③《泣いている日》 前半
奇妙な同居生活を送るの二人のほのぼの日常編。
彼女の部屋に施錠することをやめ、部屋に溜まった砂を掃き出し、シーツを取り替え、彼女の風呂の準備をする。会話はごくわずか。
彼女の世話を再開して数日後のある朝、ベッドで膝を抱えた彼女が泣いていることに気がついた。日常の多くを無関心に、ときに不機嫌に過ごす彼女が、弱っているところを隠さないのは珍しく、怪我か病の痛みかと尋ねる私に、無言でただただ首を横にふる。ではホームシックしかないと私は途方に暮れた。
彼女の両親と二人の妹、街の暮らし。友人、知人。
ここで私が生きている限り、私の安全のために、私が死体の解剖と観察を続けるために、彼女に返してやれるものはない。
平穏なつもりだった。
足首の鎖を引きずりながら家の中を歩き回り、好きな時間に好きなだけ眠る彼女の毎日は、昼夜を逆にして規則正しく、斧をふり下ろされるまで私は、彼女がここから逃げ出すことをほとんどもう諦めたのだと思っていた。
機嫌が悪いわけでもないのに彼女が一言も発しない日があった。
私からの朝の挨拶を無視するのは常だったが、飲み物をどちらが良いか尋ねたときも、入浴の時間を確認したときも返事がなかった。
困惑したまましばらく過ごし、夜になって食事の席で向き合い意を決して尋ねた。
「私と口をきくのは億劫ですか」
彼女が首を横にふったので、私の表情はいくらかゆるんだ。
「では喋ってもらえませんか」
しかし彼女は首を横にふる。
「答えたくない質問には黙っていらしてもかまいませんよ」
やはり首を横にふる。彼女の気持ちを掴めずに困惑した。
「なにかあなたに失礼なことをしましたか」
横に首をふる。
「……もしや私と話すことが億劫なのではなくて、話すこと自体が億劫なのですか」
少し考えて、彼女がうなずいた。
「意思の疎通がはかれなくて不便だと思うのですが」
彼女が青い目でじっと私を見つめた。じっと、そしてずっと。
疑問が頭に溢れるが、次第に単純な圧迫を感じ、負けた私が告げる。
「……わかりました、私が察すればいいんですね」
彼女がうなずいた。
やりとりを思い出し、自分の勘違いを苦く味わう。
正直、わからない。
……自身のいる場所が家ではいけないのだろうか。
私は彼女にいつでも眠れる温かで柔らかな寝床を用意した。足を鎖に繋がれてはいるものの、働く必要はないし、食事もできる限りのものを並べている。起きているのが昼でも夜でもかまわない。
彼女はそうした生活を周囲から咎められて一時的に家を出たはずだ。
ならばこの場所でもいいのではないか。
考えてみれば親兄弟も親しい友人もいない私に、ホームシックが正しく理解できるはずもない。このようなものだろうと、他人の心を想像しているだけ。
そんな私だから、彼女の心がわからなかったのだろう。
彼はこの監禁生活の終わりをどう想定しているのだろうか。
思い出したように堪忍袋の緒が切れる親の怒声に怯えなくてもよくなったので、場所を変えただけの私の引きこもり生活は砂漠の家に繋がれたまま淡々と過ぎていく。
ここには一財産と云えそうな十数冊もの本があるけれど、どれも医学や薬草学の専門書で私が読みたくなるような内容ではないし、噂話を教えてくれたり、不意に気が向いて始める菓子作りに参加してくれる妹たちがいないので退屈する。
言葉を交わせる相手は一人だけ。だがこちらの言葉を信じないような男となにを楽しく話せるというのか。
私が斧をふり下ろしてから鬱屈した様子を見せる彼は、実際のところ私を解放するだけで私に関わる悩みや負担を消せるのだが――彼は自分がそうではないので、私のような人間の無関心を信じられない。家族の元へ戻った私が、彼のことを告げ口せずに日常生活に戻るなど想像もできないのだ。
孤独な生活に転がり込んできた話し相手に、無条件に浮かれた時期も過ぎただろう。半年が経過している。新鮮な喜びだった他人との生活は色褪せつつあり、負担も退屈も感じてこの軟禁生活が夢見たようなものではないと実感しているはずだ。
ならばそこを突いて穏便にさよならしたい。
物腰やわらかに頑固な加害者を相手に、投げやりになって手足の一本を引き換えにしてでも一撃を食らわせたいと考え出すのを私も控えたい。
身寄りがいないらしいイリスには実感が伴わないようだが、私にとってここでの生活が快適なものであっても、帰らなければならない理由が家族を持つ人間にはあるのだ。
私の家族が、いなくなった私を死んだものとして諦めるとでも思っているのか。
何年経とうと不自然に姿を消した家族の安否を考えずに人間は生活できない。平穏な日常だろうが、幸福のただ中だろうが、他人の不幸を目にした時だろうが、ふっと影を落とす。
両親と妹が心配している。
はっきり死んだとわかっているならまだいい。死因も遺体も目の前にあるなら。
だが行方不明のままでは、苦しんでいないか、哀しんでいないか、助けを求めているのではないのか、いまどうにかすれば苦境から救い出せるのではないのか、姿を消す前にしてやれることがあったのではないか、と結論の出ない悩みがこの先、何十年と続いてしまう。
私はさほど思いやりのある人間ではないし、家族を手放しで愛しているわけではないが、長年共に暮らしてきた一人一人の日常に終わりのない負担をかけたいとは思わない。
それに加えて私自身の行く末のことだ。
私の軟禁が彼の研究の秘匿と孤独を消すためのものならば、彼が研究を終えるとき、あるいは彼の寿命が尽きるときに解放されるのかもしれないが、平穏にそれまでを過ごしたとして、私は何歳になっているのだろう。
生まれ育った街へ戻っても、両親が亡くなっていれば住む人のいない家は処分されているかもしれない。妹たちはそれぞれ家族を持ち、私の存在を意識しない夫や子供や義両親との生活をかためていくだろう。誰かが消えてからの長い年月は、誰かの居場所だった空白を別のもので埋めてしまう。
居場所のなくなった私は、生活のためにお金を稼ごうにも働ける年齢ではなくなっていて、結婚できる年齢でもなくて、妹たちは気持ちとは別に、私の存在を経済的にも新しい家族との人間関係の中でも持て余す。
家も金も家族も持たない年老いた私は、それからどんな生活をして何年生きるのだろう。
イリスの都合に付き合って自分の人生を失いたくない。誠意を尽くされようと、彼一人の存在を頼りに世界を生きてはいけないし、いつ誰と取り替えられるのかと、他人の気分に怯えて過ごす毎日は御免だ。
ただ、私に関係のないところで生きていってくれるなら、イリスのことは別に嫌いではない。
いつだったか夜の室内の闇に黄色い光が丸く三つ灯されていて、目を凝らすと燭台の蝋燭が燃え揺れる下、イリスがスケッチに集中していた。入り口に扉のない部屋で、その背後に足枷の鎖を鳴らさないようそっと身をよせ、作業する手元を確認した。ペン先が動くたび羊皮紙に繊細で詳細な人間の断面が写し取られていく。
彼の前には燭台を二つ載せた大きな机があり、太股を切り開かれて筋肉をさらした老年の男性の死体が横たえられていた。この手前に三つ目の燭台を載せた小机が別にあり、インク壺や羊皮紙などが分けて置かれている。イリスが肘をついているのはこちらだ。
これだけ近くとも匂いは、こんなものだろうか? と思う程度だった。引きこもるようになる以前、市場でよく見かけた肉屋の豚の解体の生臭さを比べて思い出す。かわりに薬品臭い。ホクロが時々、似た匂いをさせている。
私が監禁されてから数ヶ月の間に訪問者があったのは一度だけで、彼らはなにも知らないまま無事に立ち去った。ならばこの老人はそれより前に死体となってこの家の地下に保管されていたはずで、その長期間に腐敗していないのなら、なにかしらの防腐処理がされているはずだ。少ない頭髪へ目を向ければしっとり濡れて地肌に貼りついている。部屋の中央の解剖台に運ぶ前は、酢漬けの野菜のように薬液に浸されていたのだろうか。
人間の身体を切り開く解剖もそのスケッチも、教会から神への冒涜と非難されている。彼が元は修道士だったと云うのならば、この研究こそが彼を孤独な場所へ追いやった原因なのだろう。平穏な人生を捨て、他者の目を逃れて打ち込み続けることを選んだ研究にしては、作業の様子は淡々と義務的で、彼の眼差しからは誰かの借り物のような熱意しか感じられないのが、ちぐはぐな印象なのだけれど。
私は背後からそっと彼の首に両腕を回した。彼は不意に生じた肩の重みから、他人の存在に気がついて羽ペンを持ちあげた。
「ルナリアさん?」
丸い瞳に私の顔が映り込んだ。死体が近い。切り開かれた灰色の太股の筋肉をぬらぬらと、切断面を挟むように置かれた燭台の光が照らしている。冷え冷えとした空気が死の生々しさを緩和させていた。肌寒いが、そうでなければ薬品臭に交じるものの現実感に耐えられなかったかもしれない。
老人の形をしているのに、ここにおいてそれは尊重されるべき同胞ではない。衣服を剥ぎ取られて机に置かれ、悼む気持ちを向けられないことで、生きている間に誰かと関わり生活した気配がまるっきり削ぎ落とされ、老人は人の形をしたなにか別の生き物であった。
先ほどまで熱心にそれに視線を向けていた彼の顔にも、哀しみや恐れや罪悪感がない。
「どうしましたか」
訪問の理由を私に問いかけたイリスだったが、ややして納得する。
「……ああ、一人で退屈でしたか」
私は軽くうなずいた。
イリスが死体と手元のスケッチを見比べて云った。
「少し待ってください。ここを描き終えたら、着替えてきます。厨房に火を入れて、お湯を沸かしましょう。薬草と蜂蜜を入れたお湯を飲めば身体が温まります」
イリスは死体を保管している地下と、解剖のために死体を運び入れる一階の奥の部屋に入るときには、必ず衣服を替えている。死体に触れるときには、さらに帽子とエプロンに袖を足したようなものと手袋をつけ、口と鼻を布で覆う。
スケッチのために外されたそれらは、壁際に据えられた机にまとめて置かれている。その厳格な区別は、門外漢の人間にも重要で専門的な意識を感じさせた。
「あの、ルナリアさん、離れてもらえませんか」
同意を示したと思った私が離れないので、スケッチに戻ろうとした姿勢でイリスが動きをとめる。
無視してそのままにした。イリスが洗い清めていない手で私に触れることを避けるのはわかっていた。手が使えない状態で為す術なく困り果てるのを見るのは日頃の鬱憤が晴れた。
「すぐ終わらせますから。……ルナリアさん? なにか怒っていますか? ……作業の続きができないと蜂蜜湯もご用意が……。作業の続きをさせて下さい。あの……」
ただの暇つぶしであったことを、いまも多分イリスは知らない。
当初、女性である自分が男性に日常のすべてを世話されるのは強い羞恥を覚えたが、イリスは本当にただ世話をするだけであり、元々の知り合いでも好きな相手でもないので、どうでも良くなってしまった。
ベッド脇の小机には、干し林檎の蜂蜜漬けが入った瓶が置かれている。街の生活でも普段なら口にできない少々高価な品は、自分を軟禁した男の気遣いだ。
眠りから覚めシーツから身体を起こせば、顔に流れかかる髪は艶々として、頬に触れればなめらかでしっとりとした手触りがする。両親のいる家で暮らしていたときより肌の荒れが落ち着いた。
そんな生活の中で、不意に気がついてしまった。
両親よりも、彼が私を大切にしている。
《後半へ続く》
次話はヒロインが自分の中に思考を沈めていきます。
三週間後くらいに更新予定。