クロワッサン・ムーン
ガタン…
ガタン…
闇の底をなでるように、電車は走る
ガタン…
ガタタン…
時々、不規則に揺れて、まるでゆりかごのようだ。
「やぁ少年。」
さも今、現れたみたいに白々しくいう。
「ポストゥーノ。今回は何を運んでるんだい?」
闇に向けていた視線を、明るい車内に向けた。そこには配達員のポストゥーノがいる。
どこの誰が配給したのかは知る由もないけど、とにかく深い緑色の制服に身を包んでいた。胸につけたバッジには"○○郵便局 配達員"と書かれている。○○の所は、かすれて見えなくなっている。
「うーん?さぁ?おれも何で、ここにいるかわからなねぇんだよな。」
腕の長さからしたら、相当に余っている袖をぶんぶん振り回した。
…ていうか、服がでかすぎる。
「少年こそ、何だってこんな"辺境"に?」
僕は、首をかしげた。改めて考えると何だってこんな列車に乗っているんだっけ…
「少年、帰らなくて良いのか?」
「そういわれてもね…帰り方がわからないんだ。」
肩をすくめた。そして「それに…」と、視線を落とした。
「さっきから、何だか…足がおぼつかなくて。」
うっすらと座席の焦げ茶色が見えるみたいだ。
「ふーん」
と興味があるのか、ないのかわからない相槌を打たれた。
「まぁまぁ、月が綺麗だよ。見てみなよ。」
言われた通りに、上を見ると確かに獣の爪のような三日月が輝いている。
「少年は、知ってるかい?」
にこにこと嬉しそうな顔をしている。これは、こいつが雑学を披露したい時の顔だ。
「何が?」
「あの、三日月はフランス語で―」
「クロワッサン」
「え?」
ポストゥーノは本気で驚いている。
「発音が悪かったか?Croissantだろ?」
しかも顔は笑っているが、完全に引き攣っている。
「ふふーん。さすがは、お坊ちゃま。しかし、これは知ってるかな?クレッセント・ムーンは、確かにフランス語でクロワッサンだ。それが、あのパンのクロワッサンの語源になっていることを!」
自信満々。どうだ、驚いたか。ポストゥーノはそういう顔をしている。
「ああ。 悪いが、知ってる。」
「―な!!!」
本気でショックを受けている。しかし、こいつはそうやって子供の扱いに慣れているから本当のところは、ショックなんて受けていないかもしれない。
…かな? 今度ばかりは、思いっきり頭をうなだれている。
「あ!そうか、そうか!」
ポストゥーノが突然、頭をふりあげた。
「な、何?」
「そうだったんだー!これが最後の仕事なんだ!」
「どうしたの?」
ポストゥーノは人の良さそうな顔で笑った。
「大丈夫だ。少年。お前はちゃんと家に帰れるぞ。」
そしてがっしりと肩を掴んで、力強く言った。
「本当に?」
「もちろん。ちゃんと、このおれが配達してやるからな。」
袖の折れ曲がったところ、つまりは手の先を僕の胸にあてた。
「さ、目をつぶって―」
「?」
どういう事かわからなかったけど、とりあえずは言われる通りにした。
「それで、息を大きく吸い込む。…そう。良いよ。次は、大きく吐き出して―」
ポストゥーノの言った通りにすると、もう一度胸の辺りを軽くつかれた。
「後は目を開けるだけだ。」
「…ま! 坊ちゃま!」
目を開けると、目の前には青い顔をした婆やがいた。
「あれ?」
「あー良かったぁ!!」
婆やの恰幅の良い体で思いきり抱きしめられた。
「坊ちゃまが風邪をひかれるなんて、あまりない事だから婆やは驚きましたよ。」
言いながらも、額にあったタオルを取って冷水に再びひたし、力いっぱい絞る。
「それに、ずっと高熱が続いて目を覚ましませんし。命の縮まる思いでした。」
ふぅ、と大げさに息を吐いた。
「そう…だったんだ。」
事態を把握してようやく体を起き上がらせた。近くにあった水差しでコップに水を注ぐと一気に飲み干した。
「ねぇ、それより婆やは、ポストゥーノを覚えている?」
一瞬、婆やの手が止まった。そして嬉しそうな顔をした。
「ええ、覚えていますとも!もちろんですとも。風変わりな方でしたが、坊ちゃんには良くして頂きましたしね。」
「夢の中で彼に会ったよ。」
「ええ?まぁ…彼となら、あり得ない話じゃないかもしれませんね。それにしても…」
婆やは、女学生にでも戻ったみたいにふふ、と笑った。
「彼は、何でも運ぶと風の噂で聞きましたが、まさか人間まで配達してしまうなんてね。」
「ああ、その通りだな…」
「さ、坊ちゃん。温かいレモネードを作ってきますから、寝ていて下さいね。」
「わかってるよ。」
婆やは、満足そうにうなづくと部屋を出て行った。
窓の外を見ると真っ暗な闇と、そこに白い雪がちらついていた。そしてぼんやりとしか見えないクレッセント・ムーンは、本当にクロワッサンのように見えた。
「いくら君とはいえ、死んでからも会えるとは思わなかったよ。」
そのままとろとろと、眠気に体を任せてもう一度、深い眠りについた。
今度は、朝なって婆やに起こされるまで、夢はみなかった。