④《逃げ出す日》 後半
軟禁している女性から不意にキスをされた。彼女に椅子へ縛り付けられるひと月前のことだ。
彼女からは日常的に、被害者が加害者に抱いて当然の感情を向けられていたので、状況を把握するのに数秒遅れた。軟禁期間が長くなった彼女は退屈を紛らすように、ときに甘える仕草をみせるようになっていたが、怒りや嫌悪を態度に内在させていて、私から一定の距離を保つことを忘れない。
それがいま、私の瞬きが彼女の瞳に鮮やかに映っていた。
吐息の生々しさや触れた唇の熱さとは裏腹に、そのまなざしに温度はない。硝子玉のような青い瞳から伝わってくるのは、親しみや愛情や欲望ではなかった。
無感情に対象へ集中するそれは、過去に師匠や研究者たちのふるまいの中で見慣れたもので、思いがけないこの行動が、半年に渡る同居生活で彼女の態度が軟化したのだという都合の良い妄想を許さない。
貼り付くようにこちらを窺っていた。
――私の内側を覗き込まれている、と思った。
「……どうしたんですか」
緊張を誤魔化すように尋ねる。その間に思考の端でいくつかの判断が下された。
感情が窺えないのならばこれは意思表示ではない。距離感を失った行動がただの気まぐれのはずもない。私の反応を確認するための行動なのだ。
彼女になにかを観察されている。だがなにかわからない。
彼女は答えず、私から返るものをじっと待っている。
正解を外せば心が遥かに遠ざかる予感があった。
焦燥に駆られ記憶の箱をひっくり返し、砂漠で疲弊してボロ布のように倒れていた彼女のようすや、上辺を取り繕っていた頃の彼女の柔和な笑顔や、体調を崩した私を冷たく見下ろした彼女との会話を並べて、なぞって闇雲に正解を探る。
自分へ投げかけられている問いを理解できないまま、沈黙が深まる。
じっとりと汗が滲む頃、吐息のかかる距離で彼女がふっと笑った。苦味を噛みしめたようなほほえみだった。時間切れを知らせた惨めで報われないそれが、私にとっては数ヶ月ぶりに見ることができた彼女の笑顔だった。
そして重なった疲労から注意力が散漫になり、台所で眠りに落ちた隙に身体の自由を奪われている。椅子の上で動かせるのは頭と手首から先だけという状態で置き去りにされ、思考が軋む。状況にそぐわない出来事が思い出されたのは、いまになってあれが最後の機会とわかるからなのか、ただ焦りが無関係な記憶を闇雲に引きよせたのか。
ふり向きもしないで置き去りにした彼女に、恨み言すら届かない。彼女にかけた、引き止める言葉の一切が彼女の耳を素通りした。
もしも彼女をここへ留める可能性がわずかでも存在したのならば、自分は間違えたのだ。
土壇場になって喉を裂くように無力な言葉を吐くのではなく、もっと早くにもっと沢山の別のなにかをするべきだったのだ。
期限の過ぎた正解を、頭の隅で執拗に求める。
彼女の戻る気配のない室内はひどく平穏で日常的だ。木戸の隙間からの陽光で薄明るく、外界の強い日差しは乾いた空気に遮断されてレンガの壁の内側まで届かない。
日々、自分で壁の穴から屋根の崩れまで修繕を重ねて、床石の角の欠け具合まで把握している。刃物になりえる一部を彼女に隠されたものの、周囲に揃えられた道具も鍋からスプーンまで使い慣れたものばかりで、身体に馴染んだ長年の住処のすべてが危機感を乏しくする空気を漂わせている。
だがそれは同時に自分一人の気配しかない場所に自分一人が存在していることを意味する。
誰も来るはずのない場所に放置される恐怖と喪失感が拮抗して、チリチリと喉の奥を焦がす。
「ホクロ!」
目を剥いて部屋を見回した。
普段なら自分の一声、二声で駆けつける小さく歪な下僕の姿が見えず、離れた床の上で上下を返した木桶がカタカタと鳴る。小動物のようにそこへ閉じ込められた哀れなホクロが、木桶に重ねられた数冊の本の重みと戦っていた。
薬草図鑑と記された分厚い羊皮紙の本がずれる気配がないのをしばらく観察し、束の間うなだれる。
目に入るのはシーツを裂いて簡易的に作られたおびただしい数の紐。右足と椅子の脚、左足と椅子の脚、太腿と座面、腹と背もたれ、両手首、両腕ごと胴体と背もたれ、それぞれ十本程度を使って二重、三重にくくられている。一本ごとにぞっとするような数の結び目が並んで芋虫のような形になっている。
緩い縛めもあるのだが、複数が干渉し合って力任せに引き裂くことも広げて外すことも出来ない様子だ。根気よく解いていくしかない。
奥歯を噛んで顔を上げた。身を捩り、見えない背後の紐を探る。
最初の結び目を解くのに少し時間がかかった。
彼女が私を飢え渇き死なせる気がないことは、目の前に置かれたスープ皿で知れた。水の匂いが鼻腔に入る。だが彼女が街に辿り着いてしまえば、同じこと。罪のない市民の女性を軟禁していたこと、軟禁するに至った理由で、人々は集って憎悪を膨らませ、正義を振りかざして私を打ち殺しに押し寄せるだろう。
彼女自身が手を下さなくても、嵐のような暴力に悶え苦しんで私は死ぬ。
だから彼女に追いつき再び捕らえることが私の助かる道だ。希望だ。
彼女が最初の街へ辿り着くまでにすべてを終わらせなければいけない。
――私は彼女が住む街を知らないのだから。
思えばこれも失敗だったと後悔を噛みしめる。
砂漠で保護した彼女が帰宅意思を示した日、喪失感にふらつきながらも、一番近い街への道筋を書いて渡そうとした。どこへ帰るにしろ、森の方向からここへ辿り着いたなら、その街を経由するからだ。
しかしそこが彼女の住む街だったのか、途中に通り抜けた街だったのかわからない。
彼女が最後に詰ったように、私は彼女の家の場所を、家族の名を、仕事を尋ねなかった。
彼女の家について聞き出せていたなら、このタイムリミットの曖昧さに悩まずに遠い街まで長距離追いかけることもできたかもしれない。
軟禁を続けた半年間、心通わせることを願い話しかけながらも私は言葉を彷徨わせた。街での暮らしも、兄弟や両親のことも、聞けば望郷の念を強くするに違いなかった。ここに彼女の気持ちがないのに、不用意に気持ちを波立たせて、ここを離れたい気持ちを募らせたくなかった。
彼女が家族の元へ戻ったなら、私に彼女を探し出す手段はないに等しい。
日が沈み、夜が更ける。
手が痺れ、指先の感覚が鈍る。
心が折れる。何度も。
木戸の隙間から漏れる陽光は月光に替わり、闇の中、周囲の微かな輪郭だけが確認できる。まず手首の周辺がどうにか自由になった。腕に回った紐を先に解きたいのに、区別がつかず腹の紐を解いて、落胆したりした。自分を縛り付けた相手の動きを思い起こし、紐を外すのに効率的な順序を考える。
一度、癇癪を起こした。力任せにもがいたが即席の紐は端の糸をピリリと数本鳴らすだけで、切れることなく結び目を固くした。息を切らして得られたのは身体の周囲のわずかな紐の緩みだけ。息を整え、必死に理性をかき集める。
自分を叱咤し、指先の感触を頼りにより困難になった作業を再開する。
日没の頃にあった燻るような焦りは、もう自分が彼女に追いつくことはできないと悟った瞬間にかき消えた。
全身の自由を奪っていた紐の半分を解き終えた。上半身を折ることや足元の床に触れることは可能になったが、口が届くようになっても卓上の水を飲む気にはなれなかった。抜け落ちる感情のごとく顔から零れる水滴を膝に落とし、背を丸める。
膝を叩く涙の音を聞くともなしに聞いていると、かすかな音は次第に弱々しく床を這う木桶の音と入れ替わる。
顔を上げ、自分とは別の方法で彼女に動きを封じられた小さな下僕の存在を思い出す。ずっと部屋に響いていたはずの音がようやく耳に入るようになったのは、諦観による落ち着きで失われていた認識力が戻ったからだろう。
「……ホクロ、来てください」
呼び寄せて、重しの本を取り除き、木桶を外す。巨大な蜘蛛のようなシルエットがぼんやり確認できる。己が身の自由を半日間奪われていたホクロは乾燥が進んで動きが鈍い。もう半日閉じ込められていたなら移動する力を失い、さらに半日か一日後に完全に停止しただろう。
死にかけの蜘蛛のように、ホクロがたどたどしく台所の隅へ進む。どこかでありふれた男の右手として一度役目を終えたそれは、死者を刻んで命の仕組みを解明しようとする異端者に与えられた仮初の命を永らえるべく、水瓶のひとつに飛び込み水音を立てた。
書き溜めた羊皮紙と貴重な医術書を抱えて、夜明けに森へ駆け込む。
かつてこの近くに存在した集落が流行り病で失われる前に、村人に利用された狩猟小屋が森にあったことを彼女は知らない。家の裏手の方角から私が森へ入っていくのを、使い終えた遺体を廃村の墓地を利用して処分するための道のりだと思っていたはずだ。そう思わせるように心がけて行動してきた。
放棄されて数十年が経過していた森の狩猟小屋を、手入れして仮暮らしが出来る程度に整えてある。生活道具や仕事道具の予備を置いてあるのは、こんな日が来ることを想定していたからだ。ならず者、狂信的な宗教者、師匠を殺した人間たち――目をつけられたら殺すか逃げるかしかない。
ルナリアさんを軟禁するようになってからは、武器や鎖の破壊に使われそうな道具の保管にも利用していた。
小屋に荷物を置くと取って返し、茂みに身を隠して長年の住処を窺う。まだ人の気配のないことを確認して再度入り、残りの図画を持ち出す。それらは自分自身よりも重要で失われてはならないものだった。狩猟小屋の床下に箱詰めして隠す。
次に薬品類を持ち出す。食料と衣類と生活用品はその次で、最後に遺体の一部を運んで残りは地下室に保存したまま、地下への扉を隠した。
背格好の似た遺体を使って自殺の偽装も考えたが、用意している間にタイミング悪く逃げ遅れることや、保管してある中に年齢や顔立ちの似た遺体がないため、偽装を見破られかえって執拗に住居や周辺を探されることも考えられたため断念した。
結果として、ただ嵐が通り過ぎるのを待つように森の奥で息を潜めた。
神経を尖らせ何事も起きないまま、一ヶ月が経ち、二ヶ月が経ち……、三ヶ月が経つ。変化なく静まり返っている砂漠の家を森の端から遠く見つめ、私はようやく理解する。
彼女は私に興味がない。
私の人生に、私の日常に、私の仕事に。
どこでどう生きようと、幸福だろうと不幸だろうと――。
安堵と滑稽さに片頬が引き攣る。
彼女はもう、私の前に厄災としても幸いとしても現れることはないのだと理解して、崩れるようにその場に膝をつく。
《終わり》