②《斧の日》 前半
出だし程度の文章量です。
後半はまた三週間ほど後になると思います。
私が必死に揉み合っている間、ホクロがうろたえるように周囲を右往左往していたのが何度か目の端に入った。まるで飼い犬が主人夫婦の喧嘩に不安にかられて無意味に走り回るように。イリスの焦った顔を見るのも久しぶりだ。その整った顔を容赦なく掌底で押しやり、細い腹にも足裏をあてる。イリスが身をよじって避け、こちらへ腕を伸ばす。一度はふり払ったものの、手首を掴まれて畑にひき倒された。転がった私の手からイリスは斧をもぎ取り、衣服を掴まれ阻まれながらも上半身の体重をのせて遠くへ投げ捨てた。薪割りに使っている簡易な細い斧が放物線を描き、畑の柵を越えて外側へ落ちる。目で追い私は酸欠でめまいを起こす。
あれではもう自分には拾えない。
殺そうとした相手の上に無様に崩れる前に掴んだ服から両手を離し、荒い息のまま身体を裏返した。口が土埃でじゃりじゃりする。鎖に繋がれた片足がイリスにのりかかったままスカートが太腿までめくれた。
イリスもまた激しく胸を上下させながら地面に肘をついて上半身を起こす。身につけた黒いローブは土に汚れて白っぽい。
「……なぜ、こんな……真似を?」
「……」
それは礫砂漠の粗末な廃修道院の住処で鎖で繋がれ逃げ出せずも、食事から風呂まで世話をされる怠惰な生活に不満を失ったはずの私が、唐突に凶行に走ったのはなぜか、という意味だろうか。
それとも他人を軟禁する日常に慣れ、当初の警戒心を失ったイリスが薪割りに使った斧を私の行動範囲に置き忘れたまま畑仕事に出たのを、なぜ思いやりの心で見逃さなかったのか、という意味だろうか。
私は問いかけを無視して尋ねた。
「それで……私は、どうなるの? 手が……なくなるの? 足が、潰されるの?」
イリスは息を乱しながらしばらく無言だった。起き上がろうとして自分の身体に乗る私のはだけた脚に気づいてスカートをかけ、両手で持ち上げて下ろす。
「……それは、あとで考え、ましょう。とりあえず……部屋、だけで過ごしてもらいます……」
おもむろに立ち上がったイリスに手首をとられて、部屋まで歩くよう促される。イリスの後ろを進みながら、死刑執行台ヘ促される人間の気持ちはこんな感じだろうかと、自分を嗤う。
鎖を二階の寝室の中央の床石に繋ぎ直し、ルナリアを閉じ込めたところで、指と右手首に切り傷を負ったことに気づいた。肘と腹と腰は打撲で痛んでいる。斧を背後からふり下ろされてそれだけで済んだのだから幸いと云える。
だが手が震えた。
落ち着け、と壁に背を預け手をにぎり合わせる。
呑気に畑に屈み込み草むしりをしていた自分を憎む。日課である畑の手入れで、風に飛ぶ砂の音、ホクロの走る音、手元の草の根を千切る音に紛れ、ルナリアが近づいたことに気づかなかった。
視界の端になにか異物が入った気がして背後に顔を向け、無表情に斧を持ち上げる彼女の姿を目に映すまで、自分は全く警戒していなかった。鎖に繋がれた女性との日常を平穏と錯覚し、この頃は退屈さえ感じる瞬間さえあったのだ。
あれは手持ちの道具類で一番小さな斧だったが、薪割り場で作業を終え、軟禁相手の手の届く場所であるにもかかわらずそのまま放置してしまうなどあってはならない気の緩みだった。
重傷も負わずいま生きていることに、震えながらほっとする。
死ぬことも恐ろしいが、重傷の状態で放置される可能性があったことがより恐ろしい。脚を骨まで切られていたら、激痛の中で服を裂いて止血し、傷口が汚れるのを覚悟で這って家まで進み……血が止まらなければ、死ぬまでの半日から数日、激痛と鈍痛と寒気と孤独で、まさに生き地獄を味わっただろう。大怪我が腕だったなら、止血さえ片手では難しい。
その想像に苦しみ抜いて亡くなった師匠の無数の暴力を受けた身体の記憶が重なり、知らず知らず涙が流れていた。
彼女に相応しい罰を考えなくてはならなかった。
一瞬にして地の底へ落とされるように味わった私の恐怖、記憶に刻まれた悪夢を鮮やかに現実へ蘇らせた映像、投げ捨てられた日常への返事を。
《後半へ続く》