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異世界転石の先  作者: 七田 遊穂
第3章 箍
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第17話

 やがて二人はこじんまりとした図書館にたどり着いた。日中は他の司書が対応に当たっているが、既に閉館時間を迎え、中には誰もいない。司書長は鍵を開けて入り込み、トウリの前に立って歩く。


「ここにしまってください。あの、高いところ。踏み台ならその辺りにあります。」


 踏み台があっても司書長の手の届きそうにない場所に、トウリは本を収納した。一人でどうするつもりだったのかと不思議になるが、この司書長は本のためとあらば他人を使うことに一切の抵抗を感じない。その辺りの通行人を拾ってやらせるつもりだったのだろう。


 踏み台から降りたトウリは、ぽんぽんと手をはたいた。館内は明かりも灯さず、夕暮れの僅かな光だけが差し込んでいる。


「司書長は、どう思う。我々魔物がミグレンを丸ごと頂けるとしたら。あの町には図書館も立派なものがあるそうじゃないか。楽しい生活になりそうだぞ。」

「それは確かに愉快でしょうね。」

「どう考えても、この城下町近辺に押しやられているより、もっと暖かで豊かな土地を手に入れた方が良いと思うんだが。」

「トウリはそうしたいのですか?」

「そうしたくない気がするから、司書長に聞いているんだ。変だろ?魔物がもっと勢いを持っていた頃、生活は今より豊かだった。甘い菓子を夢想して石ころの話に現を抜かす必要なんて無かった。それを知っているのだから、栄華の一部でも取り戻そうとしておかしくないはずなんだが。」


 窓から差し込む細い光に照らされて、埃が漂っているのが見える。


「昔は、こうじゃなかったはずだ。生ぬるい魔王が続いて、私がおかしくなっただけか?」

「魔王は程度の差こそあれ、生ぬるいものですよ。たった一つの例外を除いて。」

「一つで済むかどうか、分からんがね。」

「済みますよ。今のあなたに、ミグレンを丸ごと壊滅させる気が起きないのなら。」


 司書長は書見台の下から椅子を引っ張り出して、すとんと座った。どういうことか、と視線で問うトウリに、一つ頷いてから答える。


「我々魔物の意識は、魔王に感化されます。それは、外に表れる魔王の言行から直接に受けるものだけではありません。」

「魔王が生ぬるければ、自然と我々全員生ぬるくなるのか?」

「そういうことです。まあ、絶対的なものではありませんがね。」

「じゃあ、概ねいつも魔物は生ぬるいってことじゃないか。」

「そうなりますな、魔王が生存している間は。トウリは、長く生きてきてそのように感じませんか?」


 トウリは司書長には遠く及ばないものの、魔物の中ではかなりの古参である。魔物の歴史の多くをその目で見てきた。司書長のように無限に広がる書庫が脳内にあるわけではないので、何もかもを事細かに具体的に記憶することはできないが、思い起こせることは多い。


 魔王が生存していない時期といえば、つい最近まで長らくその状態だった。先代魔王の崩御後、150年にわたる長い空白。あるいは、魔王の死後に一般的に発生する、魔王の不在期間。変動幅はあるが、10年程度は魔王が欠落する。そして、生ぬるさの対極にあったあの魔王の治世。魔物はどうだったのだろうか。考えてみたが、渦中にいた身にははっきりとは分からない。


「魔王が不在だと、全体に落ち着きが無い気はするな。魔物には魔王が必要だという話じゃないのか。」


 魔物には魔王が必要だ。それは、魔物の間での共通認識である。魔物を生み出す樹がそこに在ることで魔物の心に安寧を与えるように、魔王が存在することは魔物に平穏をもたらす。だから、魔王がいなくなればその産生を樹に願い、生まれれば誕生を寿ぎ、護り仕える。自然の摂理のようなものである。


 司書長は軽く頷いた。


「そう感じるのは、魔王による感化とは別に、我々の本能的なものでしょう。」

「理屈は分からないんだがな。」

「そうですね。確たる原因は想像の域を出ません。が、現象としては、感覚だけではなく、客観的指標でも示すことができます。例えば、魔王の空位期には犯罪発生率が増加し、疾病罹患率、伝染病の発生率も上昇します。出生率の低下と死亡率の上昇により人口の自然減が加速します。魔物の実効支配域が減少しがちなのも魔王不在時です。集落が分散縮小し、容易に勇者に滅ぼされるようになります。その一方で、人間と積極的に衝突する事例が増え、結果的に魔物人口はさらに減少します。どの変化も初めは非常に緩やかですから、体感は難しいところでしょうが。」

「魔物が滅びに向かうようだな。」

「だからこそ、我々は魔王が必要だと感じるのでしょうし、魔王には存在していただかねば困るのですよ。いかなる魔王であっても。」


 いかなる魔王でも、とトウリは口の中で繰り返した。


 確かに、言われてみれば、150年間の魔王空位期と比べて、ここ最近は城下町の雰囲気が明るい。確実に子どもが増えた。冬に流行しがちな感冒も下火に落ち着いている。魔物たちは大らかに笑うようになった。城下町周辺の集落は増え、遠隔地の集落でも勇者による被害を耳にする頻度は減ってきた。戦後の復興が漸く形になってきたのだろうと思っていたが、よくよく思い返せば、変化が目に付くようになったのは現魔王が生まれてからだ。


「アルクィン様の御代でも、当然そのような効果はもたらされていました。だからこその、あの発展です。」

「それなら、あの時代の方が良いだろ?」

「トウリは覚えているのでしょう。あの時代の我々にあった、違和感を。だからこそ、恐れるのではありませんか。」


 恐れているわけではない、と答えようとしたが、トウリは黙っていた。先ほどの魔王の声がまだ耳にこびりついている。あれは幻覚だったのか、本当に魔王が口にした言葉だったのか。


「我々はアルクィン様に尽くしました。今にして思えば苛烈な方法も採りましたが、多くの者は疑問を抱かなかった。我々は、魔王に感化されていたわけです。ですが、あの方に特有のご性状と我々魔物の生来の本性とは相容れません。そこに調整不可能な歪みが生じた結果が、あの時の違和感であると私は考えています。」

「違和感で済む話じゃないけどな。」

「そうですな。いくつかの悲劇が生じましたね。」


 さらりと司書長は流した。

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