③《泣いている日》 後半
予定より書き上げるのが遅れました。
ヒロインの内面ぶちまけ回です。
イリスは砂漠での生活に必要な二人分の仕事を一人でこなす。畑仕事、洗濯、掃除、料理、風呂の準備に加えて、夜中には死体の解剖とスケッチを行う。
解剖とスケッチを夜中に行うのは、死体に陽光が当たるのを避けてのことらしい。時間帯の制限がある中で、私の半分以下のわずかな睡眠時間を明け方までに確保しつつ、地下の保管庫から死体を運び、刻んだ肉や血で汚れた衣服の後片付けをすませるのは、傍目にも重労働に映る。
太る暇のない彼の身体は薄く、まくり上げた袖から覗く腕は細いが、肉体労働者のそれで筋っぽい。今更ながら、私より小柄な彼が行き倒れていた私を担いで運んでいたことを思い出す。うつ伏せの状態から引き上げるように立たされ、片腕をとられて脇下に彼が首を潜らせたと思ったら、反対の腕を太腿にかけられて荷物のように両肩に乗せられ持ち上げられた。
彼の片腕に、私は両腕で掴みかかっても勝てるかどうか怪しい。
そんな調子で朝から夜遅くまで動き回る彼は、鎖に繋がれたまま無為に毎日を過ごす私には労働を求めず、行動の端々に私への心遣いと遠慮を潜ませる。
なぜ彼が私をそう扱うのかわからない。
両親からも友人からも、他の誰かからも、そんな扱いを受けたことがない。慣れない扱いに戸惑いを覚えつつ、どうでもいいのに頭の隅で意味を繰り返し考えている。
そうして半年が経過したいま、答えのようなものに辿り着く。
これは、愛情、だ。
愛情を向けられるということが、この扱いなのだ。
彼の行動原理は、辿ってみれば単純で明確だ。
他人のいない生活が続いて寂しくて、自分の仕事を知られることを恐れて疑り深くて、人恋しくて親切で、愛情を注ぐ相手に飢えている。
私が斧をふり下ろしたことを、結局彼は許した。あれは肉親でもなかなか許せるものではない。
少なくとも私の親なら許さない。
私の両親は、私が家から姿を消したことに腹を立てただろう。浅はかな行動をとったあいつは考えが甘い、とでも神経質な父は口にしたかもしれない。すぐに音を上げて戻ると考えていたはずだ。しかし音沙汰なく数日が経過して、怒りは不安や心配へ変化した。何事か娘の身に起こったのだと、小さなことでも思い悩む性格の母がやつれて毎日を過ごしていることは疑いない。
だがそんな両親が日々私へ向けてきた愛情は、彼が日々私へ向ける愛情よりもずっと乏しかった。
街中を大声で走り回っていた男の子、着飾って歩いていた上品な笑顔の夫婦、泣きじゃくる幼児を抱き上げた太った母親、常連客と話し込む肉屋の店主――この人達の中の誰が、世の中のどの家族が、愛情や収入や環境の平均を持つのかは知らないが、私は私の家族を平均と捕らえて育ってきた。育つ過程でそのいくつかが平均から外れていることを知ったが、それでもやはり、友人と比べてはごく普通の範囲の家庭だと思いながら私は私になった。
両親の元で三人の娘はざっくり平等に育てられたと思う。だから妹たちに比べて私がどうということではない。食べるのに困ったことはないし、殴られて育ったわけでもない。子供の頃の衣服の多くは親戚の着古しだったが、特に裕福な家に生まれたのでなければ、市民にはありがちなことで、両親は他人から見てもありふれた人間だと思う。
ただ子供が欲しがるが役に立たない大きな縫いぐるみのような物を、金を払ってまで与えようとする人ではなかった。自分が気に入って買い与えた物を、「なぜ喜ばないのか」と怒りだすような人たちではあった。
……これまで考えてもみなかったことを、考える。私は両親からちゃんと愛されたことがあるのだろうか。
大人は皆が朝から一日仕事に出るものだと思っていた頃、一緒に外遊びしていた友人が、少し離れた場所を通りがかった男性と笑顔で手をふり合ったことがあった。時刻は夕方で、友人に誰かと問うと、これから仕事に出かける父親だと答えた。私は友人の言葉の意味がわからなかったし、なぜ父親が自分の子供に手をふるのか疑問でいっぱいになった。
幼かった頃、妹を抱いて母親は常にヒステリックだった。子供の世話を楽しんだことが、おそらく母にはない。
上の妹が結婚して子供を生んだのは最近のことで、甲斐甲斐しく我が子の世話を焼く妹の笑顔を見ながら、母親は思い出したように「あなたは小さかった頃、赤子を抱えた私のほうへ走りよってきて、にこっと首を傾げたことがあったがどうして私は苛々として叱りつけたのだろう」と云った。私は覚えていない。
愛されなかったというより、深い愛情を持たない人間の元で育ったという気がする。身長の伸びた私が母にスカートの裾の縫い足しを頼んだとき、母は青い生地を裏側から真っ赤な糸で縫い足すような有様だったし、父親は三人の娘を抱き上げたことがなく、うんざりするほど食事の作法や行儀にうるさかった。
それらは悪意だとか残酷などとは表現できるものではない。
だが、ばかばかしくなって気分が落ち込んだ。
私を鎖に繋いだ男がときおり私へ向ける「きれいですね」「可愛いです」と云った言葉を、私は両親から「この子のどこが可愛いのか」という形でしか与えられたことがない。
無意識に下唇を噛む。
実感した事実にベッドで膝を抱えていると、朝になって起きだしたイリスが心配そうに声をかけてきた。
私はひたすらに首を横にふる。
個人の生い立ちも現実も、誰もにどうにもできるものではない。
その日は眠れず、シーツの上で横になったりまた膝を抱えたりで、ぼうっとして過ごした。
食事も取らず上の空の私に、イリスは幾度となく声をかけてきたが、反応がないため仕方なく日常作業へ戻っていった。夜になって耐えかねたように私に近づくと、うなだれた頭を私の肩によせた。
「ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……ごめんなさい……」
イリスが見当違いな推測で消沈していることがわかったが、私はその鎮痛な謝罪を永遠に聞いていたい気がした。
彼のこげ茶色の前髪がやわらかく頬に触れる。私は彼の誤解を解かない。
やがて眠気が訪れて、それを子守唄のように眠りに落ちた。
翌日、目覚めてすぐに激しい羞恥に襲われた。
昨日の自分の思考をまざまざと思い出して、もそもそとシーツを被って猛省する。自分を哀れむ人間は惨めで見苦しい。
シーツの下から見慣れた部屋に目をやれば、すでに日は高いようで、閉まったままの窓の木戸の隙間からは、射し込む光が黄色がかっていて、空気はぼんやり温まっている。
枕元の小さな机には、眠る前にはなかった水を注いだカップが置かれ、ラズベリーやプラムなどのドライフルーツの皿盛りが甘い香りを漂わせている。これもまた、通常の食事にはそえられることのない高価な食品だ。
イリスの用意したご機嫌取りの品を横目に、起き上がりながら自分を叱咤する。
気を取り直せ。私は不幸ではないし、ありふれた日常に埋没していくありふれた人間で、いまは少し、特異な状況に陥っているだけだ。
シーツから足をひき出して確認する。鎖がジャラリと音を立てて石の床に落ちた。二十日おきに鎖の位置を足の左右で替えて鉄輪の内側に柔らかな布を丁寧に巻いてもなお、それらの重さは肌に跡を残す。いまは左足首に鉄輪がはめられ鉄輪から鎖が伸びるが、鉄輪のない右足首にも肌の赤い変色が一周している。
手のひらを見て指を動かす。
まだ手も足もあるし、ここを逃げ出す体力もある。
もし家族や数少ない友人に再会出来ればうれしくて、懐かしくて、しばらくは優しくされて、そしてなだらかに粗雑に戻っていく日常に次第にがっかりしていくだろう。
私はその日常に戻る。
決意を取り戻したものの、身体に力が入らない。
すべての内臓をかき出されたように自分が空っぽで、なんだか妙に寂しい。
犬とか抱きしめたい。子供の頃に近所にいた茶色の犬、あれは可愛かった。犬以外なら、妹とか、母親とか。やっぱりふかふかの毛皮のほうがいいか。飼い犬……ペットが……ペットでもホクロは嫌だ。どこかで死んだ中年男性の手なんだろうし。いや、節くれだっているだけで、若くて体格のいい肉体労働者の手だったのかもしれないけど。
……なぜ私は見知らぬ男性死亡者に思いを馳せているのだろう。
自分がいま酷く疲れた濁った瞳で中空を凝視しているのがわかる。
どうしてこうなった。
せめて新鮮な空気でも吸おうと窓を開け放つと、見下ろす畑で野良仕事に精を出すイリスの姿が目に入る。今日もまめまめしく働いている。
……あいつでいいか。
背格好が妹と同じくらいだし。被害者は犯罪者から奪われたものを取り返していいはずだ。
突然、窓から呼びつけられたイリスは、服の土埃を払い二階の私の寝室へ駆けつけた。
「ルナリアさん、なにか困ったことでも?」
ベッドに腰をかけ直していた私は、息を切らせた彼を手の仕草で招きよせ、近づいたところでガッチリ抱きしめた。
土と太陽の乾いた匂いをさせたイリスがしばらく停止した。
「かたい……妹と同じくらいの背格好なのに」
落胆していると、私の右肩あたりから触れた喉の振動と共に困ったようなイリスの声が答えた。
「それは……性別が異なれば、骨格も筋肉の量も違いますよ」
「妹だってこのくらい痩せてるのに」
「あの、聞いていますか? 私とは違いますよ……」
癇に障って肩を押し離したイリスを睨みつける。
「うちの妹は、美人よ」
「え? はい。それは、そうでしょうけれど……?」
「がっかりした。……すごく、がっかり」
「すみません……?」
空気を曖昧に出し入れするように動いていたイリスの口が、何度か捕らえ損なっていた言葉を拾い上げ吐き出した。
「妹さんに会いたいのですか」
会いたいと答えたところで、彼が私を逃してくれるはずはなかった。
「妹さんに会いたいのですか」
会いたいと返されても逃せはしないのだが、ここに繋がれた生活で彼女が日々思い考えていることを知りたかった。
返事は予想外のものだった。
「……攫ってこないでよ」
とっさに言葉が返せない。
私は人など攫わない。そんな人間ではない。そんなつもりはまったくないのに、自分が人攫いのように認識されていることにショックを受ける。
私が鈍いのだろうか。行き倒れていた彼女が回復したばかりの頃、彼女に家族がいると気が付かなかった。そんな気配を、許された範囲内で自由にふるまう彼女に感じなかった。家族がいないと思い込んだ。否定する言葉を聞いたのちも、どこか実感が持てず、彼女は彼女一人きりで存在しているように感じていた。
だが私を牽制するいまの彼女には妹を守る立場で過ごした年月が滲む。気づかなかっただけで彼女はずっと誰かの「姉」で、自分は家族を引き離した悪人であった。
トンと胸を押されて、背中からふわりと暗い穴へ落ちていく心地がする。
短い言葉に込められた自分を軟禁するような男から妹を遠ざけようとする意志が、いつかの来訪者が幼児の肩を強く抱いて私に向けた無言の敵意と重なって、自分の内側が崩れていく。
私を弁護する人間はいない。
仕返しの気持ちがむくりと起きあがる。私は誤解されることを意図して云った。
「妹さんはルナリアさんに似ていますか」
嫌悪と敵意が彼女の顔に浮かぶ。眉尻が絵筆をすっと走らせたように上がった。美しい形だと思った。
「名前を教えてもらえなくても、会えばそうとわかるでしょうか」
ゆっくり問うと不安が見え隠れする。私を傷つけた代償に私が彼女へ求めた感情だった。
「……冗談ですよ」
一段と嫌われただろう。私は笑顔を失敗する。
家族がいない私にはわからない。幼い頃に貧しさから親元から離されて、その親もさほど経たずに貧困の中で死んだ。私を引き取った気難しい師匠はときに優しくときに厳しく私を育ててくれたが、悪夢のような最後で天国へ旅立った。
家族を当たり前のものとして持つ人間から、家族を守る仕草で警戒の視線を向けられると、人の群れからはじき出されたようで、どうして自分だけが、と叫び誰かに当たり散らしたくなる。
……当たり散らしたあとで酷く後悔する。
《終わり》
次はヒロインの脱出回で、一ヶ月後の投稿を目指します。