第06話 ワイヤレス・ムーチョ
次の日、僕は朝からきわめて気分が悪かった。
クラスは、おそらく学校中も、樺沢聖美に関するうわさで持ちきりだったからだ。
ただのうわさじゃない。吐き気がするような誹謗中傷だ。
口さがない女たちの会話なので、どれくらいの信憑性があるかわからないが、話を総合するとこうだった。
樺沢聖美は、昨日友人とともに帰宅中、とある大通りの横断歩道上で、口を押さえて立ち止まった。そこに運悪く暴走車が突っ込み、さらに運が悪いことに突起物の多い違法改造車だったので、それが彼女の腹部に突き刺さった。手術の結果、一命は取り留めたものの、彼女は、女にとってとても大事な臓器を失ったという事実。
そして、横断歩道で口を押えて立ち止まったのは、実は彼女は妊娠していて、そのせいで気分が悪くなったからではないかという推測。
昨日まで樺沢聖美の親友だと思われていた川島美咲という子が、今日は先頭に立って噂をばら撒いている。そして、昨日まで樺沢聖美に憧れていたはずのやつらが、それを苦笑いしながら聞かぬ振りをして聞いているという現状。
なんだろうこれは?
悪意が空気に粘度を与えて、身じろぎするたびに身体にまとわり付くように感じる。
うっとうしい。わずらわしい。おぞましい。
なんなんだ、おまえら。なんで黙ってそんな噂話を聞いてるんだ?
なんで誰も、「そんなの嘘だ!」って言い出さないんだ?
「くそっ……!」
思わず口から怒りがこぼれた。
やつらに対しての怒りじゃない。自分自身への怒りだ。
言い出せないのは僕だって同じだったからだ。
彼女に憧れていた男は十指に余るほど知っているし、僕自身、入学式で、新入生代表として登壇した彼女を見たとき、胸の高鳴りを覚えた。
そのあとすぐに香澄ちゃんにスカウトされなければ、僕は間違いなく十指のひとりだっただろう。それほど彼女は、一年生の中では輝いた存在だったんだ。
僕だって、何も言い返せず、ただ聞いていることしかできないのに、他人を責めることなんてできない。そんな自分の意気地のなさに対しての怒りだった。
「ずいぶんヘコんでるじゃない? 例のあれ? 一年の子のうわさ?」
放課後の食堂で、香澄ちゃんが言った。
「そうですよ。もうね、昼御飯がのどを通らなくって」
香澄ちゃんには言わなかったけど、原因はうわさ自体よりも、それを取り巻く人間関係と悪意のほうにウエイトが移っていた。
「ふふん。ソーシロはね、女の子に夢を持ちすぎなんだよ」
「せめて十代の間ぐらい、夢を持っていさせてよ」
香澄ちゃんはニヤリとしながら、人差し指を立ててワイパーのように動かせた。
「残念ながら、こんなに可愛いあたしでさえ、おなかの中には糞袋があって、指で触るのさえ嫌なものがぎっしり詰まってるの。それに、月に何日かは『学校までの間にお休み場が欲しいなー』とか『瞬間移動したいなー』って思いながら、青い顔して通学してるわけさ。それが現実。それが生きるってことだし、そうじゃなければ生きられないの。ユーシー?」
「糞袋とか、それこそ夢も希望もないことを……」
そりゃ、「可愛いあたし」ってのも含めて、言ってることは間違ってはいないと思うけど、正しいことを言うのがいつも正しいわけじゃない。
「霞を食って生きてる仙人じゃない限り、生きてりゃいろいろあるし。女の子だって人間だもの。いろいろ溜まるんだなぁ」
「『みつを』みたいなこと言ってんじゃないの」
「霞を食って」から、「香澄を食べて」を連想して、ちょっと胸がざわついた。こんなときに、なに考えてんだ、僕は。
「まぁ、彼女いない歴イコール年齢プラスアルファのソーシロごときに、そう簡単に女が解ってたまるかよってこった!」
「ごときって」
理解されたいんだか、されたくないんだか。……あれ?
「ちょっと待って。『彼女いない歴イコール年齢プラスアルファ』って言ったよね? その、プラスアルファの部分ってなに?」
「前世からの通算」
「えええ、僕って、前世から彼女いなかったの?」
不憫すぎる。
「ソーシロの前世は、一生独身で世界中の不幸をしょい込んで、とある地方都市の路上で一生を終えた、大阪府出身の東園田弥五郎さん享年六十八!」
香澄ちゃんは、水晶玉を撫でる占い師のような手つきで言った。
「見てきたように!」
大阪に東園田弥五郎さんが実在したら気分悪いだろう!
「でも、来世では幸せが訪れることを知っていたから、その死に顔は埃まみれだったけど幸せそうに微笑んでいたと聞くわ!」
誰に聞いたんだ、誰に。
「……一応聞きますけど、弥五郎さんの来世、つまり僕の現世で訪れる幸せってなに?」
「あたしに出会うこと!」
やっぱりだ! オタ風をツモ切りするときくらいノータイムで、臆面もなくベタな返答をしたうえ、ガルプラのマイスターグレード・カチョキバージョンみたいに脚を大きく広げて下半身を突き出し、顎を引いて胸を張っている!
「現世のソーシロの幸せは、六億年分の前世の不幸の上に咲いた花のようなもの……」
リリカルにまとめてんじゃねぇ!
「てことは、僕はカンブリア紀からずっと彼女いない生物だったってわけ?」
「短かかった?」
「長すぎるよ!」
ていうか、なめくじ魚まで前世をさかのぼられたヤツが他にいるか!
「六億年間独身で過ごすボタンとか、押したんじゃないの?」
「どこにそんな憎たらしいボタンがあるの!」
そんなもんが存在するのなら、すぐに壊しに行ってやる。
「まぁ、ソーシロは現世で幸せになってるから、現世分の不幸を前倒しで経験してたんだって考えなよ」
「幸せになってるって、実感がないんですけど?」
「あらそう? こんなにかわいい女の子と一緒にゲーセン行けるなんて、幸福度高いと思うけどなぁ。こんな権利、アホオクに出したら結構な値がつくよ。ほら、昔、本物のズクがアホオクに出品されたことあったじゃない? あれくらいの値段はつくと思うね、間違いなく。これが実感ないとしたら、そりゃあれだわ」
「あれって?」
「ほら、台風の中心って晴れてるって言うでしょ? で、通り過ぎてから雨と風が強くなったりするの。ソーシロも、今は幸せの中心にいるせいで無風状態になってるけど、通り過ぎてから自分は幸せだったと気づくのよ」
うわ、なんか悔しいけど、ちょっと納得させられた。
「ね、あたしって今、いいこと言ったよね?」
「それを言っちゃ台無しだよ……」
名言はさりげないからかっこいいんであって、デカルトが「われ思うゆえにわれありって、冴えた言いまわしだよね?」とか、パスカルが「人間は考える葦であるって、なんかカッコよくね?」とか言ってたら、絶対に名言として残らなかったと思う。
「じゃあね、ソーシロ!」
香澄ちゃんが口に手をやったのが、目に飛び込んできた。
僕は肉食獣が獲物に襲い掛かるような勢いで距離をつめ、香澄ちゃんが口に当てた手を人差し指で押さえた。
「おおっと、ソーシロ、ハヤブサなみの鬼ダッシュだね!」
ハヤブサっていうのは、ニンジャ・ストライカーで香澄ちゃんが主に使っているキャラクターだけど、そんな説明してる場合じゃない。
「あのさ、その、ずっと思ってたんだけど、その、投げキッスってやつ、やめない? なんかもう、その、恥ずかしくって」
「うわ、投げキッスって。ソーシロ、あんた昭和三十年代の生まれ?」
あなたより年下なんですが、お忘れですか。
「じゃ、じゃあ、なんて呼べばいいの?」
ほんとは呼び名じゃなくて、見た目の問題なんだけど。
「あれは、『ワイヤレス・ムーチョ』なんだよ!」
「な、なんだってー! ……って、ほんとになんなの、その呼び名?」
「あたしは『接吻』を呼称するにあたって、『キス』とか『スマック』とか『ベーゼ』とか、そういうスカした呼び名にはしたくなかったのね。よりエレガントに『チュウ』みたいな、擬音語っぽい響きが欲しかったわけよ」
「チュウ」がエレガントかどうかは、この際聞き逃そう。
「で、そういうエレガントな言葉を捜し続けて、やっと見つけたのが『ムーチョ』だったんだよ!」
「な、なんだってー! ……って、いやもう、その口調はいいから」
「どこの言葉かは知らないけど、ムーチョって、なんかいいと思わない? チュウと同じような、吸い付く感じがファニーでプリミティヴでエレガントだわ」
「いいと悪いの基準って、どこにあんの?」
あと、プリミティヴとエレガントって、同居できる言葉なんだろうか?
「ワイヤレス・ムーチョって、ネットでも一件もヒットしなかったわ。だから版権とかの心配はないから、ソーシロも使って流行らせなさいね!」
「どういう局面で使えばいいのか、想像すらできないけど」
「あ、流行語大賞になったら、表彰式に出席するのはあたしだからね?」
同じ話題でしゃべっているとは思えないほど、話がかみ合わない。
「……是非そうしてよ」
僕はあきらめた。
香澄ちゃんと別れた後、歩きながら僕は考えた。
僕は昨日、るなに「表に出たいか?」と言いかけたけど、ちょうど樺沢聖美のニュースが流れたせいで、なおざりになってしまった。でも、るながなんと答えても、結局は「出せない」って結論になるんだから、聞く意味なんかない。聞いても仕方ない。希望を聞くだけ聞いておいてやっぱりダメでしたなんて、残酷すぎるにもほどがある。
そういう意味では、昨日の会話が途切れたのはラッキーだった。
だから僕は考えた。そして思いついた。表に出してあげられないのなら、できるだけ家での生活を楽しくしてやろうじゃないかと。
家のなかでできる楽しいことと言えばなにか。
手軽にできるのは、なにかおいしいものでも食べるとかだろうけど、残念ながらるなはものを食べられない。お風呂に入って「くはぁ……」とか、堪えきれずに呆けたうめき声をもらすこともない。
僕ならテレビゲームやってりゃ幸せなんだけど、女の子って、あんまりゲームしない気がする。香澄ちゃんは例外だけど。
るなは、なにをどうすると嬉しいんだろう。るなの幸せってなんだろう。
と、るなの姿を思い浮かべて考えて、ひらめいた。
るなの一張羅は、なにかの制服みたいな、堅苦しいお出かけ着だ。
るなは汗をかかないから、服が汚れることは滅多にないだろうけど、一日中、寝ているときもそれを着続けているというのは不自然だ。それに、普段着でくつろいでいるときに隣に正装した子がいると、こっちだってしゃっちょこばってしまう。
だから、僕がひらめいたのは、るなに服を買ってやったらどうかってことだ。
日中気軽に着られる普段着、そして眠るときにはパジャマ。そんなものを買ってやったらどうかと思ったんだ。
だからと言って、買いに連れて行くことはできない。
どうすればいいんだろう。
「……あれは!」
僕の目に入ったのは、ちょうど通りかかったコンビニの店頭に置いてあった、無料の通販カタログだ。
「あれだ!」
あたふたと、開ききらない自動ドアにぶつかりながらコンビニに飛び込む。
どう見ても女性向けと思しきそれを、ムクツケキ大男が物色している様は、いくら合法的だと自らに言い聞かせようと、公序良俗的に許されない感が満点だった。
僕はえいやっと雑念を振り払い、それらをありったけの種類持ち帰った。
ワイヤレス・ムーチョという言葉がおかしいことについては、ワザとやっています。