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砂漠の家 ~おまけ後日譚~  作者: 言代ねむ
4/15

②《斧の日》 後半

悩んで時間がかかった回でしたが、まさか前半より短くなるとは思いませんでした。

 数日間、彼女への私の対応は最低限の義務をこなすだけだった。簡易な食事を運び、水桶と布を置く。部屋の隅には一度来訪者があったときから、非常時に備えたままになった簡易トイレ用の空き壺があるので、ドアに鍵をかけ閉じ込めたまま昼も夜も出すことはない。声はかけない。

 彼女はそんな私に媚びるでも怒るでもなかった。ベッドに腰かけていても窓辺に立っていても、他人へ関心のないような冷めた横顔。

 時折、その青白い頬と伏せがちな瞼にめまいのするような憎しみが湧いた。

 彼女は私の生死に無関心で、私の感情に無関心だ。

 彼女の腕をつかみ強引にこちらを向かせたことがあったが、私を一瞥した瞳の空虚さに言葉を失い、歯を食いしばって部屋を後にするしかなかった。


「脚に決めました」

 私が斧を手に提げ部屋を訪れてそう告げたときも、彼女に反応はなかった。ただ彼女が石の床に腰を下ろしているのを初めて見た。かたわらのベッドに肘をかけた姿勢は、普段よりさらに気怠げでささくれだった気配があった。

 彼女が私へ斧をふり下ろしてから四日が経過していた。開け放した窓から夕方の赤い光がぼんやり広がり、部屋全体に撒いたように砂が積もっていた。窓から大量に舞い込んだその砂と引き換えに、本来なら部屋に満ちていただろう監禁した日数分の汗と垢と部屋の隅の排泄物の臭気がやわらいでいる。

 つかの間、師匠の後ろをついて訪れた農家の家畜小屋を思い出す。着慣れないローブの裾を踏まぬよう、おぼつかない足取りで若草の上に藁草の落ちる小屋の前を歩いた。見慣れぬ人間に家鴨が羽ばたいて羽を散らし、豚が興奮した声を上げて特有の匂いを放っていた。

 あれはまだ師匠が遺体の解剖に関心のない頃で、病人のために薬草を持って訪れた私達に農家の人間も優しかった。

 それた意識を現実に戻し、彼女に問う。

「感想はありませんか」

 返事はなかった。

 手の中には斧と共に眠り薬を塗った針を隠し持っている。

 ここ数日間、気持ちは親愛と憎しみを行ったり来たりした。私が味わった恐怖をそのままに返すために意識のあるまま彼女に斧を当てることを考えたが、生活を共にした数ヶ月間に抱いた親愛の情と罪悪感がそれを押し止めようと働く。危機回避に必要な処置だという判断が手酷い罰を後押しし、現実的な思考が相手の意識を失わせたほうが処置が楽だと訴えた。

 迷った末に実際の作業手順を優先した。暴れられて手元が狂い必要以上の怪我を負わせる可能性を避けて薬で眠らせる。

 彼女は眠っている間に片足の踵の健を切られることになる。つま先立ちができなくなり、走ることは不可能になる。歩行機能は残せるが、不自然な動きになるだろう。

 彼女にはあえて詳しく話さない。肉体の痛みを軽減させる形になった代わりに、実際よりも厳しい罰を想像して怯えを膨らませればいい。

 いや、健康な人間が眠りから覚め唐突に身体機能の喪失を知るというのも精神的な苦痛だろうか。

 ともあれ彼女のかたわらに膝を付き、鎖を引いて彼女の脚をスカートからひっぱりだす。動こうとしない人間を力任せに動かすときに感じる反発力は、生きている身体でも死体でも変わらなかった。

 この間まで自分は生きている相手の体温や脈拍に感動したはずだが、ぼんやりした感覚の向こうへ行ってしまった。

 半年程度の間隔でここへ運び入れられる十数体の遺体は、次が運び込まれるまでの数ヶ月間、特殊な薬液に浸し腐敗を防ぎつつ、常温の状態で解剖している。石の床で冷えた彼女の身体はいま、それらと違いがないように感じた。

 引き出した鎖を踏みつけ固定し、空いた右手に体重をかけて足首を押さえつける。彼女の様子を窺う。斧と針は左手に持ったままなので、利き手に持ち替えないこの状態から作業は続けられない。だからこれは彼女の恐怖を誘う芝居だった。しかし彼女は顔の向きさえ変えず、踵の健は斧をあてるだけでことが済みそうだった。

 どうして逃げないのだろう。恐怖を感じていないのだろうか。

 私だったら逃れようがなくとも、身動ぎせずにはいられない。四日前、肩越しに斧を振り上げた彼女を見たとき全身が粟立った。真っ白になった思考で、あれをよく避けられたものだと思う。

 彼女は無表情だった。背後に雲が空を流れて、手をついた畑の土には十日前に蒔いた豆がようやく芽吹いていた。乾いた地面に沈む鈍い斧の光が脳裏に甦ると、なにか記憶にひっかかりがあった。

 疑問が浮かぶ。これまで一度も浮かばなかった疑問だ。澱んだ思考が砂漠で雨の一滴を受けて土埃を落とすように一部が明瞭になり働き始めた。

「ルナリアさん、本気で私に斧を当てるつもりがありましたか」

 彼女が中空に視線の焦点を結んだまま初めて反応した。

「……手を抜いてどうするのよ。反撃されて殺されるきっかけを作るだけじゃない」

 確かにその通りで相手の殺意を誘うしかない。半端に行うなら、やらないほうがずっとましだ。本心を隠して機会を窺い、頭か胸への一撃、あるいは手足の一本を狙ってやっと逃げ出す隙きが作れる。

 だからこんな想像はおかしいのだが、途方に暮れた心地で私は尋ねた。

「でしたら、まったく油断して背を向けていた私が、どうして致命的な怪我を負っていないのでしょう」

 実際の最初の一振りは転がり逃れた私の足先の地面に刺さって小石を飛ばした。

「あなたが上手く避けたからでしょ」

「……私は動くのが遅れました。気が緩んでいましたから。あの状況で当たらないはずがありません。私が反応するまでのほんの少しの間、あなたは斧をふり下ろすのを遅らせたのですか。待ってしまったのではありませんか、避けるのが間に合うように」

 返る声は日向に汲み置いた水のようにとろりとぬるい。

「それじゃ、なにをしたかったのかわからない」

「私を脅したかったのですか? もしくはどちらでも良かったと考えるしか辻褄が合いません。私が死んでも、無傷でも」

 斧と針を自分の身体の後ろへ遠ざけ、こちらを見ようともしない彼女の両頬にためらいつつ手をあてる。彼女にそんな風に触れたことはなかった。肌に砂が貼りついてざらざらしている。そっと掬い上げて目を合わせた。

 死んだような青い瞳に自分の戸惑いだけが映った。

「嫌気がさしたのですか。どうしようもなく、この生活に。それを命を投げ出すような無茶で私に訴えたかったのですか。それとも……できなかったのですか。命を奪うかもしれないような傷を相手に負わせることが、あなたには」

 多くの人が行き交う街中で当然のこととして倫理を守り暮らしてきた人間が、他人の手足や命を奪うことを思いきれなかった。そういうことだろうか。逃げる覚悟で斧をふり上げ、土壇場で良心の呵責から手を動かせなかった。

 そういった、私とはかけ離れた理由だろうか。正解ならば、生まれや育ちや思考や過去やいま現在の自分の行いを、人の心に共通するなにかから咎められるような思いがする。

 彼女の瞳に感情が戻り、悔しそうに私を睨みあげていた。

 正解なのだ、と思った。恐らく私が推察した全てを含んで、人として守り行う道の最後の一歩を踏み外せなかったのだ。

 自分と彼女の違いに愕然とし、同時に彼女が私の生命に対して無関心でなかったことに胸をなで下ろしてうつむく。

 ……可哀相なルナリアさん、と震える唇で相手に呼びかける。

「あなたが私の命を見逃してくださったので、私も今回はあなたを見逃すことにします」

 虚勢を張って彼女を見下した言葉を投げる私の笑みはひきつって崩れる。自分はもっとましな人間だと思っていた。

 立ち上がり、斧を引きずるように部屋を出る。








《終わり》


次はヒロイン目線の回で、また三週間後くらいの投稿を目指します。

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