2nd
開けない夜はない。しかし明けたかどうかわからない夜はある。このゲームに於いては、彼女がルールであり、彼女が明けたと言えば夜が明けたのだ。
だが実際にパンドラは、夜が明けたとは一言も言っていないし、明けないとしても一秒一秒が淡白に過ぎ去っていくことに違いはない。ただ言いたいのはゲーム開始の時のように、時計を操ればそれは造作もないことだということである。もしも彼女が俺のために睡眠時間を用意してくれるなら、どれほど助かることか……。
そんな身も蓋もない願望が無意識にこぼれるほどに、心身ともに疲弊していた。睡眠不足からくる慢性的な疲労感に、体中が悲鳴を上げる。痛いではなくだるい。幸い現状では、リアルな銃撃戦は行われてはおらず、無理に体を動かす必要はなさそうで、内心助かったと吐息をもらす。初っ端からこんな様子じゃ、勝ち抜けないなと、悪態に嘆息する。
しかし真夜中の銃声が、本格的な抹消の呼び水となる可能性もある。現在は午前六時を少し回ったところだ。ゲーム開始から十二時間が経過し、残りが六十時間。与えられた時間の六分の一を過ごした今となっては、決してあり得ない話ではない。むしろこれから二次方程式並みの増加率で、抹消が行われていくのは目に見えている。
そんなことを肝に銘じながら、ゆっくりと部屋の扉を開けた。ドンパチやっていないな、短絡的にとりあえずの安全を確認して、トイレへと向かって歩き始めるが、静けさが奇妙なほどに恐怖感を増幅させる。太陽光が差し込まない薄暗い廊下には、音が存在しない。そのシチュエーションが、鳥肌のスタンディングオベーションを誘っている。
しかし何もないものは何もない、見えないものに恐怖をして行動できないというのは、滑稽なタイムロスでしかない。そう言い聞かせるが、感情をコントロールしきれず、やはり早足となってしまうのが現状だった。
睡眠時間はどれくらいだったのか。銃声の後、都城さんの存在を確認し、舞さんからの連絡を受けてから寝たのだから、それなりに遅かったと思う。下手をしなくとも五時間も寝ていないことは確実だった。冴えていない頭を動かすには、やはりシャワーを浴びるのが好ましいが、贅沢は言えず、妥協案として冷水で顔を洗おうと、唯一水道のあるトイレへと向かっていた。
トイレにつくと一目散に蛇口を捻った。水は流れ始め、それをすくって顔を洗う。やはりこの爽快感はどんな場所だろうと心地いい。自宅とは場所が違うが、いつもと変わらない日常の一部。本当に異世界に閉じ込められているのだろうか? そんな他愛もない疑問まで浮かぶ。まったく、どれだけ俺は疲れているんだ……。
「おっはよー、真人!」
出来れば会いたくなかったが、同じゲームを行う上では、顔を合わさないわけにはいかない。
鳴海は朝っぱらとは思えないハイテンションでやってきた。俺の肩をトンと叩き、隣で彼女も顔を洗い始める。マジマジと彼女を見つめるわけにはいかないが、やはり彼女の方を見てしまう。
臭いは霧散し、痕跡は何一つ残っていない。昨日のあれは幻だった、そう思い込みたい心境だったが、俺の意思なんてお構いなしに脳裏に過る。反響して飛び込んでくる音感、嗅ぎ慣れていないヒトの匂い、わずかに熱を帯びた湿度の高い空気感。一晩明けて、強調された記憶にハッと息を飲む。
「どうしたの? 顔色悪いよ」
その言葉によって現実へと引き戻された。顔色が悪いのは寝不足のせいだが、面と向かっていられるだけの度胸を俺は備えてはいない。とっさに彼女から目を逸らしてしまった。
「あれ、もしかしてタオル貸してほしいの?」
はい、と彼女は俺にタオルを差し出してきた。
「あぁ、ありがとう」
タオルに少し手が触れただけで、元々それ自身が湿っていたことには気がついた。彼女が顔を拭いたあとだと、すぐに見当はついたが、なんだかものすごく照れくさい。
若干の硬直のあと、彼女は不意に笑う。
「真人、やっぱり照れてんの~?」
盛大な笑声に苦笑いしか返せない。そんなぎこちなさが、どこかむず痒い。
「高校生っていいなぁ。こんなときでも男の子と仲良くできちゃうんだからぁ~」
突如として現れたのは、宇野薫。化粧を剥がして、団栗眼と薄い唇だったせいで誰だか分らなかったが、特徴のあるだらしない口調と不自然な色の髪はまさしく彼女である。
嫌味っぽい内容とは裏腹に、彼女は素直な微笑みを浮かべている。もしかすると嫌味でなく、本心で言ったのかもしれない。馬鹿馬鹿しいが、それがあり得そうなのが宇野薫という人間だ。昨日今日の付き合いだから、ハッキリとは断定できないが。
「薫さん、そんなんじゃないですって」
やんわりと笑みのまま、鳴海が否定する。他の男に抱かれているのを、すぐ近くで聞いていた俺からすれば、なんとも複雑な心境である。
しかしこれからゲームという名目で、銃で撃ち合う可能性を秘めた相手とこれほどまでに、フレンドリーに会話している画も、ある意味ではシュールだ。
「それじゃ、あたしが大槻君を貰っちゃおっかなぁ~」
こっちから願い下げである。素顔でも宇野さんは可愛らしい顔をしているが、俺には香奈がいるし、俺はこの手のタイプが苦手だ。第一に彼女と俺との両方が生還できる可能性など万に一つしかありえない。
と、冗談を真面目に解釈した自分を百分の一秒間だけ後悔し、会話に入る。
「それでその歯ブラシはどうしたんですか?」
宇野さんの持っている歯磨きセット一式が目に入った。歯ブラシや歯磨き粉の納められたケースに結露がはおろか湿った痕跡も見受けられない。どう見ても新品が、この場では違和感を感じさせる。
「あー、これはねぇ~、パンドラにもらったんだよぅ。飲み物とかが無料だからぁ、もしかしたらと思って言ったら、ホントにくれたんだよ。ホテルみたいでしょ?」
苛立ちを覚える話し方やどうでもいい内容はさておき、そういうルールの使い方もあると教えられたのは、もしかするとアドバンテージになるかもしれない。些細ながらも活路になり得る可能性を秘めた有意義な内容だと感じた。