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自らの身体が横たわり、家族や婚約者を含めた親しい間柄の人達が慌てふためき、険しい顔をするその様を、私は、ふわりと浮いた身体で高い位置から見下ろしていた。
自分の事を、自分以外の視点から見るというのは何とも不思議な感覚だ。私の肉体と魂は分離されたことで、この部屋の様子を俯瞰できるようになった。
音を立てて声を出したとしても、誰もこちらに気がつくことはない。私のことを誰もが認識できないのだ。
もし、自分がある日突然目覚めなくなり、意識はその場所にはあるのに誰とも会話する事ができない状況で、その場を見ている家族が涙していたら、自分も悲しい気持ちになるのではないか——と、そんなふうに思っていたのだが、実際その立場になってみると、何の感情も湧かないものだった。
第一発見者となってしまったドロシーには悪い事をしたと思った。けれど彼女が犯人でないことは一目瞭然だ。私がこうなってしまったことに多少の負い目を感じるだろうが、それを両親から責められることはないだろう。寝ている私の部屋に立ち入りを禁じていたのはこの屋敷で働く者なら誰もが知っている事実だ。
「涙も出ないなんて、薄情かしら」
家族が、屋敷のメイドが、婚約者が、自分のせいでこんな事件に巻き込まれて、重い空気に包まれていても、胸が痛むこともない。
それどころか、こうしていることに喜びすら感じている。やっと自由になれた、と。
これまでの人生は、敷かれたレールの上をただ走っているだけだった。私のやりたい事も本当の願いも叶わず、ヒューバート殿下を支える為に努力して——いや、努力させられてきた。
ヒューバート殿下は堪え性がなく、勉学や魔法の才能にも目覚めず、唯一得意なのは剣を振るうこと。王として守られる立場になる者にとって、剣の強さは然程必要ではないだろう。けれど彼にはそれしかなかったせいで、それを補うために私が必要だったのだ。いずれ王妃として彼の側でこの国を守っていくのだからと、できて当たり前と言われた。嫌だと逃げられる環境ではなかった。
しかしそれも今この瞬間に終わりを迎えた。これまでの私は誰かの言いなりでしかなかった。私はついに自由を手に入れたのだ。
このまま家に留まっていても、私が目覚めない事実は変わらない。この屋敷で繰り広げられる茶番をこれ以上見ている必要はないのだ。私はあらかじめ約束していた場所へ向かう事にした。
「さて、まずは移動しないとね」
実体を失った私は、簡単に部屋をすり抜ける事ができ、その気になれば空も飛べるという。まだコツを掴めていないので、うまくはできないが、いずれこの状況にも慣れるだろう。
壁をすり抜け外へと出た。ふよふよと浮かびながらの移動はなかなかに面白い。誰ともぶつかることはないし、考えごとをしながらの移動で、どんな顔をしていたとしても、誰かに咎められることもない。なんて最高なのだろうか。
それはともかくとして、先程のヒューバート殿下の行動には驚かされた。まさか、あの男が、私の手の甲に口付けるだなんて。
呪われてしまった愛する大切な人に、真実のキスをする事で呪いが解け目が覚める——そんな物語をヒューバート殿下も見聞きしたことがあるのか、それを信じて私の手にキスをしたのだろう。大方、両親が見ている手前、パフォーマンスも込めてやったに違いない。もし打算でもなく自らが望みその行動をしたのなら、随分ロマンチストである。だが、彼がロマンチストではなく、そんなことを普段からするわけがないことをよく知っている。両親がこの場に居合わせなければ憎々しげに私の身体を見ていたか、そもそも見舞いにすら訪れる事はなかっただろう。
魔女の秘薬によってかけられた祝福は、そんな事で解ける程優しいものではない。なんと言っても、私がそう望んだのだから、こうなっているのだ。
この祝福を解除する方法が、愛し合う者からの口付けであったとしたら、私が目覚める可能性もあったかもしれない。けれどそれは、ヒューバート殿下には出来ないことだ。心の伴わない行動には、何の意味もない。
私達は物語のように愛し合う関係ではないし、単なる王命によって決められた相手。彼を支える為の駒として必要という点は、当てはまるかもしれないが、真実のキスをする間柄とは程遠いものだ。
これから妃教育に必死で取り組み、ある程度の素養があれば、誰でも彼に相応しい相手として認めてもらえるだろう。そんな薄っぺらい関係でしかない私たち。その代わりなど、他にいくらでもいる。
私が目覚めなくなった事実は、あっという間に広まることだろう。学校を卒業すれば彼と籍を入れることが決まっていたが、私が目覚めなければ目覚めない程、結婚する可能性は遠のいていくに違いない。使えなくなった私を切り捨てるのは時間の問題だろう。これまでの関係を知っている人たちからすれば、多少王家に批判の目は向けられるだろうが、新しい相手に娘を推挙したい家は多いだろうし、人の噂なんてすぐに忘れられる。
私が彼の婚約者に選ばれたのは、王妃と母が親しく、そして親戚である事で、こちら側が頼み込んだ末に婚約者になったのだと影で言われていた。そのせいで私をよく思わない貴族の派閥もあった。本当は王命によるものだが、そのことは伏せられており、一部の者しか知らない事実。実際は、あちら側から必死に頼みこまれて、婚約者にならざるを得なかったというだけなのに、そんな不名誉な噂をされるなんてうんざりしていた。
私が居なくなったとしたら、年頃の娘を持つ貴族達からすれば、この絶好の機会を逃すわけがない。自分の娘が王族の妃になれる機会が巡ってきたのだから、大喜びするに違いない。
ヒューバート殿下は賢王と言われた陛下の優れた部分を受け継がなかったのか、彼がこの国を治めるのに期待できなかった。第二王子のゼイン殿下は文武両道の天才で、彼を王にと望む声も少なくない。しかし、この国は王位継承権は生まれた順に与えられる。いくらゼイン殿下が優れていようとも。そんなヒューバート殿下を王にすべく、白羽の矢が立ったのが私だった。彼を支える為に妃になって欲しいと頼みこまれた。私には婚約を見据えた好いた人がいた。断る方向で話が進んでいたのだが、王家が強硬手段に出た。その際にも一悶着あったが、王命により婚約は結ばれてしまった。
そのせいか、ヒューバート殿下と私の間に恋が芽生える事はなかった。顔を合わせるのは王城ですれ違う時くらいで、デートなんてした事がない。
その噂が事実だと、周りは自分達に都合の良い様に解釈する。実際半分は本当の話であるため、どうする事もできなかった。
「ヒューバート殿下は私じゃなくてオデットと結ばれたいんだってこと、知っているんだから」
私の手に口付けた後、一言も発さず黙って俯いていたのは、どうやって私を婚約者の座から引き摺り下ろし、オデットを王妃に据えるかという算段をつけていたからに違いない。
長い間一緒にいたから、お互いの事がよく分かっていた。
オデットは伯爵家の生まれで、私が選ばれなかったとしても、今のオデットには王妃になるだけの技量はない。愛する相手というだけで、王妃は務まらない。彼女が凄まじい努力をすれば認められるかもしれないが、彼女の性格的にそれは難しそうだった。
ヒューバート殿下はオデットに夢中で、仲睦まじく、彼女といるときはいつも楽しそうに見えた。
身を寄せ合い頬に口付けをする様子を見かけた事だってある。私が見ているのだからその様子を他の人が目撃していてもおかしくはない。
私といる時間よりも彼女と共に過ごしている時間の方が多いことからそういった噂が流れてしまうのは仕方のない事だった。
軽く王妃や陛下に嗜められてはいたものの、その二人の関係を解消するように強硬手段に出る事はなかった。彼女はこの国でも珍しい光魔法を扱えるということもあり、強く出られないということもあったのだろう。彼が友人だといえば友人なのだ。オデットの口からも同様の回答しか得られなかった。
私の領地の近くに住むオデットは、王都から離れた地方に住む貴族で、王都の学園に通う為に寮暮らしをしている。最初はそんな都会に染まらない彼女が珍しかったのだろう。きっかけが何であっても、この際どうでもいいことだ。ヒューバート殿下はオデットに直ぐに夢中になり、オデットも満更でもなかった。二人が仲睦まじく過ごしている様子は、誰もが気になる所であった。
二人が身を寄せ合って恋人同士のように会話している所を見ても、私はもう何とも思わなくなっていた。二人が浮気していようと、身体の関係があろうとなかろうと、私の知った事ではない。
けれどその様子を遠目で見て素通りしていても、オデットはわざとらしく大声で私を呼び止めるのだ。
「グラティア様!これは違うんです!私と殿下はただけ普通にお話していただけなのです。そんな怖い目で見ないで下さいっ……」
「グラティア、どうして君はいつもそんななんだ?オデットにもっと優しくしろ!人に優しくできない不誠実な者が、この国の王妃として国民を導けると思うな!」
二人はそうやって私を責めたてた。婚約者がいる身でありながら、違う人と身体を寄せ合い語らう二人のほうが不誠実であり、何が違うというのか。ヒューバート殿下も私が睨んでこちらを見ているのがあたりまえだと、オデットの発言がおかしいと思いもしない。会話が成立しない相手と、話をするのは時間の無駄である。
そういう時私はきまって「二人の邪魔をするつもりはありません、失礼いたします」と、にこやかに微笑んでその場を後にしていた。
その後も必ず二人は声を荒げ何かを喚いていたが、無視を決め込む。普通なら邪魔者が退散して喜ばしいことなのではないだろうか。恋人の浮気に手もあげず、何も口出しをしない方が珍しい。寛大な処置をしている私に感謝してほしいくらいだ。
それに、私は彼を責める事はできない。いくら婚約者がいるとはいえ、誰かを想う気持ちは止められるものではないと分かっているからだ。何故なら、私にも彼の様に慕う相手がいた。けれど私の大切な人は、もう生きていない。彼は私を庇い命を落としたから。