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砂漠の家 ~おまけ後日譚~  作者: 言代ねむ
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⑧《砂漠に戻った日》 前半

今回はイリスさんのターン。

(20210202改稿 後半のイリスの台詞内の説明に「『胎児が毒を出して母体を苦しめる』と頑なに信じる人がいるほど」など書き足しました)

 畑の前で立ち止まって中に入らず、覚束ない足取りで柵の外側を離れて行くので不信感を募らせたが、ルナリアさんは背後の森が近くなっても早足になりはしなかった。寂れた場所に建つ元修道院らしく、簡素に横長な四角形の建物の裏側を、見上げたり更に奥へ回り込んで建物の崩れた部分に入り込んだりしていた。

 何が気になるのか、崩れ落ちた煉瓦の山の間を歩いて、ナイフで切り落としたような建物の断面を距離を取りながらじっくりと眺めている。二年前なら繋いだ鎖の長さで室内から十分に歩き回れる範囲なので、同じ場所を内側から見たことがあるはずだった。一階と二階の中央に、素人の自分が武骨に煉瓦で塞いだ廊下がひとつずつと、その左右に屋根と壁のない部屋の名残りがある。

 自分一人が移り住んだ時期は、あそこは簡易な木製の補修だった。ルナリアさんを鎖で繋いでから廊下と一階部分の補修を強固な煉瓦に取り換えた。無法者の侵入や落下事故を防ぐためだ。二階も同じように手をかけようとして、嫌な顔をされた。行動範囲を制限された中で、散歩を暇潰しの日課にしていたルナリアさんには、補修で暗く風通しの悪いものになった一階が息苦しい場所になっていた。風化で生じた大小の隙間から光が差し込む室内の方がまだ居心地が良いらしい。彼女の安全のために気になりはしたが、二階は隙間のある部屋の扉と鍵を頑丈にすることで妥協した。

 部屋の配置は二年前のままだ。補修済みの壁の向こうは一階がトイレと藁置き場、二階は衣類の干し場と空き部屋で、他は一階に私の寝室と解剖作業専用で使っている沐浴場、食卓を兼ねた調理場と貯蔵庫があり、二階にはルナリアさんの部屋と日用品置き場、本と羊皮紙を収めた部屋に、空き部屋もうひとつある。

 考えてみれば、十分じゃないか、と思う。忍び込んた家で見たルナリアさんの部屋は小ぶりなベッドと椅子ひとつで窮屈に感じられる程度の狭さだった。この家はルナリアさんの生家よりも部屋数と設備に恵まれて、二人で暮らすには広すぎるくらいだ。ひき籠って生活するなら、砂漠のこの家の方が向いている――と、ここには彼女の大切な家族がいないことを忘れて、心で勝手な優劣をつける。近場に市場や店のない不自由さからも目をそらした欠落の多い自己正当化に恥じ入る。

「なにか探しているのですか」

 気持ちを切り替えて質問を投げかけてみるが、相手にされない。目的があっての探し物を疑うが、ルナリアさんは均等に周辺に目を配っていた。

 実は足元の煉瓦をカモフラージュに地下室から抜け出る隠し扉がある。もし家の中に何者かが侵入して、制圧できそうにない場合に備えての脱出口だ。研究資料や生活用品を分け置いた緊急避難用の森小屋も含めて、いざというときの備えについて彼女には教えていない。一緒に暮らしていた頃、私が死んだ場合に備えて鎖を外す工具をルナリアさんの元へ運ぶようホクロに命じていたことも。

 私から逃げ出すために利用されるわけにいかない。

 死んだ後ならいい。私が死んだ後ならば、この家にある物はどれでも彼女の好きに使って、どこへ行ってどんな風に暮らしてもいい。描き貯めた解剖図や集めた専門書は換金手段のない彼女には役立たないだろうが、貨幣に真珠、ロザリオや指輪といった持ち出しやすい貴重品は、革の巾着袋にまとめて工具と一緒に隠してあった。


 ただ私を殺せば鎖を外す道具が手に入るとは思われたくなかった。


 建物が崩れたこの場所は、鎖に繋がれた状態で庭へ出ても回り込めない位置にあったので、工具や貴重品、武器になりそうな農具など、ルナリアさんの手から遠ざけたい物を片付けていた場所でもある。いまは一部を残して調理場や地下室へ戻してあるため、ここを探ってもあまり意味はない。

 しかしそれらもいまのルナリアさんとは関係がなさそうだ。

 隠し扉も工具も発見しないまま、なにがしかの確認を終えて、畑の周囲に沿って歩き出して家の中へ入っていった。

 娘を思う親心で膨らんだ荷物をどさりと調理場に下ろして、衣類だけ取り分けたルナリアさんはちらっと天井を仰いで尋ねる。

「私が使っていた部屋は空いているの」

「え、ええ。そのままです」

 炉に火を起こして、彼女が使う湯の用意を始めていた私は、質問の意図がわからず面食らう。ルナリアさんの部屋は当然整っている。シーツの取り換えと掃除を欠かさないし、簡易トイレと手洗いの水も部屋の隅に清潔な状態で用意している。ときには枕元に軽食や嗜好品を置く。常にそうしていたのだから、ルナリアさんが知らないのはおかしかった。

 遅れて気が付く。二年も使われていない部屋の状態維持など、普通はしないのだ。

 手落ちに気付いたのは、かつてあてがわれていた部屋に踏み入るルナリアさんを追ってからだった。部屋の入り口で硬直する。

 外出したときは部屋の主を連れ帰る予定ではなかった。そのために直前まで閉め切られていて暗い室内には、自分が出たときのまま、彼女を思って買い集めた品物が山積みになっている。

 一緒に暮らした半年間、ルナリアさんの気持ちを読み取り損なうことを繰り返した私と違って、ルナリアさんはおおよそ正しく私の思考を読み取っていたように思う。山積みの品物の来歴を容易に読み解き、児戯に類する私の行動を知るに違いなかった。気付かないでほしい。気にしないでほしい。虚しい祈りを心で唱えて動けない。

 手探りで窓を開けたルナリアさんは、光の差し込んだ室内を見渡して、当然のようにそれに気が付いた。ひとつづつ摘み上げて確認を始めた彼女の屈んだ背中を直視できない。無関心でいてくれないか、贈り物をいくらかでも喜んで貰えないかと、かすかな希望に縋って俯いた。

 きまりの悪い時間がのろのろと流れ、彼女はそして、無関心を選択した。供物の山については触れず、ふり返って云い放った。


「自分からここへ戻った私を、まさか鎖で繋ぐなんて、恩を仇で返す真似はしないでしょう?」


 私は答えられず、部屋の中央に視線を伸ばし、床に埋め込まれた金具の錆びた太い半円に目を凝らした。





 そうは云っても、繋がなければ居なくなってしまう。部屋に迷い込んだ蝶は開いた窓から簡単に外へ出て、戻らない。

 それを主張すれば、いまの彼女を決定的に怒らせてしまう気がする。人目を忍ぶ研究に明け暮れる生活に、また独り残されるくらいなら、罵られ憎まれても側に縛り付けてしまいたい。逃げ出す前に、気が変わる前に、一刻も早く捕まえて安堵したかった。

 ところが連れ帰って以来、彼女から敵意や不信といった刺々しいものが以前の強さで感じられないので躊躇が生じる。素っ気なくも穏やかな彼女は珍しく、だからもう少しだけ、いま暫くだけ、この状況を味わっていたい。失われたら二度と手に入らないものを、早々に損ねてしまうのは勿体なかった。

 もし危うい瞬間が訪れたなら、薬で昏倒させてしまおう。私は外出時にはめた毒針付きの指輪をそのままにした。



「それで、どうするの」

 ベッドに腰かけたルナリアさんが私を見上げて尋ねた。外出の汚れを洗い流すために、調理場で大桶に張った湯を使ってもらった後だった。話があると寝室まで付いてきた彼女の黒髪は湿ってゆるく肩でうねる。彼女が湯浴みする間、戸口を見張りながら庭の井戸水で身体を洗い流した私は、彼女の髪を乾かす方法に気を取られている。

 食事の準備もこれからだ。炉に火は入れたが、庭の畑に収穫期の野菜はなく、乾燥豆のスープを作るには時間がかかる。保存食では味気ないし、空腹のまま待たせるのは忍びない。まだ若い葉野菜を集めれば彼女一人分のスープくらいにはなるだろうか、などと考えていた。

 何を聞き逃したのかと記憶を掘り起こしていると、ルナリアさんが言葉を重ねた。


「あなたはいつ私と子作りをするの」


 巡らせていた思考が吹き飛んだ。





「は、い? ……え?」

 直前までの思考が消え失せ、何を話していたのかも思い出せず、彼女が直前に口にした言葉が宙に浮いた。

 当事者の自覚もなさそうに彼女が返答を待つ。

「ええ……と?」

 彼女のそっけなさと上手く結びつかないが、中身の伴った夫婦生活を提案されたのだろうか。取り乱しそうになるのを顔の皮一枚で押しとどめ、皮の下では疑問がぐるぐると回る。


 なんのために? 家庭を知らない人間を夫とする益など思いつかない。

 いつからその心構えで? 森の中を強引に手を引いて進んだときのはずがない。

 ご両親に挨拶したときに? 嘘を並べた時間だった。

 窓辺で顔を合わせたときに? 二年ぶりの再会に浮かんだ表情は恐怖だった。


 疑問は尽きないが、状況を顧みれば、以前は寄りつかなかった私の部屋をルナリアさんが訪れて、ベッドに腰かけた時点で質問の準備は整っていたのだ。

 彼女が私との肉体関係を了承しているのだと理解できれば、噴出するように血液が身体を巡る。言葉から彼女との行為を想像してしまった。無性に恥ずかしい。物心ついてから長年修道士として生きてきたのだ。師匠と共に教会を追われようとも、異端の研究以外は生活も価値観も修道士のままだ。女性の遺体を解剖することもあるし、資金の工面のために売春宿で艶画を描いたこともある。それでも身に染みついた感覚を変えられない自分が性的な意味で男として認識されているのかと思えば、全身が紅潮して震える。


 性愛を交わす? 

 身体の関係を結ぶ? 

 自分が男女の関係を結ぶことなど考えてこなかった。


 無様な混乱の最中に視線が絡めば、判然としない真意はともかく、彼女がごく真面目にこちらの様子を窺っているのがわかった。

 この女性と、まともに、普通の夫婦のように、生活を共にしていく? 

 私が、この場所で、人目を避けた研究を続けながら? 

 何事も起きなかったとしても生活は変化する。数年先、ましてや老いた身体で棚の上に手が届かず、畑仕事に腰を痛め、追われても走ることができなくなる数十年先の生活はどうなるのだろう。さらに自分や彼女に死が訪れたとき、残されたほうの生活は――


 次第に頭が冷えていった。


「……私の元へ運ばれて来る解剖用の遺体に多いのは、老人と幼児です……」

 繋がりのわからぬ切り出し方をした私に、ルナリアさんは無言だった。

「研究のための材料としては年齢性別ごとに均等な数が必要ですが、この偏りは自然なことなので仕方がありません。……そして数少ない若者の遺体の内、女性の死因に限って云えば妊娠中毒症と出産が圧倒的な割合を占めます」

 一旦言葉を切った私は、眉尻を下げて彼女を見据えた。

「出産のときに命を落とす女性の話は珍しくありません。しかし実際は出産よりも五か月ほど前から危険がつきまといます……。むくみと痙攣、臓器への負担によって、女性は妊娠しただけで死亡することがあるのです。これらは高血圧――簡単に云うと、血管を血液が強く押して血管内に傷を作りやすくなった状態――なとが原因ですが、妊婦が体調を崩す事例の多さから『胎児が毒を出して母体を苦しめる』と頑なに信じる人がいるほどです。妊娠中毒には薬が使えません。また妊娠中に別の病気に罹っても、胎児への影響を避けるためにやはり薬が使えません。妊娠が原因の異常な状態は出産後まで何か月も続きます。……もし、そういった症状が起こらず無事に出産を終えても、胎児が骨盤内を通過したことで圧迫損傷した神経や、……裂傷によって排便の感覚に支障が出て、その後の人生を長く悩まされることになるのは、四人に一人くらいの割合だそうです……」

 話しながら思い出すのは、様々な体格と容姿の物云わぬ女性たちだ。この家の地下で十人以上を解剖してきた。膨らんだ腹をナイフでそっと割いて胎児を取り出すと、小さな身体をその母親になるはずだった女性の青い顔と見比べずにはいられなかった。考えたのは、一体この女性の周囲でどれだけの人間が「こんなことなら、子供など望まなかった」と嘆いたのかということ。

 まさか結果がどうであれ、子供を産まないという選択肢がこの女性に与えられなかったとは思いたくない。

 少年の頃には師匠に付き添って医者の真似事で貧しい農村を回った。丁寧に病状や怪我の具合を診て回ると知られた師匠が村人に声をかければ、大抵の相手は親しげに言葉を返した。


 ――「奥の家の若奥さんを最近見かけないようだが」

 ――「あの人は先月亡くなったんだよ」


 顔見知りの老人や病人や小さな子供が、次に訪れたときにもう会えないことは日常だったが、元気な姿で覚えている若い女性が結婚して間もなく死んだと聞くのは、妙な気分だった。

 また、赤子だけが助かったと聞く出産直後の姿の遺体が届けられたときには、空っぽの腹を眺めて生命が更新される仕組みの残酷さを実感した。女性の身体が、まるで抜け殻か中身を失った御包みに見えたのだ。十代後半の年齢のこの女性は、生きている間に例えば母から習った裁縫の技や、父から教わった農作業のやり方や、酔っぱらいのあしらい方や、野菜の病気を少なくする方法を知っていたかもしれない。それが他人に語る苦い記憶も美しい思い出も知恵も技も持たず、真新しい身体を持つというだけの弱く柔らかい存在と引き替えにされた。

 誰が望んだ存在であっても、生まれたての赤子がこの女性より価値があるとは思えなかった。子供を産むために生まれて死ぬ役割など認めたくなかった。知識も記憶も蓄積することなく、伝えることなく、ただ種を繋ぐ昆虫のような生き方に意義があるとは思えなかった。

 物憂い過去が連鎖的に脳裏に浮かび、気分は沼に投げた石のごとく沈んでいく。悪いものを払うように頭をふった。

「私はルナリアさんが薬も使えない体調不良に苦しむことや、命が脅かされる状態を歓迎できません。……私はあなたの妊娠を望みません」

 じっと私を見上げていたルナリアさんは、特に反応を見せず、億劫そうに瞼を伏せると立ち去りながら言葉を残した。


「……そう。夫婦の営みをしないというなら、私は楽だからいいけれど」


 やはりその真意がわからない私は、複雑な気分と安堵で部屋を去る姿を見送った。








《続く》


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