⑥《顔合わせの日》 前半
ルナリアさんに左手首をとられ、引きずられるようにして侵入した部屋から出された。ホクロが備え付けた鉤爪を革靴にあてつつ、私の左足首にしがみつく。私から離れず、自分の姿を他の人間から隠すには的確な判断だった。
歪な生き物が思考を正しく働かせているのに比べて、私はここにおいて判断力を失った。私を掴んで暗い家の中を力強く進むルナリアさんの白いうなじを中心に、ただ暗い室内の景色が流れていく。
感情と思考の混乱が収まらない。
甘い言葉で私を家族の前に突き出して家族で捕らえるつもりだろうか。愚かな嘘に期待を寄せた私を数人で押さえつけ、近所に走って自警団の人間を呼び集めるつもりだろうか。私は集団の暴力にさらされるのだろうか。
そうだとするなら、なぜ罠として用意されたのが「両親に挨拶してくれるなら、あなたの家に戻ってもいい」などという現実味のない言葉だったのだろう。もっとなにか……それらしい嘘があるのではないのか。
だが実際に私はなにもできずに、従ってしまっている。
「なにしてるの、ルナ」
途中で蝋燭を掲げた若い女性から声をかけられる。小さな顔に小さな目鼻の中肉中背の女性は、私に目を留めて驚きを隠さない。家族なのだろうが、姉なのか妹なのか他の血縁なのか見当がつかない。
「誰? なに?」
「紹介するから一階へ来て」
短く答えて、ルナリアさんはそのまま階段を降りていく。侵入者も、侵入者と家族の遭遇も彼女にとって不測の事態のはずなのに迷いがない。若い女性は不審そうに私の後ろをついてくる。
有無を云わさぬ背中と、痛いほどの指の感触から伝わる熱に、私は場違いにも母親に手を引かれる幼子を連想した。実際は処刑場へ引っ立てられる囚人と大差ないのに、記憶にない母親の背中を見上げたような心地になる。幼子が訳がわからぬまま母親の勢いに従うように。
一階に降りて引き込まれたのは、食べ物の匂いが残る広めの部屋だった。三本の蝋燭が燭台に灯る中央のテーブルに、父親らしき年代の男性が着き、奥からエプロンで手を拭いながら母親らしき年代の女性が現れた。どうやら食事のための部屋で、奥に調理場があるらしい。薄暗い中でも二人は揃って背が高いとわかる。幸い筋肉質な体型ではない。ルナリアさんや遅れて部屋に入った若い女性の、夫たる男性が堂々とした体躯で待ち構えているのではないかと懸念した私はいくらか安堵する。
ただ年配の男女の表情が険しい。ルナリアさんから二年前の出来事を聞いて、娘を軟禁した男が訪れる今日という日に心を構えていたのだろう。こちらが気持ちを硬くしたところでルナリアさんが声を張った。
「家出中に私がお世話になった人よ」
ビクリと身体が震えた。
「私に会いたくてここまで来たそうよ。また私と一緒に暮らしたいそうなの」
滲む皮肉に唇を引き結んで視線が落ちた。事実でしかない、いたたまれない言葉に身を縮めていくばかりだった。その私の手首を放さず彼女が、だから、と言葉を繋いだ。
「私、家を出ていくわ。この人と結婚することにした」
きっぱりとした宣言が、自分とその場にいた三人を絶句させた。
周囲の顔色を窺う沈黙の中、他人の家族の中に紛れ込んだ私が感じていたことと云えば、酷く愚かしかった。
彼女の両親らしき男女を前にして、彼女が彼らのものであるという実感が不意に重みをもちだしたのだ。大通りで彼女を見かけて簡単に攫うことを考えた。それは実際に相手を目にするまで、彼女の両親の実在を認識できていなかったことに他ならない。
本当に、まるで私は彼女が一人きりでそこに存在しているような認識が抜けていなかったのだ。家族と共に暮らしている状況を、彼女が自分の元を離れて別の集団に混じったかのように感じていた。
こうして現実にその人と向かい合えば、彼らが今の私よりも若かった頃、覚束ない足取りの幼い彼女を傍らで見守った日々が想像できる。私が行き倒れていた彼女を見つけてたった数日行った世話を、彼らが二十数年続けたことが実感できる。
恥ずかしかった。
彼らが手間暇と愛情をかけて育て上げた一人の人間を、横から不当に奪った人間が自分だった。懲りずに攫おうと現れた自分に、いまから向けられるであろう、その怒りの正当性が恐ろしかった。
ルナリアさんの唐突な発言の衝撃から立ち直り、最初に咎めるように口を開いたのは母親らしき年配の女性だった。痩せて神経質そうな印象がある。
「そんな急に……ルナリア、あなた……お世話になった人と将来の話をするような間柄だったなんて、お父さんも私も聞いていないでしょう……」
横から若い女性が慌てた。
「ちょっと待って。いきなり過ぎてわからない。私もお父さんもお母さんも、まだ彼の名前も聞いてないんだけど」
背の高い人達の側にいるせいで平均的な体格が小柄に見える若い女性は、日に焼けて健康そうで、ルナリアさんとは印象が随分異なる。
父親らしき年配の男性が遅れて場を仕切った。
「まあ……とにかく詳しい話を聞こう。ルナリアも、そちらの……彼も座ってくれ」
向けられた眼力の強さに怯むが、口調は冷静で理知的だった。
状況に対処するよりも、私は次々と飛び込んでくる他人からの情報に目を回す。言葉の内容と口調、外見と表情、互いが顔を見合わせた反応などのすべてが、同じ強さで自分を刺激していた。他者のいない暮らしの期間が長過ぎる。情報の取捨選択と優先順位付けがまったく出来ずに、思考の処理が追いつかない。これからなにを話されてもまともに頭に入る気がしなかった。
ルナリアさんは素知らぬ顔で私の手首を掴んだまま、男性とテーブルを挟んで向き合う席に腰を下ろした。私を促して並んで座らせる。
周囲の人間は突然の出来事に対して不満と戸惑いを生じさせているようだが、怒りの気配は曖昧だった。
男性に飲み物の用意を頼まれた年配の女性が奥へ行き、若い女性が後に続いた。もてなしの形が私に対して整えられることがわからない。
初対面の三人は、私を侵入者と認識していなかった。
事態が飲み込めない。理解したのは、ルナリアさんがいまだ夫を持たないことだけだ。
誰がどこまで事態を理解しているのだろう。家族全員か、ルナリアさん一人か、危機を察した人間と気づかない人間にわかれているのか。
私を芝居でこの場に留めて、その隙きに密かに人を呼びに行くつもりではないのか。警戒の視線を走らせれば、女性二人の姿は遠ざかったものの、まだ視界に留まっている。
表面がなめらかに削られた新しい木の器で人数分の飲み物が用意された。匂いから判断するに林檎酒らしい。年配の女性が男性の隣に、若い女性がルナリアさんの横の席に座って自己紹介が始まり、年配の男女がルナリアさんの両親であることが確定し、若い女性がルナリアさんの妹と判明した。
父親である男性が他の誰よりもルナリアさんに似ている。くっきりとした眉と大きな目は、別の場所で見かけたとしても血縁関係を疑う。若い頃は女性たちの目を引いたに違いない。年齢の割に贅肉のない身体つきで、頭髪が薄くなってはいたが、男性らしい端正な容貌をしていた。
二人の女性も、父親ほどではないが、やはりどことなくルナリアさんに似た容貌をしている。
ルナリアさんは私を「家出して行き場のなかった自分を心配して、事情も聞かずに数ヶ月間自宅に泊めてくれた恩人」と紹介した。
耳を疑った。揃って嘘を演じているのでなければ、ルナリアさんは家族に自分が軟禁されていたことを話していない。そんな事実がありえるだろうか。
気になっていたのだろう、彼女の妹が身を乗り出して尋ねる。
「ねえルナ、なんでイリスさんの手を握っているの?」
気まずく隣を見れば、顔色も変えずにルナリアさんが即答する。
「逃げ出さないように」
場のぎこちなさが一層増した。彼女の父親が不信感をあらわに眉間にくっきりと皺を寄せる。
「親への挨拶から逃げ出そうとする男と結婚するつもりか」
「私との結婚が許されるとは思っていないのよ」
「挨拶する気がないなら、なにをしに来たんだ」
「……私が引っ張って来たの。イリスは私を市場で偶然見かけて、家まで追いかけて、私のことが忘れられなかったと自分の気持を伝えただけ。明日には帰ると云うから、私が結婚を決めて挨拶してもらうことにしたのよ」
「娘はこう云っているが、君はどうなんだ?」
厳しい顔で問われるが、私には事態が飲み込めない。ルナリアさんの狙いがわからないし、彼らが本気で尋ねているのかもわからない。彼女の母親と妹も真剣に見守る中、黙り込む私に彼女の父親が失望を顔に浮かべた。
「……彼にはお前との結婚の意志がないようだぞ」
ルナリアさんが強気に返す。
「お父さんが怖いのよ」
思わず、さ迷わせていた視線を跳ね上げた。娘が父親に向ける言葉としては鋭い気がした。
「意志があるなら、相手の親に怯むはずがないだろう」
「怯むわよ。自分が怖がられない父親だと思ってるの?」
これが普通の親子の会話なのだろうか。自分は養父とも云える立場の師匠に逆らったことはない。見放されれば死ぬことがわかっていて、自分を養い、教え、導いてきた相手に不遜な態度は取れるものではなかった。
「あの子の旦那が最初に挨拶に来たときだって、お父さんに酷く緊張してたじゃない。職場でだって怖がられているんでしょう? イリスには心の準備の時間なんて作らせなかったんだし」
不機嫌な父親に不機嫌に返す娘のやり取りに、内容はわからないまま心が凍る思いがして、とっさに掴まれたままの手首を捻り逆に掴み返した。引き寄せて瞳を捉えると、ルナリアさんが意外そうに私を見た。
「……あなたを守り育てた相手に、向けて良い……態度ではありません……」
震えながらようやくそれだけ口に出すと、他の三人もまた意外そうな視線を私へ注いだ。
怒りを覚悟した私に、静かな質問が落ちた。
「あなた……結婚するのは嫌?」
「……考えたこともありません」
「結婚相手が私では不服?」
「私では到底釣り合いの取れない……高望みが過ぎる女性です」
わずかな沈黙が落ちて、ルナリアさんがくるりと父親に顔を向けた。
「こう云ってるけど、問題ある?」
ここまでやり取りを聞くだけだった彼女の母親が気がかりを口にする。
「イリスさんの服装は……修道士よね? それで結婚って、どういうこと?」
「修道院で育ったというだけよ。いまは修道士じゃない」
「ご両親はどうなさっているの」
「死んでいるのよね? 血縁は皆。育ててくれた師匠も」
彼女がさらりと告げた内容に、弛みかけた空気が軋む。両親より軽い気持ちで耳を傾けていただろう彼女の妹でさえ表情を硬くした。誰も口には出さなかったが、素性が知れず頼れる血縁を持たない相手に対する抑え込んだ拒絶反応だった。
本来ならば、毎日の食事や寝床は大人になるまで親から与えられるものであるし、怪我を負ったり病気になって看病を受けられるのも家族がいるからだ。そういった安定と安心を得られず育った人間が、心を荒ませる場合が多いと不安を抱くのは理解できるし、周囲の人間と死に別れ続ける人間を不吉に感じるのも自然だと思う。
無理からぬことだった。
「それで君は何歳かね」
彼女の父親が重く質問を再開した。
「うちの娘は見ての通り……初婚に望まれる年齢を随分過ぎている。君はもしかして娘より年下じゃないのか」
私に代わって家族からの質問に答えてきたルナリアさんも、これには答えず私を見た。私は彼女に年齢を話したことがなかった。
「二十九歳になります」
初婚という単語に不思議なほど安堵を覚えて舌の滑りの良くなった私に、ルナリアさんだけが、そんなものだろう、という顔をした。家族は意表を突かれた顔をする。彼らからすれば、愛する女性の家族を前にして、青褪めて返事も出来ずに逃げ出そうとしている頼りない男なのだから、年若く思われても仕方がなかった。
「それなら、まあ……おかしな年齢差ではないが」
彼女の父親が気を取り直すように飲み物に手をつけたのを発端に、ルナリアさんと彼女の妹も飲み物に手を伸ばす。掴んだ彼女の手首をどうしたものかと迷っていると、彼女に手を取られる。繋いだ手のカサついた温かな湿り気と、指先の華奢な骨の感触を、気恥ずかしく感じるのは私だけのようだった。
この場で彼女が行動を起こさないのは、私と私の左足に忍ばせたホクロに敵対するには、女性が三人と男性が一人という心許ない状況のせいだろう。頼りとする父親は若くはないし、母親は年齢に加えて非力そうな体格だ。なにより彼女の家族が事実を知らないのならば、結婚相手として紹介された男を、急に侵入者だったと主張を変えられたところで、対応などできないだろう。
この状況で手を掴まれているのは、彼女にとっては私を逃さず家族を襲わせないためであり、私にとっては彼女がこっそり誰かに真実を教える隙きを作らせないためだった。
そうして互いに身動きの出来ない状況で、ルナリアさんの作り出した設定に私が取り込まれていく。
気詰まりながらも平穏でありふれた家族の顔合わせの場に、自分は確かに参加していた。集団の一員として、誰かと、何人かと、テーブルを囲んで言葉を交わしたのはいつが最後だったか。
暗い家の中で蝋燭の明かりに浮かび上がる情景を見回す。
砂漠の家で囚われていた頃のルナリアさんは、離れて暮らす妹に私を近づけまいとした。いまも家族に心配をかけまいと自分の身に起きたことは隠したまま、自分の身を差し出すことで、私を家族から引き離すつもりなのかもしれなかった。
彼女の母の溜息は深く沈み、彼女の父と妹の視線がテーブルに散らばる。弛んだ空気の中で手のひらに伝わる荒れた皮膚の感触に、あの砂漠の家で暮らすなら、私は彼女に雑用の一切をさせないのに、と思った。
《後半へ続く》