なる歯ぎしりでも音が響く。自分も、魔王をぎゅっとして、いい子いい子となでなでしたい。あわよくば、ほっぺをぷにぷにして、くんくん匂いも嗅ぎたい。チュッとしてもらえたらもう昇天しても良い。などとは口が裂けても言えないが、いつも思っているので、自分が願ってやまない幸せな境遇に置かれている司書長が妬ましくて仕方がない。幾人もの魔王に仕えてきたこの赤鬼、武術に長け、戦では先陣に立ち魔王を守るのが常であるが、魔王の戦闘訓練も担っている。魔王の身を案じるあまり、訓練に熱が入りすぎる傾向にあるため、歴代魔王からも割と敬遠されがちだったという悲しい歴史を持つ。現在もなお、その歴史は連綿と続いている。
ぺったりと密着したままの司書長と魔王が立ち去り、ウトはがっくりと肩を落とした。仕方が無いので、身を縮めたまま掃除道具を物入れから取り出した。
この建物には、巨漢の鬼がのびのびと振る舞えるほどゆとりのある広さは無い。ここは、樹から生まれた魔物の子どもたちが養育される保育所であり、造りはこじんまりとしているのだ。
魔物には、有性生殖で父母から生まれる種族と、樹から生まれる種族がある。殆どの魔物は前者であり、種族ごとに寿命には大いに異なるものの、人間と同様に世代交代することになる。一方で樹生の魔物は、魔王をはじめ司書や四天王など、限られた種族だけだ。樹生の魔物には性別が無く、自ら繁殖する能力を持たない。樹が生み出すことでしか殖えることはできない。そのため絶対数は少ないが、事故や戦闘で命を失わない限りは非常に長命となる。
樹生の魔物は、有性生殖で生まれる魔物たちや人間と違って、ある程度成長した状態で樹から切り離される。言葉を解さず、自力で歩めず、口元に寄せられた乳を飲むしかない赤子と比べると、遥かに自立している。とはいえ、成体には程遠い。人間で言えば漸く物心がついて生意気な口を利くようになってきた頃合いが近い。養育できる親がいないので、成熟するまでの間は、同族の魔物や保育職の魔物が交代で面倒を見ることになる。
近年では樹生の魔物の誕生が途絶えており、現在ここに居住しているのはこの幼い魔王ただ一人である。同年代のお友達はいないけれど、教育係の司書長や警護の魔物たちが常に周りにいるので、寂しそうな様子も見せずに安気に暮らしている。




