第18話 真実と選択
「ア、ケノ……」
はじめて舌を動かして言葉を発したような、たどたどしさ。黒墨の影の中からあらわれたモノが、そう言った。
膝下まで伸びた黒髪が、風も吹いていないのにざらりと揺れた。ヒトなのかケモノなのか、なんと呼べばいいのか迷うソレが首を傾げて嗤っている。
真っ赤な目を細めてニタリと嗤うその顔には、無垢な幼な子のような初々しさや清浄さはなく、邪悪な影が滲んでいた。
「ひ、ひと……? な、なにかお召しものを……」
朱乃が、着物もなにもまとっていないソレに向かって、ふらりと一歩、踏み出した。
今は雨季。雨が降っていなければ蒸し暑いほどではあるけれど、このままでは風邪を引いてしまう。という、朱乃の気遣いだ。
否、禍獣がまとう墨色の炎の芯が、ヒト型のイキモノであったことに対する現実逃避だった。朱乃は混乱のあまり、自分が持っている常識の範囲内でソレに接しようとしているだけ。
そんな朱乃の肩を、璃人が押さえて引き留めた。
「朱乃さん、いけない。無闇に近づくのは危険だ」
「璃人さま、でも……あの方、わたしの名前を呼んだのです」
眉尻を下げた困った顔で訴える朱乃に、今度は狼軌が首を横に振る。
「やめとけよ、朱乃。アレは人じゃねぇ、禍獣の皮を脱いだだけ。禍獣は禍獣だ、それ以外にはなれすはずがない」
「狼軌さま……それでも話せるのなら、会話を試みたほうがよいのではないでしょうか」
もしかしたら、お腹が空いていただけなのかもしれない。と、どこまでもお人好しな朱乃は、アレとの会話を諦めきれない。
話せばわかるはず。というのは、朱乃にとって夢であり幻想でしかない。
叔父夫婦の理不尽な振る舞いを、ただ受けることしかできなかった朱乃は、話しても理解し合えない他人がいることを身を持って知っているからこそ、会話して理解し合うことに拘った。
そんな朱乃の必死さに、樹那が短く息を吐く。
「朱乃さんは優しいね。でもアレが朱乃さんの名前を呼んだのは、ただの反射かもしれない。アレが安全かどうかわからない以上、不用意に近づかないほうがいい」
「樹那くんまで、そう言うの? でも、でも……!」
璃人にも、狼軌にも、樹那にも。朱乃の思いは、誰にも理解されない。否、三人は帝候補として厳しい現実を見つめているだけ。
けれど朱乃が自分の運命と役割を知ったのは、昨日今日のこと。二日連続で禍獣に襲われ、慣れない環境に身を置く朱乃の考えが、夢見がちになってしまうのは仕方のないこと。
選定者という、玄狼国にとって特別な存在になってしまった朱乃が、焦って無理をして考えた末に導き出したのは。
(さっきの光が、女神の末裔である選定者としてのわたしの力なら……わたしが責任を持つべきなんじゃないのかな……)
という答え。
使命感に駆られた朱乃は、ゴクリとひとつ唾を呑み込んだ。そうして、紅金魚の簪をぎゅうと両手で握りしめ、ふらりと一歩、前へ出る。
ニタリと嗤うソレが、つたない発音で朱乃を呼んだ。
「アケ、ノ……アケノ……」
首をのそりのそりと左右に傾けながら、朱乃を呼び寄るように手招きまでして。
朱乃は招かれるように、引き寄せられるように、ふらりと一歩、足が出る。
「朱乃さん、ダメだ。君をアレのもとには行かせられない」
「璃人さま、お願い。一度話をさせてほしいの……」
朱乃を引き留める璃人の声が、遠い。朱乃を束縛する璃人の腕が、わずらわしい。
早く、早く、話をしなければ。そばへ行って侍らなければ。と、アレの声を聞くたびに、真っ赤な視線を浴びるたびに、朱乃の思考にモヤがかかり、思考が誘導されてゆく。
「あけの……朱乃……」
ソレの発声からぎこちなさが消えるのと、瑶慈が奥ノ宮に駆けつけたのは同時であった。
「朱乃様、いけません! 禍獣が人語を話したことなんて、今まで記録されていないんですよ。皇家の史書にないんです、アレは危険だ」
ピシャリと落ちる雷のような鮮烈な瑶慈の声。朱乃はハッとした。
そうして、アレとの距離を詰めようと、璃人の腕の中でもがいていたのをやめた。
正気に戻った朱乃を見て、ソレが首を傾げた。
「ふ……ふふふ、ははは!」
ゾッとするような嗤い声。瑤慈を見たソレが、八重歯を剥き出しにして目を細める様を朱乃は見た。
「オ前ハ、哀レな存在だ。帝ノ子であるノに、天狼に変化すルこともできナイ」
「っ! それをどこで知った」
瑶慈の声が震えていた。
事実、瑤慈は帝の子。唯一の子だ。
けれど、瑤慈が天狼に変化する力を持たず生まれてきたことで、一二〇年続いた王朝の限界が見えた。
故に、瑶慈は次の帝になることはできず、選定者が選んだ次代の帝に仕える臣下になるより他にない。
その事実を朱乃は知らなかったから、ただ純粋に瑶慈の正体に驚いた。
「……え? 瑤慈さまが……皇子殿下?」
「哀レで、役立たズノ子よ。オ前ニ用はナイ。新たナ帝ヲ選定すル、朱乃よ」
「は、はい」
発音に独特な響きが残るものの、流暢な言葉遣いで呼ばれた名前に、朱乃は思わず返事をしていた。
返事をして、三日月型に歪む赤い目を、真正面から見つめてしまう。すると再び、朱乃の頭にモヤがかかる。
「オ前が、我を形造っタ。オ前が望むナラ、猫ノ姿にも成ろウ」
ソレはそう告げると、なんの前触れもなく黒猫の姿に変化した。
黒く艶やかな毛並みと、猫らしい黄色い目。愛らしい四肢を伸ばしてから、朱乃の前までとことこ歩き、ちょこんと座った。
「にゃぁん」
黒猫はひと鳴きすると、小さくしなやかな体を丸めたかと思うと、ぴょんと朱乃の腕に飛び込んだ。
朱乃は黒猫が禍獣であることも忘れて、しっかと抱き止める。焦ったのは璃人たちだけ。
「こいつ……っ! 朱乃さん、ソレを放すんだ!」
「で、でも……でも、本当にただの可愛い子猫ですよ?」
黒猫は朱乃に甘えるように目を細め、腕やら手やらに額を擦りつけている。
禍獣の形態のときは大きいと感じたけれど、今は小さい黒猫の姿。そういえば、雨に打たれていたときは、もっと小さかったような気がする。
そう思った朱乃は、黒猫の顎の下に生える柔らかな毛を人差し指で擽りながら、
「ねえ、あなた……生まれたばかりなの?」
「ソウだ。朱乃が我を選ぶなラ、朱乃ノ為に生きよう。朱乃、我は朱乃を救いたイ」
「……どういうことなの? わたしを救うって、なんの話?」
黒猫の口から突然出てきた物騒な言葉に、朱乃の眉間に皺がよる。
「朱乃、皇権移譲ノ儀を行っては、いけなイ。アレは女神を降ろす儀式。朱乃ノ自我が吹キ飛ぶゾ」
「出鱈目を言うな! そんなことは……」
声を張り上げたのは、狼軌だった。けれど黒猫はニタリと嗤って首を傾げるだけ。
「ナイ、と言い切れナイだろウ? そうだろう? 帝ノ子よ」
「……っ神祇官、なんとか言ってくれ!」
「そうだよ、神祇官。儀式を行うと朱乃さんの自我が消えるなんて、嘘だよね?」
「……っ、それは……」
「嘘でしょ、否定しないの……」
気まずそうに俯く瑶慈の姿に、樹那の顔が青褪めてゆく。
「朱乃、君が我を選ぶなラ、そんな残酷なコトはさせなイ。我は朱乃が好キだ。愛されタイ。だから、君ノ屋敷を壊した」
「え?」
「朱乃ハあの家から解放されたがってイタだろう?」
「わ、わたし、は……っ」
息が苦しい、喉が乾く。朱乃は、猫の言葉を否定できなかった。
視界が暗い、身体が震える。朱乃は自分が抱いていた邪な思いが、叔父夫婦や敬史を死に追いやったことを知ってしまった。
「我を褒めてクレ、朱乃。朱乃ノ為にシタ」
黒猫が得意げにそう言った。朱乃に褒められたくてしたのだ、と告げる無邪気な声が、鋭い刃となって胸に刺さる。
朱乃が黒猫に縋るように、ぎゅうと強く抱きしめる——
「朱乃さん、いけない!」
「あっ……!」
その腕を、璃人が掴んで振り払った。璃人が朱乃の腕から黒猫を払い除けたのだ。
くるりと空中で姿勢を整えた黒猫は軽やかに着地して、シャー! と璃人を威嚇する。
黒猫の逆立つ毛並みを何度も瞬きをして見つめながら、朱乃は自分が璃人に抱きしめられていることを知った。
なんて、熱い。朱乃の心臓が再び激しく燃え出した。
頭の中に広がっていた霞かモヤは、燃える焔が吹き飛ばしてしまったかのように鮮明だ。
「り、璃人さま」
「朱乃さん、こんなときに言うべき言葉じゃないのは、わかっている。けれど、聞いてくれるだろうか」
「は、はい」
「朱乃さん、どうか俺を選んでください」
朱乃をぎゅうと抱きしめる璃人から、切実な声が漏れた。
「方法は……方法はわからないけれど、君の自我が消えない方法を必ず見つける。……いや、違う。違います、そうじゃなくて……」
璃人は一度言葉を区切ると、ふるりと左右に首を振る。それから呼吸を整えて、朱乃の耳に囁いた。
「君を誰にも渡したくないんだ。誰にも奪われたくはない。だから俺を選んでください。——愛しています、朱乃」
璃人か、黒猫か。
選択を迫られた朱乃は、紅金魚の飾り簪を握りしめ、自分の心臓と呼吸の音を、ただ冷静に聞いていた。
そして——。
——第二章・完——
第二章・完です!
第三章(最終章)は、夏頃再開予定です。よろしくお願いします!
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