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その日、グラティア・ミュリオンは朝になっても目を覚ますことはなかった。
既に日は登っており、カーテンの隙間から光が差し込こみ、爽やかな朝の訪れを告げていてる。いつもなら目を覚まし、朝の紅茶を嗜んでいる時間のはずだが、グラティアの部屋からは物音ひとつしなかった。
グラティアは、ある日を境に眠っている姿を誰にも見られたくないという理由から、朝起こしにくる事も含め、人が近づく事を禁じていた。
多忙な身ではあったが寝坊する事もなく朝が来れば勝手に起き、行動していた。それは、どんなに体調が悪くても、辛い事があっても変わらなかった。そればかりか、着替えすら自分でしてしまう程で、それではメイドの立つ背がなく、貴族らしくないと指摘されたため、メイドを呼ぶ事を義務付けられた程である。
その条件をのむかわりにメイドを呼ぶまでは、グラティアの部屋に立ち入りをしない事がこの屋敷でのルールになった。
その日は特に予定のない休日だったという事もあり、いつもならグラティアがメイドを呼ぶ時間をとっくに過ぎていたが、誰も気に留めることはなかった。休日で疲れて普段よりも起床が遅くなっただと思われていた。たまにはゆっくり休んでほしいというのが屋敷の使用人たちの総意だった。彼らにとってお嬢様は大切な存在である。たまには甘やかしたくなるものだ。わざわざドアをノックして起こすのも忍びない。食事の時間が近くなったら自然と目が覚め、呼ばれるだろうとそのままにしていた。
しかし朝食の時間になっても、部屋から全く物音がしない事から、これはおかしいと、側付きのメイドのドロシーが様子を見に行く事となった。
「お嬢様、起きていますか?」
ドアを軽くノックして声をかけても物音一つしない。しばらくそんな事を繰り返すが、変わらず反応はないままだった。
「お嬢様、失礼します」
ドロシーは意を決して部屋に入る事にした。ここまで呼びかけても応答がないのは、体調が悪く倒れてしまっているのではないかと、一抹の不安がよぎったのだ。
「お嬢様、朝食の時間ですよ。もしかして、体調が優れないのですか?」
再度声をかけるも、反応はないままで、そっと顔を覗き込むその動きは、遠慮がちなものだった。グラティアは寝顔を見られたくないと常々言っていた。寝顔を盗み見る様な真似をするのは、多少の罪悪感があったのかもしれない。
艶のあるアイスブルーの乱れた髪をそっと整えれば、彼女の寝顔があらわになる。
瞳は閉じられたままで、瞼から生える長い睫毛は微動だにしないが、顔色は悪くない。その様子からただ眠っているだけだとドロシーは判断したのか、起こすため布団を剥がし、そっと体に触れた。そして直ぐにドロシーの瞳が驚愕に開かれる。
何故ならグラティアの身体は、死んでいる様に冷たかったのだ。
「いやっ……!グラティアお嬢様!しっかりしてください!」
ドロシーの悲鳴にも似た叫び声がした事で、異変に気づいた他のメイドは血相を変えて部屋に飛び込んできた。そしてグラティアの異変を伝えるや否や、瞬時に人を呼びに行った。屋敷の中は騒然としていた。
寝ていると思っていたはずの、グラティアの身体は冷たく、ぴくりとも動くことはなかった。ドロシーはその間も絶えず呼びかけていたが、瞳が開けられる事はない。いつもならその桃色の双眸が柔らかな光をたたえているはずなのに。
「グラティアお嬢様、グラティアお嬢様」
ドロシーは、グラティアの細い肩にそっと触れ揺らすが、やはりグラティアは動かない。呼びかけにも応じず、瞳は変わらず閉ざされたまま、生きているのか不安になる程。
それでも諦めず呼びかけるドロシーがいる部屋の前が騒がしくなった。扉が勢いよく開かれると、そこにはこの屋敷の主人であり、彼女の父であるゴードと、母のジェーンが駆けつけた。その側にはお抱えの医師がいた。
「娘は無事なのでしょうか?」
ジェーンは青ざめた顔で医者に問いかける。
「死んだように冷たいが心臓は動いているので生きているとはいえるでしょう。しかし目覚めないのは何らかの魔法や呪いにかかっている可能性が高いでしょうね」
「呪いですって?そんな……」
腰を抜かし倒れるジェーンを支えるゴードは、厳しい表情をしたままだ。
「その呪いの原因は分かるのでしょうか」
「生憎呪いや魔法は医者の専門外です。詳しい専門家を呼んで確認が必要かと」
医師はお手上げといった様子だ。初めて見る容体に、普通の医師では太刀打ちできないと判断したのだ。魔法や呪いについては生業にしている魔術師を呼んだ方が早い。
娘がこの様な事になり、ただでさえ気が動転しているというのに、医師にどうすることもできないと言われてしまった彼らの心情は計り知れない。困り果てた二人は、顔を見合わせた。
「どうしてこんな事に……」
「グラティア……この間も、辛いことがあったばかりだというのに、どうして娘ばかりがこんな辛い想いをしなくてはならないの!」
「魔術に長けた者を呼ばなくてはならないな。大事にはしたくなかったが、王家に力を借りよう」
二人が嘆いていても、彼女の瞳は閉じられたまま変わる事はなく、人形が横たわっているかのように微動だにしない。微かな胸の鼓動だけが彼女が血の通った人間である事を示していた。
それから間も無くして、王家の紋章の入った馬車が屋敷へと到着した。
馬車から降り立ったのは、王宮の魔術師であることを示すローブを身にまとった壮年の男だった。
居ても立っても居られなかったゴードとジェーンは屋敷の外で待っておりすぐに男に駆け寄る。
「本日は、朝から急にお呼びだてして申し訳ない」
「いえいえ。陛下の頼みですから構いませんよ。それに殿下の大切な方ですから。彼も心配で共にきているのですよ」
魔術師の言葉を聞き、馬車の方を見ると、丁度ヒューバートと共に護衛騎士が降りるところだった。ヒューバートは彼女の婚約者であり、この国の王太子である。いつもは整えられている美しいシルバーの髪が乱れている様子から、ヒューバートの焦りが感じられる。
「ヒューバート殿下まで、お越しくださるとは……。急なことで何のもてなしもできないのですが」
「彼女の事が心配で、居ても立っても居られず……。先ぶれもなくすまない」
「いえ、娘もきっと喜びます」
軽く挨拶をするものの、皆の表情は晴れない。それもそうだ、娘が、婚約者が得体の知れない呪いにかかっている最中、楽しく談笑できる者などいないだろう。
「そして、彼女はどちらに?」
挨拶はそこそこに、ミュリオン家の執事が、グラティアのもとへ魔術師を案内する。そして直ぐに容体を確認することとなった。
その間、別室にて両親の二人はヒューバートと護衛騎士と共に魔術師が戻るのを待った。緊迫した様子で誰も口を開こうとする者はおらず、一分一秒が長く感じられた。用意された茶に手をつけることもせず、部屋はしんと静まり返っていた。
どれくらい経ったのか。扉が開かれ、執事に連れられて魔術師は部屋へ通される。皆の視線が魔術師に向かう。何と話すのか、口を開くのを片唾を飲み見守っていた。
「グラティア様はあまりよくない状況です。魔女の秘薬を飲まされているようです。その影響で眠りから醒めないのではないかと。人に感染する様なものではないので、その点は安心してください」
「魔女の秘薬だと……どうしてそんなものが?」
その呟きはゴードの口から発せられたものだ。
魔女の秘薬——。
それは魔女にしか生み出すことのできない強力な薬。依頼人の願いによって様々な効果があり、呪いにも祝福にもなる。その分高価で手に入りにくい代物だ。
秘薬の効果を解除するには、魔女が決めた特別な方法か、依頼人にしかできないという厄介なものなのだ。その時点で魔術師は勿論、医師にできる事はほぼないと言っていい。
魔術師はそっとメガネを拭き、彼女の両親へと向き直る。
「彼女は誰かに恨みを買う様な事はなかったですか」
「そんなはずはありません!グラティアはヒューバート殿下の婚約者として、未来の王妃として相応しく妃教育にも懸命に取り組んでいました。人付き合いも問題ありません。それなのに、どうしてこんな事に……」
「どこに出しても恥ずかしくない娘です。まさか、魔女に呪われるような事が起きるなんて」
ゴードは青ざめたジェーンの肩にそっと手を回す。魔女は気まぐれで難しい生き物だ。そんな者からの呪いをかけらる程恨まれていたなんてと、信じられない気持ちで落ち込んでいる。魔女に依頼してまで娘を消したいという憎い気持ちを持つ者がいたことへ気づかなかったことはそうだが、もっと娘の希望を叶えてあげる気遣いがあってもよかったのではないかと、話せなくなって初めて後悔の念に苛まれていた。
「悪戯にしては度が過ぎている。誰がこんなことを」
ヒューバートもそんな呟きを漏らし、俯いた。いくら王家といえど、魔女との繋がりは薄い。魔女はひっそりと暮らす者が多い。作成者である魔女を特定し、秘薬の効果をなかったことにしてもらうのは至難の業だろう。悠久の時を生きる魔女は気まぐれで、例えその魔女を特定し依頼できたとしても、本当に解術してくれるとは限らない。
グラティアが目を覚ます可能性は、絶望的ともいえた。
「もし可能ならば、グラティアに会えないだろうか」
「ええ、意識がなくても、娘ならきっと喜ぶと思います」
いくら眠っているとはいえ、年頃の男女を二人きりにさせるわけにはいかない。皆でグラティアの部屋へと向かった。
「グラティア……」
変わらずグラティアはぴくりとも動かない。ヒューバートが触れた彼女の手はひんやりとしていて、本当に生きているのが不思議なくらいに思えた。
その手に恐る恐る口付けるヒューバート。将来を約束する二人が触れ合っても、彼女の瞳が開く事はなかった。魔女の呪いはそう簡単には解けないものなのかと、ヒューバートも周りの皆も理解した。少しだけ二人が触れ合えば目が覚めるのではないかと、期待していた両親は肩を落とした。
誰もがグラティアの今後を憂いていた。
「グラティア、どうしてなの!もう直ぐ殿下と結婚して、王妃になれるはずなのに……」
泣き喚くジェーンと、その母を宥めるゴード。
ヒューバートは黙り、グラティアを見つめたままだ。いったい何を考えているのか分からない護衛騎士も、その様子をただ見守っていた。