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豆太のいた三週間1

 初夏のある日、我が家に猫が来た。

 誰かが買ってきたわけではない。拾ってきたわけでも、貰ってきたわけでもない。というより飼い猫としてここに来たのではない。ただ暫くうちで預かるために、連れてこられることになったんだ。

 この猫はお母ちゃんが連れてきた。確か名古屋地域猫の会、だったかな、そんなようなボランティア団体に入っている友達から頼まれたと言っていた。この団体は、公園に住み着いている野良猫に餌を配ったり、去勢されていない猫は捕まえて去勢手術をしたり、そして今回我が家に来た猫がこれに当たるんだけど、明らかに元飼い猫で人間に慣れていて何らかの事情から公園にやってきた猫を保護し新たな飼い主を探す、といった活動をしているそうだ。一週間ほど前そんな猫が千種公園で見つかった。公園に餌やりに行った人から、最近妙に人懐っこい(多分)雄の猫が現れた、ひどく痩せてはいるが去勢手術もされているようだし何よりも人間に対し警戒感がない。自分たちが公園に行くと必ずすり寄ってくる、どう見ても元飼い猫としか思えない、おそらく捨てられたか(ちょっと考えにくいけれども)飼い主の家から脱走したのかどちらかなのではなかろうか―――とのことだった。

 そういう事情だったら早めに保護しなければならない。公園内にはずっと前から住み着いている野良猫が沢山いる。そしてそうした猫たちは新参者を快く迎え入れたりは決してしない。もしこの公園に流れてきた猫がここに落ち着こうとするならば、古株たちに対し実力で自分の居場所を確保しなければならない。しかし野生を大方失くした元飼い猫がそうした猛者連中に対抗することが出来るだろうか。勿論無理だ。その証拠に、この猫がここに現れてからおよそ一週間になるんだが日に日に痩せていっていると言う。一応餌は公平に配ってある、けれど他の猫たちから邪魔をされてちゃんと食べられていないのではなかろうか。野良猫社会もことほど左様によそ者に厳しい、実力主義の社会なのだ。仮にこのままあの猫が何とか生き残って公園内で生活できるようになったとしても、野良猫同士での病気の移しあい、喧嘩などが横行する、水たまりや側溝の不潔な水を飲む、腐敗したようなものを口にする、そんなことが日常化してしまう。加えて夏の暑さ、冬の寒さ、容赦を知らない風雪雨、野良猫の平均寿命は飼い猫のそれの半分くらいだと言う。野良猫は自由で羨ましい、と考える人もいるかも知れない。確かに結構楽しく暮らしている野良猫もいるだろう。けれど元飼い猫にしてみれば修羅の世界なのではなかろうか。さらに元飼い猫には恐るべき敵がいる。それは我々人間の中の一部の者、野良猫に意図的に危害を加えようとする連中だ。勿論そんな人間はごく少数であって、その出現は杞憂と言っていいほどの確率なんだろう。しかしそれでも確実に存在するんだ。もしそのごくまれな偶然があって、元飼い猫がその人間にすり寄って行ったとしたら、結果は火を見るよりも明らかだ。蹴り飛ばされて脚の骨や肋骨を折るか、運が悪ければ首でもちょん切られることになる―――こうした状況を鑑み、様々な可能性を考慮した結果、会の方で一旦保護し、病気の有無を調べ、問題がなければ会員が自宅で面倒を見、これなら飼い猫として大丈夫と目途がついたら定期的に開催される譲渡会で飼い主を探す、ということになった。

 早速かの(おそらく)元飼い猫は手慣れた会員によって確保され、一旦預かることになっていた会員宅へ……ところがここで問題が起こった。預かり猫を受け入れることになっていた会員さんの都合が悪くなってしまったんだ。何でも急に自分の母親の介護が必要になったために、毎日本郷の実家に通わなければならなくなったらしい。本郷だから近いといえば近いんだけど、それでもこれが毎日となると猫を預かることは難しかろう。それで誰か別の会員に頼もうとした。しかし生憎と受け入れられる会員がいなかった。そこで同じ翻訳家仲間であるお母ちゃんに泣きついた、というわけだった。


         *    *    *    *    *    *    *


 猫がやってくる日の前日、お父ちゃんとお兄ちゃんがいない時、大きな荷物がリビングに持ち込まれた。小さな檻を畳んだようなものだった。『これ組み立てとくれん。猫用のケージだでね』お母ちゃんが言った。猫用ケージったって組み立て方なんて分からない。我が家ではペットなんか飼ったことがないんだし。自分でやればいいのに。『早よやりん。やり方も書いてあるだらぁ』責任を放棄している。やり方って言っても、金具が入っている小袋に角とか側面とか書いてある付箋が貼ってあったり、分解されたいくつかの柵に上中下とか書いてある紙が括り付けてあるだけだ。お姉ちゃんは猫が来ることを楽しみにしているんだけど、ケージの組み立てには関心がない。“ノラや”という本を読みながら知らんぷりをしている。仕方がないから今いない二人のうちどちらかが帰ってくるのを待つことにした。

 お兄ちゃんが先に帰ってきた。早速ケージの組み立てをお願いした。猫が来ることを特に楽しみにしてなさそうなお兄ちゃんは、『これぐらい自分たちでやりゃあよ』とぶつぶつ言いながらもすぐ取り掛かってくれた。でも流石はお兄ちゃんだ、あれよあれよという間に組み立ててしまった。成程、こうなるのか。このケージは二階建、二階は一階の半分の広さ、その分吹き抜けになっている。猫用だけあって、当然階段なんてない。飛び上がったり飛び降りたりして上下を行き来するんだろう。お便所は一階にあり餌と水用のお皿二つも同様、見た目なかなか広々としている。ただここに来る猫の大きさにもよるだろう。お兄ちゃんは組み立てが終わると直ぐにお風呂に行ってしまったけれど、僕はこのケージを見ながらちょっとわくわくしてしまった。きっと僕自身も楽しみにしているんだろう。

 いつもより少し遅めに帰宅したお父ちゃんは、『ほう、これが猫ちゃんの家か』と嬉しそうに眺めていた。お父ちゃんも楽しみにしているようだ。だから僕は、もうちょっと早く帰ってきたらこのゲージの組み立てが出来たのに、と言ってやった。そしたら『それはいいよ。どうせあいつが組み立てたんだろう?あいつにやらせとけばいいさ』だって。相変わらずの横着者だ。『明日、そのネコチャンが来るでね、あんたも協力しりんよ』お母ちゃんがそう言うと、『ああ、勿論だ、任せとけ』となかなか調子がいい。『まあ、日頃世話になっとって仕事もちょくちょく回してくれとる友達に頼まれたもんで、仕方なく引き受けたんだけどが、ほんとに憂鬱だわ。ペットなんて飼ったこともないし。餌とかはどうしたらええだかしゃん。まあトイレはちゃんとしとるそうだけどね、猫は。だであんたやちびちゃんも頼りにしとるで、手伝っとくれんよ』いろんな心配事を口にする。お母ちゃんは義務感の方が勝っているようだ。猫を預かるにあたってお母ちゃんは地域猫の会に入ったそうで(でなきゃあ預かることができない)、なかなか責任感があるんだね。

 

          *    *    *    *    *    *    *


 豆太――我が家にやってきた猫の名前――がやって来た日、やっぱりお父ちゃんとお兄ちゃんがいないときだった。事前に獣医さんに診てもらって病気がないことを確認した後、ペット用のキャリーバッグに入れてお母ちゃんが連れてきた。ちなみにこの命名だけど、お姉ちゃんの意向だ。お母ちゃんは昔の漫画の登場人物の“チビ太”にしようとしていた。ところがお姉ちゃんが、やっぱり何かの絵本の主人公の名前である“豆太”にしようと言い張った。そのため二人して仲良く喧嘩した結果、お母ちゃんの方が折れてこの猫の名前が豆太に決定したという訳だった。

 キャリーバッグの格子越しに見る豆太は少々不機嫌そうだった。狭いかごの中に押し込められているんだし、あっちこっち連れまわされて来たんだろうから仕方がない。バッグを受け取ったお姉ちゃんは喜んで、その扉を開けると立ったままいきなり豆太を抱き上げた。まだ慣れても懐いてもいないのにそんなこと、引っ掻かれるんじゃなかろうか、僕はえぇっ!と声を上げ、お母ちゃんも目を丸くして両手を口に当てた。ところが豆太ははじめのうちこそ迷惑そうだったけど、『可愛い子ねぇ、いい子いい子、マメちゃーん』なんてお姉ちゃんから抱きしめられたり頬ずりされたりしているうちに段々と大人しくなり、『じゃあ早速お家に入りましょうね』と言われそのままケージの中に無抵抗で入れられてしまった。

 こうして晴れて我が家の住人になった豆太は、比較的大柄だけど随分痩せて少し毛並みの乱れたキジトラの雄猫だった。明るいうちは細い黒目の怪猫顔、けれど暗くなると細かった黒目も円く大きくなって可愛い顔になる。お腹には余分な皮みたいなものがぶらぶらしていた。後で聞いたら去勢手術の痕らしい。要するに空の金玉袋ということになる。このことを聞いてちょっと可哀想な気がした。年は二三歳で人間にしたら三十前くらい、とのことだった。

 お姉ちゃんはその後も豆太にケージ越しにちょっかいをかけたりしていた。しかしとうとう我慢できなくなったのか、豆太をゲージから出して抱いたり撫でたりと猫可愛がりだった。お母ちゃんはケージから出すことはやめてほしいみたいだったけど、お姉ちゃんへのあまりの懐きように安心したようだった。僕も少し抱っこしたりなでたりということをさせてもらった。でもお姉ちゃんのレベルにはまだまだだった。というか、お姉ちゃんが特別なんだろう。

 だからかも知れない。お姉ちゃんから餌をもらった豆太は旺盛な食欲を見せた。新しく取り換えられた水もよく飲んだ。いくら元飼い猫と言ってもこれは尋常なことじゃない。ケージの中で乾燥餌をカリカリと食べている豆太を見ながら僕(とおそらくお母ちゃん)もそう考えていた。『こんだけ食べたらどっさりとウンコするだろうで、その世話もあんた、やっとくれん』お母ちゃんがそう言うと、お姉ちゃんは『えー、あたしにはそれ無理。ちびちゃん、あんたがやっておいて』すぐに僕はその役目を引き受けるとこたえた。

 お父ちゃんが帰ると真っ先に豆太のところに行き、『おお、ネコちゃん、いらっしゃい』とはしゃいでいた。そしてケージの外からいろいろとちょっかいをかける。残念なことに豆太はお父ちゃんにはあんまり反応しない。それでもお父ちゃんは手を変え品を変え豆太の関心を引こうとする。仕舞いにはゲージの外に出していいかとお母ちゃんに頼んでいた。すでにお姉ちゃんが自分の部屋に引っ込んだ後だったので、お母ちゃんはこの申し出をすぐさま突っぱねた。お父ちゃんはすごすごとお風呂に向かった。でも多分これが普通なんだろう。ただお父ちゃんも妙に熱心だから、そのうちきっと豆太も懐くでしょう。

 その後帰ってきたお兄ちゃんは、『おお、猫、よう来た。ゆっくりしてきゃぁよ』と言ってお母ちゃんに夕飯を頼んだ。用意してもらった晩御飯を美味しそうに食べているお兄ちゃんにお母ちゃんは、猫の名前は豆太であること、それから餌のことやトイレのことなんかをこまごまと説明し、協力を要請していた。そしてお兄ちゃんはその話を真面目にふんふんと聞いていた。

 翌朝、起きて一日の準備をしてリビングに行くと、朝食を終えたお姉ちゃんがもういた。そして昨日のように豆太をケージから出して、寝そべっている豆太を撫でていた。呆れたことに、豆太は仰向けに横になってお腹をお姉ちゃんに撫でてもらっている。昨日の今日でこんな風になるんだろうか。僕は試しにお姉ちゃんに頼んで豆太のお腹を撫でてやろうとした。すると豆太のやつ、僕が手を伸ばしたらくるりと起き上がりお姉ちゃんの膝のところにすり寄って行った。自分がお父ちゃんと同程度なのかと考えると、ちょっと癪に障った。お姉ちゃんは、ほほほと笑っていた。僕は豆太を撫でるのは諦めて朝ご飯の席に着いた。そしたらお母ちゃんが配膳をしながら、『そういえば今日の朝早くにね、お兄ちゃんが豆太のウンコの世話しといてくれたげなよ。いいウンコだったって言っとったに。お兄ちゃん、朝が早いでね、第一発見者になっちゃったんだわねぇ』と嬉しそうに話してくれた。けれどもこんな話、食事の最中にしなくてもいいんじゃなかろうか。


          *    *    *    *    *    *    *


 豆太はその後すぐに我が家になじんだ。常時ケージの外で生活するようになり、リビングを自分のテリトリーと定めた。部屋の中を隈なく探索し、置いてあるピアノやシステムキッチンなんかにしばしば体を擦り付けている。マーキングというらしい。リビングを一通り調べ終わると、今度はリビングを出て行くようになった。そうさせないために戸はいつも閉めてあったんだけど、人が出入りするところを観察していたんだろうか、自分で前脚を使って上手に戸を開けるようになったのだ。勿論これは引き戸に限られる。開き戸は流石に無理だからね。この技術を使って、豆太は一階各部屋の探索を始めた。洗面所、風呂場、玄関、和室、お母ちゃんとお父ちゃんの部屋は残念ながら開き戸だから入れない。こうやってテリトリーを拡げていった豆太は、一階部分だけでは飽き足らず階段を上ることまでマスターし、二階の各部屋にまで侵入を企てるようになった。二階には僕ら兄弟の三つの部屋がある。そしてお姉ちゃんの部屋だけが開き戸だ。だから僕とお兄ちゃんの部屋が豆太のテリトリーに組み込まれてしまった。こうして豆太の領土が確定した。(そのため不要となったケージは再び解体された。その仕事は勿論お兄ちゃんが引き受けた、いや、やらされた。お兄ちゃんはぶつぶつ言いながらも律儀に分解作業をして、その上次回組み立てやすいよう丁寧に縛ったり梱包したりしてくれた。こういうことはお父ちゃんには絶対無理だ。)

 豆太は昼間ほとんど寝ていたらしい。平日の日中、大抵一人で豆太と過ごしていたお母ちゃんが言っていた。『朝あんたたちが出てった後、ナデナデをせがんできたり、やってもらって飽きたらふらっと別の部屋に行ったりして、暫くは一人で遊んどるんだわ。そのうちこの部屋に戻ってきてね、その頃あたしはパソコンに向かって仕事しとる、そこで隣の椅子に上がって寝転がって、まあ気楽なもんだわ。けどが、ほっからはそのまんまでずぅっと寝とるじゃんね。だもんで楽なんだわ、あたしとしては。昔の作家がよう猫飼っとったげなけど、その理由わかるわ。近くにおっても邪魔にならんし、疲れた時にその寝顔を見ると慰みになるし、これはええに』とのこと。結構なことです。

 そのかわり特に平日は、豆太は夜中に活発に行動しているらしい。家の皆が寝静まったころ、豆太は活動を開始する。もうすでに暑くなったころだったから、豆太のためにリビングは一晩中エアコンが効いていた。そんな快適な部屋を出て、豆太は家じゅうを探検していたと思われる。静まり返って真っ暗な家の中を、まん丸い瞳で周囲を探照しながら忍び歩きで歩き回っていたんだろう。当然その中には僕やお兄ちゃんの部屋が含まれていたはずだ。その証拠に、大体いつも朝僕の部屋の引き戸が微妙に開いていたのだから。僕は全く知らなかったんだけど、お兄ちゃんは豆太の侵入に早くから気づいていたそうだ。『奴さん、よう来とったよ。多分レム睡眠の時間帯だと思うけどが、入って来たのが分かったわ。襖がすぅーと開いたり何かがすとんと下りる音がするもんで。そこいらへん歩き回ったり机やら戸棚の上に上がったりしとるに違いないて。いっぺん俺の腹の上に乗っかとったことがあってな。俺にしては珍しく悪夢を見たんだわ、だで夜中に起きてまった。目ぇ開けたらおるがね、腹の上に。ほりゃ夢でうなされるわ、迷惑な話だがや』お兄ちゃんはぼやいていた。けれどその時は、豆太があんまり気持ちよさそうに寝てたのでそのままにしてやったそうだ。相変わらず気のいい男。だからなのか、特に構ったりするわけでもないのに、お兄ちゃんに豆太は妙に懐いていた。

 

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