第07話 お兄ちゃん、ありがとう
「…………!」
るなは、目が真ん丸くなるほど開き、この世にこんなものがあったのかと言わんばかりの顔で、カタログの束を掲げ持った。
「よく聞きなさい、るな」
そういって僕は、るなの前に正座した。別に正座する必要もないんだけど、まぁ、儀式的な感じで。るなも僕にあわせ、自分の前にカタログを置いて、ささっと正座した。
僕はそのるなの前に、人差し指と中指を、いわゆるピースサイン、またはチョキと呼ぶ形に立てて突き出した。
「このカタログの中から、好きな服を二着選びなさい。昼間着る服と、夜、眠るときに着る服の二着。……もちろん、るなが嫌じゃなかったら、なんだけど」
その服を着ていないと性能が落ちるとか、都合が悪いとか、あるかもしれないしな。
「え……?」
言葉を失い、きょとんとした顔で僕を見つめる。
「ここからが大事なところだよ」
そう前置きして、僕は出していた二本指から、中指を折りたたんだ。
「僕の懐具合から考えて、予算は送料込みで一万円以内。カタログが違うと会社も違う。会社が違うと送料も別にかかるから、そこは注意するように。予算オーバーはビタ一文許さないけど、予算以内なら下着や小物とかも買っていいから、うまくやりくりしなさい。わかったかい?」
そんなに厳しく制約をかけるほど僕の懐財政が逼迫しているわけじゃないけど、社会生活をおくるにあたって、金銭感覚っていうのは大事なファクターだ。締めるとこは締めておかないといけない。
「ほんとにいいの?」
まぶしいものを見るような、るなの顔。
「るなは四六時中その服着てるだろ? 堅苦しい服着てる子と一緒にいると、なんか落ち着かないんだよね。だから、部屋じゃ普段着を着ててもらいたいと思って」
あくまでも、こちらの都合だというところを強調し、負担に思わせない作戦。
「別の服を着ても問題ない?」
「うん。この服は、ただの服だから別のにしても大丈夫なの。だから、とっても嬉しい」
るなはカタログを胸に抱いて、目を細めた。
「よし、とりあえずサイズを測ろう。まず身長ね。そこに立って」
「うん」
コンテナの側面にるなを立たせて、三角定規を頭のてっぺんに当て、マジックで線を引く。油性マジックだけど、こういうつやつやに塗装されたところにだと、いざとなったらミカンの皮で簡単に消せるから問題ないだろう。この時期、ミカンには事欠かないし。
「それをメジャーで、床から測る、と」メジャーの片側をつま先で踏もうとしたら、素早くしゃがんだるなが、それを押さえた。「お、サンキュ。……百四十センチジャストか。柱の……んぐ」
柱の傷はおととしのと歌いかけて、慌てて口を塞いだ。
るなにおととしはないし、来年はこの家に居ないかも知れない。そして、何年経っても身長が伸びることはないんだ。
「はぁ……」
ため息を吐きつつ、なんだか寂しい気持ちになりながら振り返ると、背後ではとんでもないことが起こっていた。
「こらこら待て待てぃ! 男の前で女の子が服を脱ぐもんじゃない!」
実際には前じゃなくて後ろでだったが、るなはあらかた服を脱いでしまって、下着以外では最後に残った着衣であるところの、ブラウスの首もとのボタンを、今まさに外そうとしている状態だったのだ。
るなの身体は隅から隅まで見ているが、剥き身のままで出現するのと、目の前で剥き身になりつつあるのとでは、やはり趣が違う。
「……お兄ちゃんの前でも、だめなの?」
「お兄ちゃんも男の一種だろ!」
「身体のサイズを測らなきゃならないんでしょう?」
「母さんを呼んでくる!」
「四時前に買い物に行くって言って出かけたけど、もう戻ってた?」
「……詰んだ」
幾重にも罠が仕込まれた爆弾を解体している気分だったけど、失敗したようだ。
「わかったよ、脱ぎな」
「……え? もっと脱がなくちゃだめ?」
「脱ぐんじゃないのか? て言うか、脱ごうとしてなかったか?」
「リボンタイが解けたから、結びなおしてただけ。これ以上脱ぐつもりはないよ?」
「……あ、ああ、そういうこと?」
ヴァンパイアロードにエナジードレインを食らったみたいに、どっと疲れた。
「じゃあ測るぞ。手を上げて」
るなの今の姿は、要するに裸ワイシャツ風だ。いくら下着を着けているとはいえ、真正の裸ワイシャツより丈が短いぶん露出が多く、太腿がかなり上まであらわになっている。しかも、手を上げたせいでブラウスの裾が持ち上がり、さらに露出度アップ。コールしてさらにレイズって感じだ。
ドキドキしながら、ブラウスの上からメジャーを回す。
しかし、ここにも落とし穴があったのだ。男の身体は硬いから測りやすい。でも、こんなふにゅふにゅした女の子の身体をメジャーで測るなんて、難しすぎる。力を入れれば入れるほどメジャーは身体に食い込んで、すぐに二センチや三センチはサイズが変わってしまう。
少しくらいは身体に食い込ませた状態で測らないと、動いているあいだに脱げてしまうだろう。でも、どれだけ力を加えた状態で測ればいいのかが分からない。
「ううんと、えっと……。ネットで調べたらわかるかな?」
しかし「女の子のサイズの測り方」なんて、どんなワードで検索したらヒットするんだ?
さらにその間るなをどうするか。風邪をひくことはないにしても、このまま放っておくのはなにかとよくない。面倒でも、いったん服を着させるか?
「あっ……! そうだ、今の服!」
幸い、るなの服は既製品だったらしく、サイズや洗濯方法のタグがついていた。それによると、るなのウエストは五十二センチらしい。
「ふぅ。一時はどうなることかと……」
しかし、それをクリアしても、また新たな難題がやってきたのだ。
ウエストは一番細くなってるところを測ればいいんだろうし、ヒップは一番張り出したところだろう。それは見りゃ分かるけど、バストってどこを測ればいいんだ? バストと胸囲は違うって聞いたことあるけど、どう違うんだ?
あの「フルッフヘンド」のてっぺん? それとも、「フルッフヘンド」は無視するのか?
『僕には難しすぎる……!』
と、いったんは諦めかけたが、ためしに測ってみて、実は簡単な話だったことに気づいた。要するに、るなの「フルッフヘンド」は大して「フルッフヘンド」していないので、どこを測っても大差はなかったというオチだ。
「……身長百四十。スリーサイズは上から、六十六、五十二、七十一だ。ああ疲れた」
「うん、わかった。ありがとう」
にっこり笑って、るなはカタログに見入った。
晩ごはんを食べて部屋に戻ってくると、ドアのまん前で、るながカタログを抱えて立っていた。目がキラキラ輝いている。
「うわ、びっくりした!」
「お兄ちゃん、服、決めたよ!」
そう言ってるなが差し出したのは、ファッション関係の通販大手ネッシンのカタログだった。その上に置かれた注文用紙に、いくつかの商品コードが書かれている。
「よしよし、合計金額は、送料も含めて限度内か。……これ、ちゃんとサイズは合ってるんだよな?」
「うん。何度も確認したから、間違いないよ。……どんなの選んだか、見てみる?」
「うーん、写真だけ見てもピンと来ないから、実物が届くまで見ないでおくよ」ここまで言ったとき、るなの顔がちょっと不満そうになったのが分かったので、慌てて後を付け足した。「その代わり、僕に最初に見せてくれよな?」
「うん、わかった」
「よし、じゃあ注文しようか」
パソコンを起動させながら、注文書を再確認すると、驚いたことに、代引き手数料を合わせると、ちょうど一万円になるのだった。僕が未成年だからクレジットカードを持っていないことが分かっていたのか、持っていようがいまいが限度額を超えないようにしたのかは分からないけど、よく気がつく子だ。
「……えっと、これでいいんだよね」パソコンを操作していたるなが、同意を求めて僕を見上げた。僕が頷くと、画面に視線を戻してENTERを押した。「送信と」
「お疲れさん。ほら、『通常一週間以内にお届けします』だってさ。るな、クリスマスは新しい服で迎えられそうだな?」
「ああ、もうすぐクリスマスなのかぁ。楽しみだな。私、クリスマスって初めて」
るなは顎の下で手のひらを合わせ、目を細めた。
普通なら「当たり前だろ」って突っ込むところだけど、僕はさっきの発言で自分がしくじったのに気づいたので、ぜんぜんそんな気にはなれなかった。
クリスマスの一番の楽しみって、ケーキとかチキンとか、その他いろいろもろもろのおいしいものを食べることじゃないか。
何も食べられないるなに、クリスマスを楽しむことはできるんだろうか?
ほんとに僕は、気が小さいくせに発言が軽い。反省しないと。
「ねぇ、香澄ちゃんて、身長いくつ?」
冬休み直前の、ある日の放課後。いつも通りの食堂で聞いてみた。
「あんたね、女の子に聞いていいのは指のサイズだけよ? ……まぁ、体重聞かないだけマシか。いいわ、教えたげる。百四十八センチ、三十九キロだよ」
とりあえず、るなよりかなり軽いみたいだけと、体重は聞くなとか言ってなかった?
るなの身長は百四十センチだったけど、何歳くらいの女の子として設定されているんだろう。住良木に聞いたらすぐにわかるだろうけど、こんなくだらない疑問で電話するってのも気が引ける。
「中一のころって、何センチだった?」
「変なこと聞くね? ……まぁいいわ。今と同じ、百四十八センチだよ。あたしは、小六の春の身体測定からビタ一センチ伸びてないもの」
「そうなんだ?」
あと、妙な日本語作るな。
「そうよ。覚えておきなさい? 女の子っていうのはね、男みたいに、いつまでも野放図に身長を伸ばしたりしないもんなのよ」
「僕だって、伸ばしたくて伸ばしたわけじゃないんだけどな」
でも、そう言われてみたら、小学校の高学年の頃、僕は男子で一番背が高かったけど、クラスでは三番目だった。そうなんだ。僕の後ろには女子が二人いた。小学校高学年の一時期、クラスには僕より背の高い女の子がいたんだ。
中学に入るとすぐに僕が抜き返したから、すっかり忘れていた。
「地味だった女の子が大人になって綺麗になるのを、芋虫が蝶になったって例えるけど、あたし、あれって言い得て妙だと思うのよね。芋虫がさなぎになると、さなぎの中の身体がドロドロに溶けて、芋虫モードから蝶モードに組み替えられるわけでしょ? 女の子の身体にも、それと同じようなことが起こってて、身長は変わらないけど、中はものすごく変化してるわけさ」
そう言って香澄ちゃんは、胸の辺りを撫でた。
「蝶モードねぇ。……てことは、香澄ちゃんは、これが蝶の姿なんだ?」
香澄ちゃんが、「むっ」とした顔をした。
香澄ちゃんが可愛いってのは僕も理解してるけど、いつも言い負かされてるから、ちょっと意地悪を言ってみたくなったんだ。
「あ、あたしは、まだ、本気になんかなっちゃいないぜ?」
「へえ?」
「あんたが知ってる佐田香澄は、香澄四天王のなかで最弱なんだぜ?」
「へえぇ?」
「あたしは、まだ、二回の変身を残してるんだぜ?」
「へええぇ?」
「……あのね、のんきにしてるけど、敵が強くなくちゃ、あたしの変身は見られないのよ? わかる? あたしが変身できるかどうかは、あんたにかかってんの」
「僕って敵だったんだ?」
「まぁ、ある意味ね」
あれ? いつの間にか香澄ちゃんのペースになってたよ。
「と、ところで、もうすぐクリスマスだよね? 香澄ちゃんはなにか予定……」
「ああ、あたしは家族と過ごすよ」
最良の答えじゃなかったときの予防線として、そして、最悪の答えにならぬよう希望として想定していた答えが、食い気味に帰ってきた。
「ウチのお父さんさ、海外へ単身赴任してるんだけど、盆と正月とクリスマスだけは帰ってくるんだよ。年に二週間しか一緒にいられないんだから、ウロチョロ出歩くなって、お母さんがうるさいんだよね」
香澄ちゃんはテーブルにひじを衝いて、手のひらの上に膨らませた頬を載せた。
なるほど、そういうことじゃ僕の出る幕はないな。
そうさ、僕らは恋人同士じゃないんだから、別に不自然なことじゃない。
「どってこと……」
そうさ。ちょっとへこむけど、どうってことないさ。
「それは大変だね」
「そうなんだよ、大変なんだよ。いくら半年ぶりって言ったって、この年になって親と四六時中一緒なのって息が詰まるよ!」
「香澄ちゃんて、お父さんと仲悪いの?」
「そんなことないよ。普通だよ。でもさ、ことわざでも、『帰ってよし、戻ってよしの父の顔』って言うじゃない?」
「そんなことわざ、聞いたこともないね」
「父親ってのはさ、会わなかったら寂しいし、たまさか帰ってくると嬉しいけど、しばらく一緒にいると邪魔に思えてきて、早く赴任先に戻ってほしいなって思えてくるもんなの」
「父親って悲しい存在だなぁ。娘なんて、いくら可愛がってやってもこんな仕打ちを受けるんじゃ、甲斐がなさすぎるよ」
「だが、それがいい! ……とか?」
「いや、言わないから」
香澄ちゃんはふと考え込むようなしぐさをして、意外なことを言い出した。
「……ソーシロってさ、最近言葉遣い変わった?」
「えっ?」
「ときどきちらっと出て来るんだよね、ちょっとワイルドな言葉遣いが。……ううん、ワイルドって言っても乱暴ってわけじゃないし、前のオカマっぽいしゃべり方よりずっといいんだけど」
オカマって。そんな風に思われてたのか。
「そ、そうかなぁ。自覚ないけど……」
僕が変わったって言われても、自覚はない。でも、そうだとしたら理由は分かる。
るなだ。るなが僕の家に来たおかげで、僕は少しずつ変わっているんだろう。
もちろんいい方向にだ。