④《逃げ出す日》 前半
ヒロイン帰ります。
今回で【砂漠の家の物語】のひとつの完成形です。
遠くから近づいてくる重たげで規則正しい車輪の音に、急速に昼間の眠りから意識を引き戻された。
夢うつつで耳を済ます。欠伸を噛み殺しながらベッドから起き上がり、窓の木戸を指先で細く押し開く。囚われの身にあてがわれた二階の寝室の窓からは、いつも代わり映えのない岩がまばらな不毛の大地が広がるが、今日は見慣れた右端の森から轍がこちらへ真っ直ぐ長く伸びていた。
轍を辿ると汚れた幌馬車が土埃を上げながらすでに畑の囲いを外して敷地内に入ろうとしている。くたびれた衣服の御者の手慣れた様子が、家人の顔馴染みと知れて警戒心が強まる。
木戸の隙間から外の様子を窺っていると、今度は家の中から慌てた足音が近づいて来る。幌馬車はまだ窓の下で向きを変えているところだ。
イリスだと見当のついた足音は、階段を駆け上がり私のいる部屋の前で止まる。扉は開くことなく、金属の擦れ合う音を数度させると、来たときと同じように遠ざかっていった。
どうやら鍵をかけられたらしい。
注意を外へ戻せば、戸口に横付けした幌馬車から御者が降りたところを、イリスが遅れて出迎えていた。御者とイリスの二人は荷台の後部から、両腕で抱えられる程度の木箱や大小の布袋のいくつかを軽々と屋内へ運び入れたあと、二人で荷台に乗り込み、ややして棺桶程度の寸法の木箱を向かい合うように両端を持ち上げて降ろし始めた。荷台のほとんどが同寸の荷物で埋められていたようで、二人は何度も同じように荷台へ乗り込み、重たげなそれを運んで家の中と外とを往復した。
御者は枯木のように皺を顔に刻んだ陰気な老人で、イリスとろくに言葉を交わさない。黙々と作業を続けてさほど時間をかけずに荷降ろしを終え、最後に持ち方から空とわかる木箱を荷台にいくつか押し込むと、淡々と帰っていく。
幌馬車が森へ消えても、階下からは荷運びを続けているような物音が続いている。
しばらく耳を傾けていたが、楽しいことは起こりそうにないので、ベッドに戻って再び眠りにつく。
夜に目が覚めると、部屋の鍵は元通りに開けられていた。足首を繋ぐ鎖を手繰りよせ腕に巻き上げて部屋を出る。
廃墟となっていた修道院の必要な部分のみを修繕して住居としている建物は、天井や壁のない部屋が存在する。そこから射し込む月明かりを頼りに壁を伝って台所に降りて、炉の熾き火を食卓の上の燭台の蝋燭に移して明かりを確保する。
日課の散歩がわりの室内の徘徊を始める。
一階のイリスの寝室には鍵がかかり、在庫を減らしていた地下室には新しい材料が補充されていた。寒気のするそれらを一通り見回し、扉を戻す。
食料庫を探ると、見覚えのない食品が増えていた。陶器製の小瓶から蜂蜜漬けのナッツをひとつつまむ。
指を舐めながら食卓へ戻る。パンと干し肉と空のスープ皿が一人分揃えて置かれている。熾火の上で温度を残した吊り下げ式の鍋から、豆のスープをとりわける。今日の糧を得ることができた感謝の祈りの言葉を簡単に唱え、豆を噛みしめながら明日からの自分の行動についてじっくりと考える。
翌日からイリスが長時間地下室に籠もるようになった。寝静まる頃を見計らって覗くたび、在庫の配置が変わっている。空だった棚に今日は木箱が積まれ、中身が入っていたはずの木箱のいくつかが床で開けられている。
部屋の一角に、牛一頭を足を折り畳んだ姿勢で沈められる容積の水槽があり、薬品臭い液体が溜められているのだが、浸っている在庫の顔ぶれが二日置きに異なっている。
次が運ばれてくる何ヶ月か後まで、手元の在庫を保たせるための防腐処理に追われているという状況なのだろう。
それが夜中の作業で、昼間は昼間で野良仕事と家事に忙しくしているイリスに、私は何食わぬ顔で普段通りの要求をする。イリスは当然とばかりにそれに応える。ただそこに疲労は蓄積していく。
私はかまわず些細な生活の要求を上乗せしていく。
「シーツを汚した」
「髪を洗いたい」
「豆のスープに飽きた」
「新しいスプーンを作って」
イリスは少し困った顔で要求に応じ、急速に顔色を悪くしてく。
そうして十日ほどが経過して、イリスは台所の椅子に腰かけたまま眠りに落ちた。私の行動を警戒して、眠るときには必ず自分の寝室に内側から鍵をかけていたイリスの油断だ。
小休憩のつもりだったのだろう、飲みかけの木製カップを膝の上で握ったまま、背もたれに体重を預けて寝息を立てている。
疲労の色濃いその姿を確認すると、私は寝室にとって返し、シーツの端を噛んで細長く裂いていく。二十本ほど紐を作り、それを握って台所へ戻る。
廊下で私を見かけたホクロが、人馴れした小動物のように後をついてきた。切り落とされた男の手の形そのままに、小指から人差し指までの四本が波打つように動いて台所へ入ってきた。
この生物もどきの知能はどの程度のものなのか、寝入ったイリスと側に立つ私の周囲を歩き回る姿は楽しげに見えた。主人の危機を理解できない無害な仕草をしばらく眺め、椅子の上の人物に注意を戻す。
隈の出来た灰色の顔を覗き込んで小さく彼の名を呼ぶ。
「……イリス」
反応がないのを確認して屈み込む。寝息の変化に注意を払いながら彼の足と椅子の脚を紐で緩く結びつける。数本結び終わると、長めの紐で胴体と腕と背もたれを一周させた。
目を覚ましてもとっさには動けない状態にしたところで、一呼吸する。
膝の上の手首にそっと紐を通す。息を止めてごく慎重に、手首それぞれ紐を結びつけて端を長くたらした。もう一度、疲れ切った寝顔を確認し、たらした紐の端を背もたれの後ろで一度からめる。それを一気に引き絞った。
イリスが目を開き、カップが床で跳ねて転がる。
「……おはよう、イリス」
ホクロが戸惑うように二人の人間から距離をとって身をくねらせる。
視界の端にそれを捉えつつ私は跪いて、イリスを縛る紐を増やしていく。
職人のように作業に没頭しながら尋ねる。
「一応確認しておくけれど、機会があれば私を誰かと取り替えるつもりはあったの?」
「取り……替え?」
身動きできない焦燥の中に、私へ問いかけるような困惑が強く浮かんだ。なんのことかわからない、という意味だろう。
純粋な困惑に、そうか、と思う。私が軟禁生活で抱いた懸念のひとつは不要なものだった。新たな来訪者が軟禁されようとも、私が処分される未来はなかったのだ。
彼を縛る紐が六十本を超えた頃に、全体を確認する。肩から背もたれの後ろに手首、腰から足首までシーツを細く裂いて作った白い紐が椅子と彼を繋いでいる。私の名を呼んで解放を訴えながら彼が身体をよじるたびにギチギチと音を立てた。
ぼろぼろで巨大な蛹が出来上がった。紐は六十本程度でも結び目は一本につき六個も七個も重ねた。結ぶのにかけた時間もそれなりだが、これをひとつひとつ解くとなれば時間は何倍にもなる。
だがあくまでも解くことを前提の固さに結んだ。私が逃げ通せるまでの時間稼ぎだ。
縛り具合に納得したところで、椅子ごと彼を引きずって食卓の側へ運ぶ。調理の場と食事の場は同じ部屋にあり、さして距離もない移動だったが、思ったより力が必要になって怯んだ。細く背丈も私に届かないが、彼は見た目ほど軽くはなかった。
体格のせいで妹たちと同じように捉えがちだったが、不毛の地で薪割りや野良仕事をして過ごす男の身体が、街暮らしで家事や買い物をして過ごす女と同じはずがなかった。肉の質が異なるのだ。
これから置き去りにする人間一人分の存在の重さに感じた。
息を切らして運び終わると、木彫りのスープ皿に水を汲んで彼の目の前に置いた。
イリスが疑問を顔に出すが、私は答えず、目線を合わせて云った。
「私の住んでいた場所も、家族の名前も仕事もあなたは一度も聞かなかった。興味がなかったんでしょうけれど、だから私が帰っても、あなたは私を探せない。あなたは独りで生きて」
怒りとも痛みともつかない感情を、私はじっと見返す。
別れの挨拶を終えたつもりで寄せた身を離し、思い直して付け足す。
「私はね、あなたに嘘を吐いたことはなかったよ。一度もね。……たまたまだけどね」
こんな言葉で心が伝わるなら、そもそも告げる必要はない。
自分の胸に燻るいらだちをなだめるために、ただ吐き出して置いて去る。
イリスがベルトから下げる革袋から刃物を取り上げる。台所を見回して、ヤスリ代わりになりそうな調理道具と合わせて他の部屋に運んだ。凶器になりそうな物を私に触れさせない為に、調理の場でありながら刃物の類いは一切が置かれていない。
じりじりと床を掻くような動きを見せていたホクロに桶を被せ、別の部屋から持ち込んだ数冊の本を重しに載せる。ここを出たあとは、扉の外に水を汲んだ桶を並べて塞ぐつもりだ。人間には扉が重い程度であまり意味がないが、ホクロが先に桶を抜け出してイリスを助けようと道具を探し始めるなら、鍵の代わりになるだろう。
慌てふためくイリスが椅子から解放されるには半日くらいかかるはずだ。最後に外すことになるだろう足首の紐だけは、特に結び目を複雑にした。予測が外れ、手早く縛めを解いたイリスが、逃げ出した私に追いつくのは恐ろしい。
だが逆に手間取り、飢え乾き苦しんだ末に死ぬ可能性もある。その想像は酷く後味が悪い。だから飲み水を置く。私が立ち去ったのちに、順調に戒めの紐を解いて上半身が動かせるようになったなら、屈んで卓上の水に口が届くように。
自分の準備の番だった。
床石から長く伸びる鎖に繋がれて過ごした日々の半分が欺瞞だ。偶然に足輪から少し先で鎖が切れて久しい。隠してきた事実がようやく万全な状況で役に立つ。短い鎖を引きずって逃げてもいいが、足首の鉄輪を外せるに越したことはない。
工具が必要だ。イリスは鎖に繋がれた私が行けない場所に斧もナイフも金槌もペンチもまとめて隠す。
犬が餌を地面に掘り埋めるようなこんな不便を、死ぬまで何十年と続けるつもりだったのか。正気とは思えない。
鎖をひねるようにして、切れた箇所を繋いでいた枯れ草をねじ切ったのを見て、イリスがぎょっとする。鉄の鎖を腕力で切ったように一瞬思えたのだろう。事実には遅れて気づくはずだ。
行動範囲が広がったところで、立ち入れなかった建物の裏手へ回る。イリスが忍ぶように出入りしている方向は、素知らぬふりで見当をつけている。
工具箱を探し当てて持ち込み、イリスを監視しながら試行錯誤するも、思うようにいかない。イリスが助言を与えるわけもなく、苦々しく苦戦する。元々、鉄輪は鍵でつけ外しするような作りではない。
家畜用なのだろう。一度つけたら最後まで外すことを想定されていない器具に見える。それをイリスがあて布を巻いた上に、片足に負担が偏らないよう定期的に右足と左足で交互に付け替えていた。男の握力で開閉していた部分があるので、私では力が足りない。
イリスの咎めるような視線にさらされながら考え込む。気に留めていなかった数ヶ月前の幼い忠告が頭をよぎった。
『足輪のその部分ヲ……この角度デここへふりおろすと多分、十回目には壊せると思いマス。そうシたら、ここが緩んデ少し輪が開くようになるのデ、きついけれど足は抜けマス』
舌っ足らずな声の記憶に誘導されながら、鉄輪に手を添え、角度を調節して工具箱の角へふりおろす。二度、三度、四度……金属製の工具箱が凹んでいく。忠告ではレンガの角に当てるように云われていたのだ。工具箱では強度が足りない。それでも信じて動作を続け、十六回目で部品のひとつが壊れて石の床に落ち、連結部分にゆとりが生じた。鉄輪の内側からあて布を抜き取り、緩みに手をかけ足を引く。革靴が落ち、踵がひっかかって時間をとられたが、足は抜けた。
立ち上がり踵を上げ下ろしする。足が軽い。
脱げた革靴をひっかけ直してその場でくるりと回り、笑みが浮かぶ。
イリスの存在を思い出して目をやると、絶望を滲ませている。
長く待ち望んだお別れの準備は整った。
食料庫から食料を少しと防寒用にシーツを一枚もらって、後ろ手に縛ったイリスの手首の紐を解く。自由になった手が紐に届けば、私が逃げ延びるための制限時間を刻み始める。
私を引き止める言葉を吐き出し続けるイリスを無視して、閉じた扉に外側から水桶を押し付ける。
太陽はまだ空に高く登っている。
住み慣れた家のある街へは、記憶を頼りに眠らず歩き続けても一日以上かかるだろう。道を間違えるかもしれない。だがともかく、どこかの街へ出られれば道を尋ねられるし、荷馬車に頼み込んで途中まで乗せてもらうのもいい。
ここへ行き倒れたときの自分の持ち物を持ち出せなかったのが悔やまれる。イリスに隠されたまま捜し出せず、手元にはわずかなお金もない。
当初にくすねることも考えた蝋燭を持ち出すことは、今となっては抵抗があった。借りと感じる行為を働くのは、これから思い出すたび、負い目を感じながらイリスを非難することになる。
代わりに持ち出したのは蜂蜜漬けのナッツの瓶二つだった。貴重な食品は交渉次第で馬車代に使えそうだった。これは軟禁中の私にあてられる可能性の高い食料だったので、盗みの範囲に入れない。
森へ足を向け、通り抜けようとした畑で目が止まる。明るいうちに外に出るのは久しぶりで、葉野菜が大きくなっていたことに初めて気がつく。
自然に足が止まり、膝を折って眺める。ここで育つ野菜はどれも周囲の強い風から土埃を被り、強い日差しも相まって白っぽい姿だがそれなりに元気に育っている。逃げ出さなければ私の口に入った野菜が、もう永遠に私の口に入ることがないというのは妙な感慨があった。
健気な生命を労るように中心の若葉から砂をはらいつつ不意に、これだけ砂や土を被って育った野菜を使いながら、イリスが用意した料理から一度も砂利を噛む不快感を味わわなかった事実に気づく。
葉野菜の根本は土が残りがちだ。小さな芽が集まり、茎が重なっている。母はざっくり切り捨てていたが、野菜の美味しい部分はああいった根本近くで、料理に使う場合は切込みをいれてひとつひとつ手をかけて洗う。それでもたまには土が残ってしまうものだ。
物流の盛んな街や豊かな農村ならともかく、全てが不足しがちな不自由な土地で貴重な野菜の根本を捨てるようなことをイリスはしない。
あの男は葉野菜の一枚に、皿に、飲み水に、窓から入る風に、どれだけ気を配って配膳をしていたのだろう。
一度も気を抜かず続けたのは、自分のためか、自分以外のためか。
ふり返り、乾いて崩れかけた砂漠の建物を眺める。もちろんイリスの姿は見えはしない。
私はすぐに背を向け、真っ直ぐに歩きだす。
幌馬車が訪れるより前の出来事を思い出す。解剖図の制作に集中するイリスに何気ない足取りで近づき、手元を覗き込んだ。暇を持て余した私のよくある行動で、イリスは少しだけ視線を向けるものの気に留めなかった。こうしたときに、問われずとも手元を広げて作業内容を簡単に説明するのがイリスの普段の行動だった。私の暇つぶしに付き合っているつもりだったのだろう。
説明に気を取られる相手に私はそのまま顔を近づけ、視線が合う直前にキスをした。
イリスはわずかに停止し、不思議そうに私を見た。
「……どうしたんですか」
問いかける顔を間近で観察し、そこに嫌悪の色が浮かばなかったことに、いくばくかの安堵を覚える。
しかしあるのは照れでも喜びでもない。
なんとなく予想した通りだったので、私はほほえんだ。皮肉が滲んでいたと思う。イリスは訝しげだった。
彼を理解した。私はそこに生々しく置かれている観察対象と同じ、肉で骨で皮で血管で臓器だ。それらが繋がって動いている状態のもの。それだけだ。
彼にとって私は異性ではない。同類でもない。捕まった初日に平気で風呂の世話をされたが、嫌がって抵抗した私とは違って、彼の感覚では死体を洗う慣れた作業と大した違いはなかったのだろう。
子供の頃、友達の一人にやたら絵の上手い子がいた。成長するにつれ縁遠くなったその子は女の子で、今頃はどこかで普通の主婦になって、絵を描くことなどないのだろうが、彼の横顔は幼い彼女の手元をじっと覗き込んでいた頃を思い出す。
彼のようになにかを専門的にこなす人間は、作業中は自我を忘れるように見える。彼の世界には彼自身が存在しない。対象を観察する誰でもない視点と、それらを自動的に書き留める手がだけがある。
時々我に返って、独りぼっちの自分を見回している。
だから、私は彼のことを考えない。
彼がどう生きていこうと、気にかけないで生きていく。
《※後半へ続く↓》
遅い更新を待ちたくない方にはここでの読了をお奨めします。
ここ迄で【砂漠の家の物語】全体として、ひとつの完成形になっていると思います。
後半は同じ場面のイリス視点です。書き始めに想定した読み切り枠に入れてしまっていますが『五話目』内容へ続くただの物語の途中部分となっております。