第17話 るなのおなかが膨らんでるんですよ
「……あ、るなはどうしたんだ?」
不意に思い出し、僕はコンテナを振り返った。
香澄ちゃんがいるときに出てこなかったのはありがたかったけど、いまだに出てこないってのは変だ。もしかしたら、この中にはいなかったんだろうか。
「悪かったな、るな。もう出てきてもいいぞ」
言いながら扉をノックする。
「…………」
返事がない。なんだか嫌な予感がする。
「いないのか? 開けるぞ?」
またミミズ祭りになっているといけないので、LEDが緑になっているのを確認して、見た目よりはるかに重厚な扉を引きあけた。
そこにるなはいた。でも、ぐったりと俯いて、クレイドルに座り込んでいる。
「るな、どうした? 調子が悪いのか?」
「……あ、お兄ちゃん。お帰りなさい……」
顔を上げたが、目に力がない。
「なんかね、身体がおかしいの。でも、ワームは出てこないし……」
「おかしいって、どのあたりだ?」
「……このへん」
るなは、ふらりと立ち上がって、服の上からみずからの下腹部を撫でた。
「……触ってもいいか?」
「うん。……いいよ」
るなが撫でていた辺りを同じように撫でると、そこは丸く、ドーム状に膨らんでいた。
「なんだこれ? いつからだ?」
「お昼ごろ、かな。だからずっと、ここに入ってたの」
身体を左右に揺らしながらコンテナから歩み出たるなは、畳のへりにつまづいて転びそうになった。僕はあわててその身体を支える。頬にかかったるなの息が、妙に熱い。額に手を当てると、汗こそ出てはいないものの、いつもより体温が高くなっていた。
「ごめんな、もっと早く気づいてやればよかったのに」
携帯を取り出し、登録してあった住良木の番号をコールする。
呼び出し音を聞きながら、「僕が外出してるときは、居間の電話の子機をるなに持たせておいたほうがいいな」などと考えていると、通話ボタンが押された音。
「あ、江……」
「はい。住良木ですが」
僕の声を押しのけるように、用件を切り出すのをためらうほどの不機嫌声が割り込んできた。でも、これしきのことでひるんでいる場合じゃない。
「江川……」
「江川崎様? 今度はなんですか? ミミズの次はウズムシですか? アシナシトカゲですか? それともホシバナモグラ?」
機先を制するように、再び、受話スピーカーから不機嫌粒子があふれ出てきそうな声。
「なんか、るなのおなかが膨らんでるんですよ。おへそのあたりが、ぽっこり」
「まぁ、女の子のおなかを膨らませるようなことをなさったのですか?」
「ええ? 僕は何もしてないですよ?」
「言葉巧みに無垢な少女をみずからの部屋に引き入れ、よいではないか、よいではないか誰でも大人になったらすることなのだと……」
「忘れたんですか? るなは元々僕の部屋にいるんですよ?」
あんたたちが僕の部屋に運び込んだんだろうに。
「では、なにかいつもと違ったことはなさいませんでしたか?」
「ですから、僕は女の子のお腹が膨れるようなことはなにも……なに、も」
「いかがなさいました?」
ちょっとまて。あれか? あれのせいなのか?
あんなことくらいで、あんなことになっちゃうのか?
「……僕のベッドで、一緒に寝ました」
「しているではありませんか! なんて破廉恥な!」
「いや、あの、僕が答えているのは、いつもと違うことをしたかどうかという問いに対してであって、女の子のお腹が膨らむようなことをしたかどうかという問いに対してではありませんよ。だってるなは……」
るなは機械じゃないですかと言おうと思ったが、あわてて飲み込んだ。僕の膝の上にるながいることを忘れていた。
「だって?」
「いえ、なんでもないです」
「なんでもないのに女の子のおなかが膨れるなんて、ありえないでしょう?」
住良木のバックで、「ガー」というノイズのような音が聞こえはじめた。
「だから僕は無実なんですって!」
「冗談ですわ」
住良木のバックから、定井の下卑た笑い声が聞こえてきた。イラっとした僕は、ことさらに静かな声で言った。
「冗談を言ってる場合じゃないんですが?」
「ほほほ。江川崎様の気を落ち着けるための軽いジョークと、研究を邪魔されたことに対する軽い腹いせですわ。とは言えご心配なく。現在そちらに向かうため、あらゆる努力をしているところですから」
「はっきり言いましたね、腹いせって」
先ほどから聞こえていた音が大きくなった。
「電波悪いですか? なんかノイズが」
「……ああ、この音ですか。これは、定井が私の椅子を押している音ですわ。廊下は養生をしておりませんので、音が響くのです」
「え? 車いすですか? お怪我でも?」
「いいえ、ただの事務用。宇内! そこのゴミ箱どかして! あと、向こうの一斗缶! 通路に物を置くなと何度言ったらわかるの! 定井! 挙動が不安定です。後でキャスターに油を注しておきなさい! ……失礼いたしました。現在、万難を排してそちらに向かっているところです。しばしお待ちを」
「あ、はい。よろしく」
電話の向こうがどういう状況なのかとても気になったが、僕は電話を切った。
いろいろと考えなくてはならなかったからだ。
るなを床の上に寝かせておくのはかわいそうだし、かと言ってこの狭苦しいコンテナに戻すのもどうかって思う。ベッドに寝かせてあげたいと思うのだけれど、この便座のようなものは、クレイドルという名が示す通り、るなの寝床になっている。だから、ここに入れておくのが正しいのかもしれない。
また、仮にベッドに寝かせたとして、掛布団は掛けるべきだろうか。
人間の発熱なら、本人は寒気に襲われているのだから、当然布団は掛けるべきだ。さらに、人間が発熱するということは、免疫機能を高め、細菌を殺す働きを期待してのものなのだから、保温のためにも、ますます掛布団の必要性は高まる。
しかし、機械の場合は、暖房器具や調理器具の発熱や、機械の動きをスムースにするための発熱を除いて、発熱そのものに意味はなく、機械が作動した時にやむを得ず発生する熱であり、要するに排熱というものだ。速やかに冷却してやる必要がある。さらに、今回の場合、明らかに異常動作による発熱であるから、ますます冷却の必要性は高まる。
なんだか、人間と、見た目が人間そっくりなロボットとを見分ける方法に使えそうな気がするな。「熱が出たときはどうしますか?」と問われて、「温かくする」と答えたら人間。「冷やす」と答えたらロボット。とか。
機械に支配された未来世界なんかで役立つかもしれない。
……って、何を考えてるんだ僕は。
最後の選択肢にいこう。人間であろうと機械であろうと、頭脳は冷やすべきものであることにかわりはない。これは今回唯一合致した点であり、それに関しては大変喜ばしい。
しかしながら、るなの頭脳はどこにあるのか、という問題がある。人間と同じように、肩の上に乗っかっているとは限らない。極論すれば僕だって、頭蓋骨の中に脳が入っているっていう保証はないわけで、実際には自前の脳と置き換えられた小さなプロセッサが足の裏にでも埋め込まれていて、元の場所はメロンパン入れになっていたり、なんてことがあるかもしれない。
……って、だから僕は何を考えているんだ。
結局僕は、ベッドに寝かせて掛布団を掛け、額にさめペタを貼るという選択をした。
いくら自分で考えても答えが出ないのだから、住良木が言った「人間らしく扱ってあげてください」という言葉に従うことにしたのだ。
ほどなくして、家の前に例の黒塗り高級車が停まった。
そして、ダッカダッカと階段を駆け上がる音。なんと心強い足音であることか。
「お待たせいたしました」
部屋に入るなり住良木は叫び、そのままの勢いでコンテナの前に立った。一拍おいて、おもいきり扉を引きあける。
「いない!」
大真面目に叫ぶ姿が、そこはかとなく滑稽だった。
「あの、住良木さん、こっちですけど」
笑いをこらえつつベッドを指さすと、そちらに視線を移した瞬間、住良木の顔に微笑みが浮かんだような気がした。
「……確かに膨らんでいますね」
掛布団の下から手を入れて、住良木が言った。布団の上からでも下腹部のあたりで手が上下しているのがわかる。
「危ないところでしたわ。やはり、バッテリーの異常のようです」
「そこにはバッテリーが?」
「ご存知の通り、両足の間には接続端子などが組み込まれておりますので、バッテリーはここに置くのが好都合です。携帯電話と同じ構造ですわ」
なんとなく納得。
「ここに内蔵されているのは、当社自慢の超高性能リチウムイオンポリマーバッテリーで、蓄電容量は通常のご家庭で使用する電力の約二日分です。某社から自社のソーラー発電と組み合わせないかと引き合いが来ているほどの代物ですから、みょうな気は起こさないのが身の為でございます。感電したら確実に死ねますわよ?」
今さらそんなことを。
「そんなの、最初に言っておいて欲しかったですね」
「でも、大丈夫でしたでしょう?」
「……まぁ、そうですけど」
住良木が微笑んだ。
今までの「ニヤリ」的なものではない、初めて見る邪気のない笑顔だった。
「男というものは、自分で脱がした服を再び着せることには抵抗を感じませんが、自分で着せた服を脱がせることはためらうものです」
「そんなもんですか? ……あ、だから最初に服を着させたんですね?」
「ご名答、ですわ」
「でも、それって、裏づけのある理論なんですか?」
「はい、経験と統計に基づいています」
この人、どんな人生を送ってきたんだ?
「でも、もしもためらわなかった場合……?」
「そんな男、死ねばいいんです」
食い気味に、しかし決して声を荒らげずに住良木。
「……まぁ、こんな裏事情、普通はお話しないのですけれど」
照れ隠しのように、住良木は微笑んだ。その顔を見た僕は、「なんてこと言いやがるんだ」と思うより前に、「可愛い」と思ってしまった。
「リチウムイオンポリマーバッテリーは、故障すると膨れることがあります。そしてケーシングが裂けて液漏れし、本体を痛めたり、発火したりいたします」
住良木はそこまで言うとコンテナを振り返り、後を続けた。僕がみとれている間にも説明は続いていた。
「このコンテナは、そのような場合にはただちに中和剤を注入し、被害を最小限に食い止める働きもあるのですが……」
「処置が間違ってましたか? すみません」
やはりコンテナに戻しておくべきだったんだ。僕は、急速に頭皮が痒くなっていくのを感じた。
「いえ、連絡が早かったので問題はありませんでした。むしろ、この子の親として、嬉しく思いますわ」
その笑顔に救われた。
「携帯電話とは違いますので、裏蓋開けてバッテリーパックの交換というわけにはまいりません。メーカー修理ということになりますが、よろしいですか?」
「はい、入院ってことですね?」
「そういうことですわ。……定井!」
住良木に名を呼ばれると、太ったほうの男が腕まくりをしながらベッドサイドに立った。乱暴に掛布団をはがすと、るながびくんと震えた。
「ぼ、僕が運びます!」
慌てて定井の前に割り込む。そしてるなを抱き上げようとして、自分がいまだにさめペタの箱と毛布と枕、そしてなぜか椅子と孫の手を抱えていたことに気づき、あたふたと傍らに放り出した。
「ヒヒヒ。なかなかのうろたえ具合じゃねえか?」
定井が笑う。う、うるせえなぁ。
「ケーシングが裂ける恐れがありますので気を付けて。難燃性のオイルが使われていますが、絶対に燃えないわけではありませんので。よくて火傷、悪ければ丸焦げですわよ」
もとよりそのつもりだと、頭の中で反駁しつつ、慎重にるなの身体を持ち上げる。
そういえば香澄ちゃんに肩車させられたけど、ちょっと重みを感じた程度で、重いとまでは思わなかった。やはりるなは、人間より重くできているんだな。
「……お姫様だっこされるの、二度目だね」
階段を下りているとき、ぽそりとるなが呟いた。ほんとうは三回目だけど、あれはまだ起動前だったからノーカウントだな。
「ああ、そうだな」
『お姫様だっこ』という気恥ずかしい言葉を使うるなを可愛く思う気持ちと、いつの間に覚えたんだろうなぁというおかしさが混ざり合って、要するにとても愛しいと感じた。 僕は階段を踏み外さないように注意しながら、るなのつるんとした額に頬をこすりつけた。
くすぐったそうに、「ふふっ」とるなが笑った。
表に出ると、車に先回りしていた宇内がバックドアを開けて待っていた。車の後ろに回り込むと、そこには人型のくぼみがあって、るなを寝かせられるようになっていた。車幅が広いので、小柄なるなは、余裕をもって横に寝かせることができた。
宇内がるなの胴体を固定するベルトを装着しているあいだ、僕は指でるなの前髪を撫でていた。
「早く帰ってこいよ」と言うと、るなは、「うん」と答えて目を閉じた。
るなは意外と早く、その日の深夜に帰宅した。
運ばれていったときと同じ、僕が買ってやった服を着ていた。
「ほら、お腹へっこんだよ!」
玄関に入るなり、るなは自分の腹部を撫でて見せた。満面の笑顔。すっかり調子がよくなったようだ。
「よかったな」
「るなちゃん?」
玄関ポーチに立ったままで、住良木が微笑みながらるなに目配せした。思えばこの人、最初に比べて、ずいぶん表情が自然になったよな。
「あ、はい」
そう答えると、るなは「お兄ちゃん、また後でね」と言って、二階に上がっていった。僕はそれを見送ったあと、住良木に向き直った
「どうかしたんですか?」
「一刻でも早くお連れしようと思いましたので、最低限の充電しかしておりません。ですから、るなちゃんはクレイドルに向かったのですわ」
「ああ、なるほど。どうありがとうございました」
「いえ、バッテリーの不良はこちらの不手際ですので、礼には及びません。こちらこそ、申し訳ありませんでした」
住良木は慇懃に頭を下げた。僕が礼を言ったのは、気を遣ってもらったことに対してだったのだが、勘違いしたようだ。
「ひとつだけご注意ください」
顔を上げた住良木は、人差し指を立てて前置きした。
今までいろいろ注意された気がするが、今までのは注意じゃなかったんだろうか。
「今までの注意より重要です」
やっぱりこの人、人の心が読めるんじゃないのか?
「るなちゃんには、いえ、すべてのモニター機には、データのバックアップが付いていません。基本動作はチップに焼かれていますが、起動して以降に得た情報は、DRAMに蓄積されていきます。ご存知かと思いますが、DRAMは常に電力が供給されていないと、データを保持することができません。要するに、事故でバッテリーが壊れたり、充電を怠ったりいたしますと、容赦なくデータが飛んで、初期状態に戻ります」
「……つまり、セーブ機能のないゲーム機のようなものだと?」
住良木が、眉間に皺を入れた。
「ゲーム機に例えられるのは不本意ですが、わかりやすく言えば、まさにそうです」
「なぜそんなことに?」
「それが愛だからですわ」
「……愛?」
「江川崎様? あなたの脳にはバックアップが付いていますか?」
一瞬、住良木がなにを言ったのか理解できなかった。
「そんなもの、あるわけないでしょう」
「ですよね? 人間は、ほんのちょっと脳への酸素供給が断たれれば、簡単にこの中のデータは飛んでしまいます。そして、決して元には戻りません。だから、いつも死を思い、恐れ、悔いのない生を過ごそうという気持ちが湧いてくるのです」
人差し指で、自分の頭をコンコンとつつく。
「るなちゃんも、ほんの一瞬でも電気の供給が途絶えたら、その瞬間にデータは飛んで、再起動させるまで身体も動かなくなります。そして、再起動させたとき、あなたが育てたるなちゃんのデータは、もうどこにもありません」
住良木はここまでを早口でしゃべり、少し間をおいて、静かな声で続けた。
「まぁ、人間ならそこで終わりですが、あの子は、初期状態に戻るだけですから、マシと言えばマシなんですが。……それをマシだと思うかどうかは、人それぞれでしょうけど」
壊れてしまうよりはいいんじゃないだろうかと思った。住良木の言葉の意味は、この時の僕にはよくわからなかった。
「それが、愛?」
「そう、愛です。とにかく、この子を人間らしく扱っていただくために、あえてバックアップはされない仕様になっています。気づいたときにはもう遅いかもしれません。くれぐれも、バッテリーの残量にはお気をつけください」
そこまで言うと住良木は、軽く頭を下げ、門に向かってきびすを返した。
「あ、上がっていかないんですか?」
「はい。もう用事は終わりましたので、ここで失礼いたします」
門に向かって歩き出した住良木は、二、三歩進むと、再び僕を振り返った。
「ああ、老婆心ながらご忠告申し上げますが、江川崎様がるなちゃんにしたことは、良いことも悪いこともすべてDRAMに記憶されます。もしも、るなちゃんに対して、他人に知られると恥ずかしいようなことをなさった場合は、回収前に電源を切って、データを消去しておくことをお勧めしますわ。私も、そのような記憶は見たくありませんので」
言って、意地悪そうにニヤリと笑った。
たぶん冗談のつもりなんだろうけど、バッテリー切れにすると、そういう疑いをかけられるってのはガチのようだ。こりゃ、是が非でもバッテリー切れは避けなきゃな。
「ええっと、肝に、銘じておきますよ」
住良木は口元に笑みを浮かべたまま、背を向けて去っていった。