①帰り道のはじまり
王都サラマンドラ城門の昼下がり。
うららかな日差しが、クリーム色の城壁にふりそそいでいた。
そよ風が門の外の梢をそよそよ揺らし、鳴きかわす鳥のさえずりが、心地よい音色をつくる。
季節は春らんまん。暑くもなく、寒くもなく、一年で一番過ごしやすい頃だった。
まじめな門番も、あくびの一つもでようというもの。
「ふわぁ」
だんだんとまぶたが重くなり、地面についた長槍にもたれ、うつらうつらとその頭が揺れ動く。
「あのぅ、出国をしたいんですけど……」
うとうとと舟をこぎはじめた守衛に、申し訳なさげに声をかける者があった。
守衛はぱちんと弾かれたみたいに姿勢を正した。
「あ、これはどうも。手続きをしますので、どうぞこちらへ」
きまりわるげに頭をかいて、照れ笑い。
衛兵としてはいささか頼りない印象もあるが、人の好さげな男だった。
そんな彼に、声の主も朗らかに笑いかけた。
手渡された出国書類に必要事項を書きこみながら、たわいない談笑を交わす。
「いい天気ですねー」
「ええ、まったく。こんな日に午睡ができないのは、少々辛いですな」
「ごめんなさい、起こしちゃって……」
「いえ、とんでもない。こちらこそ失礼しました」
ややあって、必要な諸手続きをつつがなく済ませた声の主が、門の外に出てきた。
まだ若い―――少女と呼ぶべきか、レディと呼ぶべきか、まよってしまう年頃の女性だった。
かしの杖を手にし、厚手のローブに綿を詰めた丸い帽子とマント、その背には荷袋。
長期の旅を想定した装いだった。
快活そうな大きな黒い瞳に、帽子の下からちらりと見える黒い前髪。鼻は少し低くて、頬にはうっすらとそばかすが残っている。ぱっと見は地味な印象だけど、どことなく愛嬌がある。形容するなら、”素朴な美人”とでも呼べるだろうか。
女性の身分は、その胸に誇らしげに光る、銀色のバッジを見れば分かった。
水銀と銀の合金で作られ、自身の尻尾を噛む蛇の意匠。
その憲章は、サラマンドラの魔導学院、その卒業生の証だ。
かざりっけない旅装姿の彼女が身につけた、唯一のアクセサリーだった。
「お気をつけて、ココハさん。良い旅を!」
門番が、出国の手続きで知った女性の名で呼びかけた。
女性―――ココハはぺこりと丁寧にお辞儀を返した。
顔を上げてきびすを返すと、胸をはって歩きはじめる。
サラマンドラには城門が三つある。
ココハが出てきた西の門の外は、小高い丘に続いていた。
上り坂をしっかりした足取りで歩く。
道の両脇には春の草花が彩り豊かに風に揺れて、背の高い草木が陰をつくって旅人を日差しから守ってくれる。
傾斜があっても馬車がとおれるように、土の道はしっかりと整備されていた。
坂道も苦にならないような、歩き心地のいい路だった。
ごーん、ごーん。
丘の中腹に差し掛かったころ、鐘の音が風に乗って聞こえてきた。
日に六回鳴る、サンタ・エステル大教会の鐘だ。
おごそかなその音につられて、ココハは後ろを振りかえった。
眼下には、サラマンドラの街並みが、一望のもとに広がっていた。
学生の頃、郊外に実習で出た時は何度も目にした光景だ。
けれど、これでこの景色も見納めなのかと思うと、感慨が違ってくる。
ココハは足を止めて、景色に眺めいった。
「5年、かぁ……」
つい、口に出してつぶやいていた。
ふりかえると、長かった気もするし、あっという間だった気もしてくる。
十三歳の時に上京して、おっかなびっくり城壁の門をくぐったのがつい昨日のことのようにも思えた。
それから毎日が必死で、月日はとぶようだった。
けれど、その中でたくさんのことが起こった。何度もくじけかけたし、つらくて逃げ出したくなることも一度や二度ではなかった。本気で退学して故郷に帰ろうと思いつめたこともあった。
けれど、それに負けないくらい楽しかった、嬉しかった、わくわくした思い出もたくさんあった。
親友と呼びあえる仲間もできた。
そうして、青春時代と呼べる月日を、この賑やかな王都で過ごしたのだ。
気づくと、故郷の田舎でなら、もうとっくに結婚して子どもがいてもおかしくない歳だ。
丘の上から見下ろしていると、自分があの中にいたというのが、まるで夢の中のできごとみたいだ。
きっと生涯戻ってくることはないだろう、サラマンドラの街―――。
鐘の音が終わるころには、ココハの視界はぼんやりとにじみはじめていた。
「いけない、いけない」
ごしごしと目をぬぐい、街に背を向けた。
未練をたちきるように、さっきより足早に歩きはじめた。
けれど、その胸には魔道学士として過ごした日々の思い出が去来していた。
温かく―――少し切ない想いとともに。
イラストは青空海人(@SoraKaito2022)様より頂きました!