4th
「まずは私からね」
そう言って舞さんは立ち上がった。
一身に視線を集めながら、それを噛みしめるようにコホンと手を当てて小さく咳払いをする。数秒の空白の後、彼女は口を開いた。
「名前は及川舞……何を言えばいいのかしらね?」
そこには特に計画性などなく、舞さんは恥ずかしそうに照れ笑いをした。
今、俺の目の前にあるのは、ごくごく普通の女性で、俺が知っている頭の切れる舞さんの姿ではない。最初に俺の前へ現れた時のおちゃらけた感じとよく似た感じがする。
「仕事は普通のOLで、趣味は読書、特技は――――」
緊張感は伴うもののこれといって特別な印象を受けない。俺の知っている範囲で言えば、新学期なんかの最初にある自己紹介は、これに近しいだろう。単に顔と名前を覚えるためだけに、わざわざ集まっているような感じしかしない。この調子で会が進行したところで、本当に有力な情報が得られるのだろうか?
まだ一人目の舞さんの番だが、すでに俺は自己紹介に参加することへの気だるさを感じていた。向かいの中年サラリーマンにつられて、欠伸が出そうになる。
しかし初っ端から倦怠期に片足を突っ込んでいる自己紹介をたった一人、心から楽しむ中年がいる・
「姉ちゃん、歳は?」
「女性にそれは聞いちゃダメですよ。あっ、でも結婚はしてま~す」
舞さんの華麗な返しに、茶々を入れた木田のオッサンはノックアウト寸前だ。アルコールで鼻を朱色に染めながら、大声で豪快に笑うことしかできない。このタイミングで酔っぱらえるというのは、大物といえばいいのか、馬鹿者といえばいいのか。
「よっしゃ、次は俺じゃ!」
グラスが割れそうなくらい力強くテーブルに置いた木田のオッサンが立ちあがった。
隣の工藤さんが、びくっと身体を震わせる。今のオッサンは荒々しく豪快だ。恐ろしくやる気である。というか舞さんが既婚と聞いて、本当にやっつけになっているんだろう。わかりやす過ぎる中年に呆れる。今のオッサンを見ていると、藤吉さんを黙らせた事実を疑いたくなる。
“う”に濁点が付きそうなくらい、汚らしく痰を払う中年に付き合う気がせず、俺は立ち上がった。
「おい小僧、どこ行くんだ?」
「ちょっとトイレ行ってきます」
「早く戻ってこいよ。せっかく俺がお笑いライブを披露するんだからな」
お笑いライブじゃなくて自己紹介だろと思ったが、言葉にはしない。それを言ってしまうと話が余計に拗れてしまうのが目に見えている。
酔っ払いが濁声で演説を始めるのを背中越しに確認すると、早足で談話室の出入り口の傍にあるトイレへと向かった。
床から胸の高さくらいまでの壁が漆色のタイル貼り。それより上が汚れの無い乳白色の壁紙が貼られていて、トイレ内は非常に上品な色調で統一されている。手摺りのついた広めの洋式トイレの個室と男性用の立ち小便器がそれぞれ三つずつ。個室の壁紙だけが木目調で、無機質ではない重厚感のあるものだった。学校の安っぽいトイレを見慣れている俺には、ここがトイレだと分かっていても敷居の高さを感じてしまう。
藤吉さんが言っていたような外部との出入り口を本気で信じているわけじゃないが、何かをする目的もなく、時間潰しの意味でトイレ内をぐるっと見て回った。元々破綻した推理なのでお遊びのつもりだった。しかしそのお遊びも乱入者によって中断を余儀なくされてしまう。
「勝手にあの場所を離れちゃうなんて、あんまり頂けないよ」
「個人プレーのこのゲームで俺なんかに構ってる暇なんてあるんですか、舞さん?」
振り返ると、腕を組みながら出入り口の傍の壁に、彼女は凭れかかっていた。目線を斜め下へと傾け、瞑目する舞さんからは、さっきまでの軽いテンションとは百八十度違って重々しいオーラが漂っていた。
おそらくこれが彼女の本性なのだろう。どことなく様になっている雰囲気が、直感させる。
そしてゆっくり閉ざした瞼を持ち上げる。保護する対象を見つめるような穏やかな眼差しが、見下されるように感じられ、なんだか癇に障る。反抗期に戻った気分だ。
「ふふっ、個人プレーねぇ……」
含み笑いを端正な顔に刻みながら、手洗い場の方へとゆっくりと歩む彼女。掌で軽く触れてみて濡れていないことを確認し、グレーのスーツを着ていることなんかお構いなしにそこへと腰かけた。俺の視線を気にしてか、下着が見えないようさり気なく足を組み交わした。
「真人君、このゲームの生還方法って、ここで言える?」
この人は俺を馬鹿にしているのか? そんなこと、ゲーム参加者ならば全員が言えるに違いない。
しかし落ち着いてみろ。きっと舞さんのことだから、何かしらの意図があるはずだ。そう自らに言い聞かせ、刺々しく波立つ心を落ち着かせた。
「……ノーマルは相応する箱を開けるか、ワーウルフを抹消するか。ワーウルフもノーマルと同じで相応する箱を開けること。ダミーウルフはゲーム終了時まで生き残ること、ですよね」
「はい、よくできました」
上手に教科書を音読した生徒に、言葉を掛ける教師を真似る。そんな無邪気さ。落ち着かせていた精神を逆撫でされるようで、初めて舞さんに嫌悪感を抱いた。
そして舞さんは数秒の余韻を楽しんだ後、まるで名探偵が自分の推理を披露する時のような九十パーセントの自信と十パーセントの不安を秘めた瞳をしながら、自己の見解を述べ始めた。
「今言った通り、一番数の多いノーマルの生還条件は二つ。それにダミーが抹消されないこと。たった一人だけのワーウルフは除外しても、他の九名のプレイヤーは誰かと組むことにメリットが発生するのよ。単純に情報量が二倍になることから始まって、停戦協定からの精神的負担の軽減、他にも何度か発生するイベントへの対策みたいにメリットの方が大きいの」
そこまで言われて、彼女の言わんとしていることにようやく追いついた。
「つまりこの『パンドラの箱』ってゲームは、個人プレーに見せかけて、チームプレーが有利になりやすいってことですか」
「ええ」
これから殺し合いをする。その事実だけが脳裏に焼き付いて、誰がどの役割かを探すことだけで頭がいっぱいだった。今回の自己紹介でも、藤吉さんが役割を見極めるために人を集めたんだと。そしてその場に居合わせればそのお零れに与れる可能性が高いと。抹消に繋がることばかりを想像していた。
しかし実際にはその反対の意味合い――つまり誰と組むかを見定めることで、抹消されにくくするためのものなんだと、舞さんに初めて気付かされた。
舞さんがジッと俺を見つめる。目と目を合わせた途端に、恐怖とも緊張ともいえない魔法に俺の体は硬直した。
わかっているつもりだった俺と彼女の差が思っていた以上に離れていたと見せつけられ、どれだけ自分がデッドラインに近い立場にいるのかを知らしめられた。
「その顔、ようやく理解できたみたいね」
またあの柔らかい雰囲気の舞さんに戻った。じれったいと言わんばかりに不満顔を浮かべたが、口元に艶っぽい笑みを浮かべた。ルージュが淫靡に光を放つ。
「それじゃあ単刀直入に言うわよ。わたしはあなたと組みたい」
「俺なんかと……ですか?」
驚きの余り、声が出なかった。絞り出すようにして、なんとか声らしきものを出した。
なんで俺なんだろうか? 第一感はそれだった。
俺なんかよりもずっと頭のいい人はいるだろうし、まだ自己紹介も終わっていないから、俺に限定する意味なんかもない。況してや、つい数十秒前に彼女と俺の『パンドラの箱』に対する適性の差を感じたはずだ。俺を選ぶメリットなんて、どこにあるというんだろうか?
疑問が疑問を呼ぶ。高次にいる彼女の言葉の一つ一つの意図が、全く汲み取れない。
思考の空回り。迷宮の中に取り残されたような孤独感を覚える。
「あなただからよ」
強調するように舞さんは静かな口調でそう言った。その言葉はささやかにトイレ内で反響し、やがて消えていく。
傾いた艶やかな口元が、無言のプレッシャーを俺に掛け続ける。
どうするべきなのかわからない。無力さを上塗りして、情けなさと焦りが俺の中で入り乱れる。馬鹿みたいにポカンと口を開けたまま、言葉にもできない。
その場で立ち尽くすことしか無力な俺には出来なかった。