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書くこと読むこと、入力と出力

作者: 藤代京


 小説で「赤い」という言葉があったとする。

 読者はさまざまな赤を想起するだろう。鮮やかなのから濁ったのから、色味も黄味ががったのから青味ががったのまでさまざまな赤が読者の脳裏に生まれるだろう。


 その時脳裏に生まれた「赤」はなんなのか?


 その「赤」は何にも反映されない、もちろん読んでいる小説の内容にも反映されから気づきにくいけど、「赤」という情報の出力である。

 え? 小説から「赤い」って言葉が入力された結果、「赤」が想像されるからやっぱそれは出力じゃなくて入力なんじゃね?

 と思う人もいるだろうがそれを言い出すと収まりつかなくなるので、仮定でもいいから出力でいかせて欲しい。


 小説で「赤い」のあとに「林檎」だとか「絨毯」だとかが続いて、読者はそれに対応したイメージを出力していき小説の文章に対応したイメージを出力していき自分の内でイメージの文章を紡いでいくことになる。


 この認識を得て、文章力というわかるようでわからないものが定義できることになる。


 なあなあ、みんな特に疑問も持たずに使ってるけど、文章の力って一体なんなん?

 力って言うくらいだから、書いた文章がベンチプレスで何キロあげられるってことか?

 まじに文章の力ってなんなん?


 って疑問にこう答えることができる。


 文章力とは読者がその文章を読んだ時に、どれだけ情報を出力できるか、どれだけ出力しやすいか、である。


 異論もあろうが、よい文章とは美しい文章でも格調ある文章でもなく、読者がストレスなく情報を出力できる文章である。

 なので、よい文章を読んでいるときはストレスがかからないので、よい文章を読んでいるとさえ気づかない。気づくのはなんでこんなすらすら読めるんだ? と分析しようとした時だ。


 では悪い文章とはなにか?


 読者が脳内で情報を出力する時にストレスがかかる文章だ。


 例えば、作者と読者の社会的経験が違いすぎて、情報の出力に齟齬がでる場合。これは読んでいていちいち引っ掛かるので非常にストレスになる。

 ただこれは作者の社会的経験が豊富でも、読者の経験が貧困な場合にも起こるのでよい文章も読者次第ではだめな文章になる。

 が、読者がだめな場合はそのうちついてこれなくなるので、気にする必要はないだろう。


 (しがらみ)を「さく」と読んで柵では意味が通りませんと感想に書いちゃう人とかな。

 世の中思った以上にアホが多いってことで。


 あ、俺の感想じゃないので俺の過去柵の感想を柵っても柵は出てきませ柵。


 あとは伝えよう伝えようと作者が力むあまり読者の情報出力の幅が狭い文章もストレスになる。

 「赤い」で言うと色の三原色ってイエロー、シアン、マゼンダだっけか。

 「赤い」でマゼンダ100パーを想起しないと齟齬が生じるような文章は読んでいて疲れる。

 読者の方でいちいち作者の言う「赤い」はマゼンタ100パーなんだろうなあと想定して補填しなければならないからだ。

 つまり読者を狭い自分の型にはめようとしている。

 もちろん、そんなんが読まれるはずもない。



 SFや本格ミステリがある程度、読者を選ぶのも同じ理由だろう。

 先行する作品についてある程度の学習が必要なのと、世界観の表現やトリックの実現のために、読者に許される情報出力の幅が狭い。

 言わば誤読の許容差が狭い、厳密に読まねばならないジャンルなのだ。

 

 

 以上を踏まえて書くという行為はいやすべての創作は出力なのか? 入力なのか?


 出力だと思う人は手をあげて。


 はい、手をあげた人はさようなら、お元気で。



 すべての創作や芸事は一見出力のように見えるけど、実はすべて入力なのだ。


 なので、俺が前に書いたVtuberは情報の向きが違うぞってのは間違いだな。

 あいつら人の皮をかぶった人じゃないものだから、情報の向きがわかりやすかっただけだったな。


 すべての創作はお客さんが発する情報を入力することから始まる。

 小説だと、どういうこと?になるから芸人さんにするか。

 舞台やライブの観客は無意識に期待とか色々な非言語情報を発している。

 それを受けることから舞台やライブは始まるのだ。

 

 落語家は出番前の客席の空気を非常に気にするし、その空気次第で話の枕を変えるという。

 

 意識的に客の発する情報を摂取している例だ。


 お笑いの芸人さんたちはしきり「つまみ」を連発する。

 なにをつかむのか。

 観客の発する無意識の非言語情報をつかんでいる。

 つかんだ上で芸やコントが行われるから、それは観客の非言語情報に対するアンサーとなり観客との対話が成立する。

 だから、笑いが起こるのだ。

 

 でも小説は読者に先行して作品があるじゃんという向きもあろうが、だからといって「つかみ」がなくていい訳じゃない。

 この場合つかむのは時代が発する無意識の非言語情報である。

 時代の代わりにも社会でもいいかもしれん。


 あらゆる創作や芸事には下積み時代が存在するが、それは色々試行錯誤して実力を鍛えるだけじゃなく、実はやっていることが出力じゃなく入力だってことにいつ気づくか? なのだろう。



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― 新着の感想 ―
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[一言] >つまみ 私はこれを「間」と呼んでいます 全てにおいて「間」って言うのは すごく大切なんです 独りよがりな小説には「間」が足りません 狭すぎてもダメ 開きすぎていてもダメ! 人と人との間…
[良い点] 誰か(自分)の出力は、誰か(自分)の入力 お仕事で云えば 「P(計画)→D(実行)→C(評価)→A(改善)を廻す」 になるんでしょうね これは小説でもお笑いも同じだと言うのは 面白いと思…
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