水蒸気
別れに前触れは無かったが、不穏に漂う、確かな予兆があった。聡太朗が泣いていて、雪奈は口角を上げただけの笑顔で彼を見ていた。
「大丈夫だよ。聡太朗くんは、なんかそのままで良い気がする。」
閉園後の夜の遊園地には、僕達四人だけ。不気味な静寂が満ちていて、満天の星空が僕達を孤独にする、特別な世界だった。ついさっきまでは。
僕はきっと、雪奈にはもう会うことはないだろう。今の僕にとっては、ただの夜の遊園地で、ただの星が出ている夜だった。得体のしれない清々しさに感傷は浸食され、やがて跡形もなくなっていく。
ある日曜日の午後、僕達はある計画を実行するために遊園地に居た。
僕達が育った町は、市街地から少し離れると田んぼや山々が広がっていて、のどかな風景を見せてくれる。小高い山の中腹にこの遊園地はある。
『わくわくレジャーパーク』という、いかにも昔ながらのネーミング。終盤ではあるが八月の日曜だというのに閑散としていて、もの悲しさが漂っている。園内は刺さるような太陽の光を受けているのに色が褪せていて、真っ青な空や敷地の外に広がる木々達の緑、鮮やかな夏の色がそれをより一層、際立たせていた。
「あっ、あれ、まだあるんだ。子供のころ乗ったよ」
聡太朗が楽しそうに指差したのは、ジェットコースターと言えるのか分からないほど小さなアトラクションで、鉄骨はかなり塗装が剥げているのだが、いっちょまえに『エキサイトストーム』という名前が付いている。
聡太朗は通っている専門学校で知り合った友人の一人だ。入学当初は、休憩時間に長い前髪を垂らして本を読んでいる姿しか印象に残っていない。喋るのさえ見たことがなかった。年齢や経歴も様々な生徒がいるため、特に気に留めていなかったのだが、陰気で近寄りがたいイメージを持っていたのを覚えている。
夏季休業中にこうして遊びに出掛ける仲になるとは、今でも不思議に思う。一緒にではなくても、聡太朗がレジャーに出かけるというイメージがあの頃は想像できなかった。
「だいたいの遊具はずっと変わってないよ。先輩から聞いた話じゃバイキングは五年前からメンテナンス中らしいけど」
聡太朗の幼馴染の幸一は、僕らと同じ学校に通いながら、週末にこの遊園地でバイトをしている。たまには週末をゆっくり過ごしたいとのことで、この日は偶然休みを取っていたという。
今は長期休業中で、平日も僕らとあちこち遊びに行っているというのにおかしな話しだ。
「あんまり覚えてないなぁ」と呟き、おぼろげな記憶をたよりに園内を見渡していると、
「小学校の時に来たじゃん」
目を煌めかせながら先頭を歩いていた雪奈がこちらを振り返った。
「あぁ、そうだっけ。というか、よくこんな遊園地でそんなはしゃげるよ。」
「だって、懐かしいんだもん。こっちに帰ってきてから、もう全てが懐かしい。」
彼女は僕の幼馴染で、中学二年生の時に親の仕事の都合で遠く離れた所へ転校した。高校を卒業し、今年の春に地元に帰ってきたのだ。つまり今ここには二組の幼馴染がいることになる。
「まずはあれに乗ろうよ」と聡太朗。
「聡太朗くん、ジェットコースターとか好きそうだもんね」
自然と僕達はエキサイトストームの方向へ歩みを進めた。
聡太朗と幸一が、雪奈と出会ったのはつい最近で、二か月ほど前だ。しかし、その出会いの前に僕と聡太朗の出会いと、雪奈との再会の話をしなければならない。
聡太朗との出会いはかなり特別だった。きっと彼の心の中には、おおげさではなく、人々が最終的に辿り着くべき無垢な何かが宿っているのだと思う。
先に親しくなったのは、席が隣同士になった幸一だった。休憩時間になるとよくあのバンドがどうとか、あの映画がどうとかいう話をする仲になっていて、そこに本当に時々、聡太朗がやってきて幸一と言葉を交わすのだった。帰りに本屋に寄ろうだとか、今朝は寝坊したから一本遅い電車に乗っただとかそういう話しを少しする。
第一印象と違って、幸一の前ではよく笑う人だった。僕にはいつも「どうも」と挨拶するだけだったが幸一から友達だと聞いていた僕は、ある日幸一と僕の所へやってきた彼に話題を投げかけると、最初は恥ずかしそうにしていたが、あの講師は声が変だとかそういうくだらない話をして笑い合った。
聡太朗との距離が縮まってくると、自分と彼は似ている。おぼろげにそう思うようになった。本来の自分を思い出させてくれている気がするのだ。
例えばよく晴れた日と、どんより曇った日の、昼休憩時間。彼は屋上で空を見ていたりする。聡太朗以外の学生や教員が、講義の内容について議論したり、携帯電話を見たりする中、聡太朗だけが違った。
「空を見てる」何をしているのか尋ねたとき、彼はそう言った。
青天の日は、眠たそうにしていて、空と街を少し見渡すと、あとは柵によりかかって座り、目を瞑ってしまうが、その日は曇天だった。
胸のあたりまである柵に腕を乗せて、その上に顎を乗せて、じっと風景を見つめていた。ほとんど無表情で、思考は読めないが、将来に想いを馳せているわけでもなく、追想に耽っているわけでもないように思えた。かといって今を見つめているような現実味も薄かった。
確かに、「眼」は空を見ているが、「聡太朗」は何か別のものを見つめているように見えた。
聡太朗自身、その「何か別のもの」が何であるか分からなかったからそう答えたのだろう。その時に、ある程度社会性を身に着けた人間は、それをすることが難しいのだと思った。解らないものを知ろうとするか、その答えを諦めるか。そのどちらでもなく、聡太朗は知ろうともしていないし、答えも諦めていない。
ただ空を見ているだけなのに、彼は人とは違うと感じることが出来た。幼少期、理解出来ぬものを理解しないまま見つめていた心地いい浮遊感のようなものを僕に思い出させた。
自分も本来、そういう種類の人間だったのではないかと感じたものだった。
六月のある日、聡太朗のある種の秘密のようなものを知ってしまう出来事が起きる。
僕達三人には、ある日の帰り道に見つけて、可愛がっていた野良猫がいた。茶色だからという理由で聡太朗がキナコと名付けた。かなり人に慣れていて初めて見つけた時から僕達に懐いてきていた。
帰り道にあるタバコ屋の、道端にある喫煙スペースで聡太朗と幸一が一服をするようになり、キナコを発見したのだ。
しゃがみこんだ幸一がふざけてキナコに目がけて煙を吐き出すと、そっぽを向いて僕の方へツタツタと歩み寄り、丸まって寝転がる。そして毛づくろいをする。
聡太朗は何故かいつもおどおどしながらキナコと触れ合う。コンクリートの上で丸まって寝ている時は撫でたりせず、キナコの方から擦り寄ってきた時だけ控えめに頭や顎を触る。そして尻尾をピンと立ててキナコが立ち去ると「あいつかわいいなぁ」と独り言みたいに言う。最初はあんまり猫が好きじゃないかと思っていた。
ある時からキナコは急激に元気をなくした。今まではキナコの方から擦り寄ってきたり、タバコ屋から駅の方へ歩き出してもしばらく後を付いて来たりしていたのだが、動きが少なくなり、たまに僕達の方へ歩み寄る時も後ろ足をひきずるようになった。左後ろ足にケガをしていた。カラスとケンカでもしたのだろうかと安易な想像しか出来なくて、理由も分からなければ対処法もわからない。
保険所に連絡するだとか案は出たものの、残酷なことに僕達はそこまで行動するに至らなかった。ほとんど強制されない限り、人は自分のエネルギーの温存を優先する。それでも僕達はキナコの身を案じていた。
キナコは日ごとに弱っていったが、毎日僕達の前に姿を現した。時々耳を動かすだけのキナコを撫でる。
「もうきっと長くないね」
知識は無かったがあからさまに衰弱していく様子は死を想像させる。
「なんとかしてあげたいよ。俺、連れて帰ろうかな」
聡太朗はそう言うと僕、幸一へと順番に視線を向ける。僕はそうして欲しいと願ったが、結局聡太朗は連れて帰らなかった。
翌日、キナコは姿を現さなかった。タバコ屋の周りを少し探してみたが見つからなかった。その翌日も、また次の日も姿を見せなくて、僕達は範囲を広げて探した。
少し離れた、軽自動車がやっと通れるくらいの路地に、キナコは居た。カラスに死肉をついばまれていた。僕たちは死の現実を見てしまった。
翌日、聡太朗は学校を休んだ。幸一がメールを送ったが返事はなかった。僕もあの光景はショックで心に張り付いていたが、朝は普通に起きることが出来たし、正直自分の生活に影響が出るほどではなかった。
一日休み、聡太朗は登校してきたが、明らかに元気がなかった。昼休憩時間は教室に居なくて、屋上に居るのだろうと思ったが、その日は顔を出すのをやめた。
一日の講義が終わると、いつの間にか聡太朗の姿がなくて、幸一と二人で帰路についた。学校を出た時間はそんなに差がないはずなのに、前方に聡太朗の姿が見えない。
「どこかに寄り道してるのかな」
「いや。多分こっちだ」
幸一はいつものコースではない道へ入った。歩いていると、僕にも予想がついてきた。あの場所へ向かっている。
少し鼓動が早くなっている。もしもキナコがあのままだったら。その細い路地へと曲がる。
聡太朗は居た。コンクリ―ト塀に背中を付けて座り込み、タバコを吸っている。キナコの死体はもうそこになかった。
「聡太朗」
僕は確実にここに聡太朗がいるとは思っていなかったから驚く。幸一は聡太朗の横に座って、タバコに火を付ける。僕も、幸一の隣にしゃがんだ。聡太朗がタバコをコンクリートで揉み消すと、すぐに次のタバコを吸い始めた。
「俺、キナコを殺しちゃった」
僕はその言葉にドキリとした。責任感に苛まれているのだと理解しつつも、聡太朗の隠されている部分が垣間見えた気がしたのだ。
「聡太朗は悪くない。誰だって同じことをしたって」
幸一が言った。
「違う。救えたかもしれないんだ。連れて帰って、医者に見せたりとかしようとしてたのに、しなかった。そう思ったのに、しなかったから、死んだんだ。あんな風に死ぬなら、いっそ俺が優しく殺した方が良かった。幸一と祥平は、悪くない。俺が」
聡太朗は泣いていた。なんて残酷なほど純粋な人なのだろうかと思った。彼にこの先、どれほどの悲しみがあるのだろう。彼の過去には、どれほどの悲しみがあったのだろう。
曇天。電線に三羽のカラスがとまっていて、こちらを無機質な眼で見ている。春が命の季節ならば、六月は死の季節なのだろうか。
それから一週間ほど経ったある日。その日は昼間の気温が一気に上がり夏を感じさせる気候だった。講義が終わり、駅前の喫茶店に僕達は居て、ケーキを食べ終わり、飲み物も無くなりかけていて、なんとなしに周りの客の会話を聞いていた。
空席を挟んだ二つ隣のテーブルにはカップルが座っていて、夏は友達も誘って海へ行こうだとか、楽しそうに今後の予定を話していた。僕達より先に居た彼らは、アイスティーか何かをとうに飲みほしているのにその後もずっとお喋りを続けていて、今ようやく店を出る様子を見せている。
彼らが居なくなると、幸一が「楽しそうでいいねぇ」と皮肉まじりに言った。
「うん。楽しそう。羨ましいなあ」
聡太朗の方には何の皮肉もまじっていない。聡太朗はキナコの一件から、ようやくいつもの調子を取り戻していた。いつも通りと言っても、ぼんやりして少し暗い感じだった。
「そういえば、二人には彼女とかいないんだ?」
二人に恋人がいる様子は無かったが、なんとなくしてみた質問だった。そこから恋愛の話に発展した。一番恋人が居そうな幸一を含め三人とも恋人は居なく、ほとんどが高校生時代の思い出話だった。
幸一と聡太朗は高校も三年間同じクラスで、ある一人のクラスメイトの女の子に恋をした。
放課後三人で色んな話をして、寄り道をした。同性のように親しみやすく、優しく見守ってくれるような人だった。と聡太朗は言って、「なんかお母さんみたいな感じかな」と笑いながら付け足した。
そして、彼女は幸一のことが好きだったのだと。しかし幸一は彼女と付き合うことはなかった。聡太朗がトイレに立った時に、幸一にその理由を尋ねてみた。
「聡太朗を傷つけたくなかったし、聡太朗とずっと一緒に居たかったんだ。」
「その気持ち、なんか分かるよ」と僕は言った。
聡太朗と幸一の関係性もなんとなく腑に落ちた。幸一は聡太朗を守っているが、同時に聡太朗に縛られている。聡太朗にはそういう魔力のようなものが備わっている。
「祥平は?好きだった人とか居ただろ」
僕は反射的に雪奈の顔を思い浮かべた。
「まあね」
その時の僕は、まだ雪奈と再会していなかった。中学二年で離れてしまったから、幸一たちのような話は無い。
雪奈との思い出を探ると、別れの日はもちろんだが、小学生の時のある出来事が思い浮かぶ。
僕と雪奈は家が近所で、一緒に登下校することが多かったのだが、ある日の帰り道、道路端の用水路にメダカの群れを見つけた僕達はそれを観察し始めた。
しばらく見つめていると雪奈が突然、水の流れを弱めるために設置されていた堰き止めの板をはずした。音を立てて流れ始めた急流はメダカをあっという間に遠くへ運んで行った。
僕はひどく困惑した。目の前にあった穏やかな光景が一瞬のうちに消えてしまったのだから。
「なんでそんなことしたんだ」
「ごめん。でも、居なくなっちゃったんだから、どうしようもないね」
納得のいかない答えだった。
「板をはずしたのは、雪奈でしょ」
「ごめんって言ってるじゃん。仕方のないことなんだよ」
雪奈は悲しそうにした。行動との整合性がとれないその表情は、世界には知らないことが確かに存在していると思わせたものだった。幸一には雪奈のことを話さなかった。
「それなりだよ」とあからさまにはぐらかしたが、幸一は「そうか」と言って、僕の意を察してくれたのか話を終えた。
それから間もなく、僕は雪奈と再会することになる。突然、家に電話がかかってきたのだ。母親が「あんたに電話」と電話機の子機を渡してきた。
「僕に?」
「そう。同級生だっていう女の人」
同窓会か、誰か死んだか。家の電話が、自分に向けてかかってくることは全くと言っていいほど無く、そういう想像をしてしまった。
「もしもし」
おそるおそる電話に出た。
「よかった。掛からないかもう居ないかのどっちかだと思ってた」
「あの、どちら様?」
「雪奈です」
何故だか一瞬、知らない人の名前だと感じた。
「雪奈…。藤村?雪奈?」
「そう。藤村雪奈。覚えてる?」
「う、うん。覚えてる」
「小学生の頃のアドレス帳が出てきて、それに祥平んちの電話番号も書いてあったの」
鼓動が少し、早くなっている。
「どうしたの?」
「今から会わない?良ければだけど」
「今こっちにいるの?」
「うん。前の家じゃないけど。駅の近く」
僕は半袖半ズボンの家着にパーカーだけ羽織って宵闇の外へ出掛けた。
まだ少しだけ雨季の空気感が尾を引いていて、鮮やかさを待ち望んでいるような外の表情。十分ほどで、待ち合わせている駅の近くの小さな公園へ到着した。
雪奈はジャージにロングTシャツという自分同様ラフな服装で、児童用の小さな鉄棒に腰かけていた。少し大人になった雪奈の元へゆっくり歩みを進める。
短かった髪はかなり伸びていて、想像していた通り色は黒のままだ。距離が離れていたが彼女はこちらに気付いた。雪奈の顔は、こらえるようにほころんでいる。雪奈の表情だ。最初になんて声をかけようか考えていると、少し離れた所から雪奈が言った。
「祥平。元気そうじゃん」
「そっちは?」多少戸惑いつつ聞く。
「元気。急にごめんね」
「いいや」
こっちに戻ってきた訳とか、連絡してきた訳を聞きたくても聞けない。なんだかとても重要なことのようで、いきなり聞く勇気が無かった。それを聞いてしまうとこの時間が終わってしまう気がしたし、それが一番重要なことではない気もしたからだ。
「雪奈、なんか大人になったね」
「当たり前じゃん。そっちは全然変わってない」
「そう?」
「うん。同じ。まったく」
雪奈の口調。彼女のペースをなんとなく思い出す。
「どうしたの。急にびっくりしたよ」
「今私、暇なの。戻ってきてから、なんとなく会いたくなって、それで」
本当なのかどうか分かりかねる、雪奈の話し方。でも、嬉しかった。
「私、こっちの人達と疎遠になっちゃってるんだけど、みんな、元気?紗代とか穂乃花ちゃんとか」
「まぁ、それなりにみんな元気にやってるよ。あ、穂乃花は哲也と結婚したよ。」
雪奈は驚くこともなく、楽しみなことを控えているかのように笑って、そっか。と言った。
「そういえば、元木すごいよね」
話題を考えるのがもどかしくなり、頭の中に浮かんだことをそのまま喋る。
雪奈が今度は「ふふ」と笑った。
「すごいよねー。もう普通にテレビの人って感じがする」
「まさかあの元木がああなるなんて。」
「あの時から可愛かったけどね」
「まぁ」一呼吸おいて「確かに」と僕は言った。
同級生の話題から、思い出話になった。今とか、離れていた時間とか、きっと大切であろう部分にはお互い触れなかった。
かなりの時間、僕たちは思い出話をしていた。少し肌寒くなってきている。
「僕たちずっと思い出話してるね」
「だって、それ以外を話すと終わっちゃいそうじゃん」
昔から雪奈は時々、僕の気持ちを代弁してくれる。
「じゃあ祥平は今何してるの?」
急に大人にしか持ち合わせていない表情を見せる。
「学生だよ」
「大学?」
「専門学校」
「ふーん」
やっぱり今の話をすると雰囲気が変わる。
「そっちは?」
「ただの暇な人」
「そっか」
「うん」
なんとなく、深くは聞けない回答だった。
「学校は楽しい?」
「まぁ、楽しいよ」
「どういう所が?」
僕は聡太朗を真っ先に思い浮かべた。
「面白い人が居るんだ。」
エキサイトストームの乗り場は、係員の男性が一人居るだけだった。遊園地の目玉とも言えるジェットコースターの様子が、この遊園地の危機を物語っている。
幸一が係員に挨拶をし、僕たちはコースターの席へ案内された。前後に二人ずつの四人乗りが三両。その先頭に僕たちは乗り込んだ。聡太朗と雪奈が前に座った。
「伊藤さん、半笑いだった。自分のバイト先に遊びに来るなんて、恥ずかしいな」
隣の幸一がぼやく。伊藤さんというのはさっきの係員のことか。
安全バーを降ろすようアナウンスが流れる。自動では降りてこない。カチリと鳴るまでバーを降ろして間もなく、コースターは発進した。
ゴーと音だけは大袈裟だったが、速度は園内とここら一帯の自然、遠くの町をのんびり遊覧できるほどだった。前に乗る二人は案外楽しんでいるようで、懐かしいだとか遅いだとか騒いで時々こちらを振り返り同意を求めたりしている。
幸一は前の二人が楽しければ満足といった具合で、風景を眺めていた。
いくらか涼しい風を浴びながら、僕も園内の様子を眺める。園内にはぽつ、ぽつと片手で数えられるくらいの、何組かの客が居て、その中で一組の母子に目が留まった。周囲には人が居なくて男の子が持つ赤い風船が寂しく印象的だった。
遊具と遊具の間にある休憩スペースの近くで立ち止まり、母親が何か話しかけている。男の子が駄々をこねるような表情をする。また母親が微笑みながら語りかける。優しくてどこか悲しい笑顔だと思った。
ふと、男の子の手から風船が離れる。意外にも男の子は平然と、お母さんは少し驚いた表情で、二人とも手を伸ばして掴もうとするわけでなく、風船の行方をただ見つめていた。
「意外に面白かったね」
聡太朗が隣を歩く雪奈に話しかけるまで、さっき見た親子の影響か、幼少期の記憶に想いを馳せていた。 ぼんやりとなにかに耽っていると、聡太朗みたいだなといつも思う。
「確かに。聡太朗くんかなりはしゃいでたもん」
「そっちだって」
構図はエキサイトストームに乗っている時と変わらず、談笑する二人の後ろを僕と幸一が歩いている。
「あれ、おばけやしきじゃない?」
聡太朗が言う。お化け屋敷の看板には、分かりやすく魔女やドクロ、蜘蛛の巣の絵が描かれている。
「ほんとだ。ゴーストミュージアムだって。私やだ」
「みんなで行けば大丈夫だよ」
「絶対にいや」
「えー、行こうよ」
「いや!」
いくら怖いのが苦手だからといって、あんなにチープそうなお化け屋敷にあんなに怖がらなくてもいいのになと思う。そもそもこれから本当にこの遊園地に幽霊がでるかどうか確かめようとしているのに、不思議な光景でつい笑ってしまった。
「ちょっと、祥平なんで笑った」
雪奈が素早く振り返って目を細めた。
僕達は今日、この遊園地のちょっとした都市伝説の真偽を確かめるためにここへやってきている。町に一つや二つ必ずある程度の都市伝説だ。
「そんなので怖がってたら本番迎えられないだろ。練習でこれに入ろう」
「んーたしかに。しょうがないから目瞑って入る」
こういう時は、幸一の決定力がみんなを動かす。受付では、魔女の帽子を被った女性が座っていた。
「あれ、田端くん。友達と?」
「そうなんです」
幸一は苦笑しながら答えた。
「楽しそうだね。大人四枚ね」
「はい、お願いします」
お化け屋敷の中は博物館を模していて、日本の妖怪から西洋の怪物の人形が順番に並んであるだけだ。それなのに雪奈はほとんど目を瞑りながらずっと聡太朗の後ろをくっつきそうなくらいの距離で歩いている。 その後ろを僕と幸一が歩く。西洋の怪物ゾーンが終わると「禁断の間」と入口に書かれた場所に辿り着いた。
立ち入り禁止のロープが横によせられているが、一本道のためそういう演出なのだろう。怖がった雪奈は僕の隣に移動して腕にしがみついてきた。聡太朗はこちらを一瞥して開け放たれたままの扉の向こうへ入った。
部屋の中央には犬の頭をもつ怪人の像が置いてあり、近づくとライトアップされた。その光に驚き雪奈は僕の腕を掴む力をギュッと強くした。しかしその怪物の像以外はほとんど何も無かった。
像の後ろ側の通路から光が少し差し込んできている。出口になっているらしい。あれだけ怖がっていた雪奈もさすがに拍子抜けしたらしく僕の腕を離した。
聡太朗と雪奈がほぼ同時に像の前に立つと、像の後ろから、突然ミイラ男が唸り声をあげながら出てきた。「わぁっ」と声をあげて退く聡太朗。雪奈は声はあげなかったが驚くほど俊敏な動きでまた僕の腕にしがみついてきた。
「油断してた。人が居るなんて思ってなかったよ」
僕も少し驚いてしまっていた。
「人件費削減のためにおばけ役は一人しかいないんだけど、逆にみんな驚いてくれるんだよ」
幸一はおかしそうに笑っている。
さっきコースターから見た親子が居た休憩スペースの隣にフードコートがあった。そこで僕達は計画が始まる閉園時間まで休憩することにした。
今回僕達が確かめようとしている噂のあらましはこうだ。
遊園地のすぐ横には山頂へ通じる道路が走っていて、自動販売機と駐車スペースがあるちょっとした休憩所がある。そこから道路を挟んでコンクリート塀があり、上には柵があってそこから遊園地の敷地なのだが、夜になると閉園した遊園地の敷地から女性の歌声が聞こえてくるというものだ。
幸一が友達とドライブがてら確かめに行ったことがあるらしいのだが、何も聞こえてこなかったという。
休憩スペースの近くには五年間メンテナンス中のバイキングがあって、その向こうには、遊園地の一番奥にある観覧車が見えている。大規模な遊園地みたいな大きなものではないけれど、かわいらしい淡い色使いで、どこか郷愁を誘うその姿は、心をやすらかにした。
幸一が「うちでバーベキューをしよう」そう言ったのは七月に入ったばかりの頃。
いつもの喫茶店にいた。
「いいね。バーベキュー」
「うん。なんか夏らしくて」
僕と聡太朗はすぐに賛成した。
「世の若者に負けてられないなと思ってさ。せっかくだから他にも人呼びたいんだけど、専門学校で仲が良いのお前らぐらいなんだよなぁ」
「これを機会に仲良くなろうってことで、話したことある人に声かけてみたら」
そう言ってすぐに違う案が浮かんだため慌てて取り消す。
「あ、ちょっと待って。それより呼びたい人がいるかも」
隣の聡太朗は不思議そうな顔をしてこちらを向く。
「誰だよ」と幸一。
「小学校と中学校の同級生の子なんだけど。二人に会いたがってるんだ」
雪奈とは、あの後何回か会っていた。今何をしているか尋ねてみても、その話は毎回はぐらかされていたが、夜になると時々連絡がきて、あの公園で色んな話をした。再会した日から、僕はよく聡太朗と幸一の話をした。二人に興味と親近感を抱いた雪奈は「会ってみたいなぁ」といつも言っていた。
キナコの話をした時は、「聡太朗くん、大丈夫なの?」と本気で心配していたので、聡太朗が共通の友達のようでなんだか不思議な気分になったものだ。今はもちろん大丈夫だよと伝えると、「良かった」と胸を撫で下ろしていた。幸一のことは「二人のお兄ちゃんみたいだね」と言っていた。
「いつも二人の話をしててね、会いたがってるんだ」
「そうか、祥平の友達なら大歓迎だな」
「そうだね。でも、俺たちのどんな話をしてるのさ」
聡太朗は少し緊張を隠しきれない様子だった。
学校の休憩時間にメールで雪奈にその話を伝えると、「行く!」とすぐに返信が来た。
自分は暇だから日程は任せるということだったので、こちら三人で七月中旬の土曜の昼に開催することを決めた。
僕も幸一の自宅には行ったことが無かったので、当日は駅の近くのコンビニで待ち合わせをした。僕がコンビニに着くと雪奈は既に外で待っていた。
「あー、やっと聡太朗くんと幸一くんに会える。楽しみ。」
雪奈はニコニコして言った。
「そうだろうね」
僕も同じように嬉しかった。幸一の黒い軽ワゴンが駐車場に入ってくるのが見えた。
「あ、来た」
僕達の前に車を止めて幸一と聡太朗が車を降りてくる。
「雪奈ちゃん?」
意外にも聡太朗の方から声を掛けた。
「うん!聡太朗くん?」
「うん」と返事をして聡太朗は恥ずかしそうに笑った。
雪奈は嬉しそうに数秒間聡太朗を見つめると、今度は幸一の方を向いて、「幸一くん、思ってたより痩せてる」とおかしな挨拶をした。
幸一の家の小屋の前にやや広いスペースがあって、青色のアウトドア用のテーブルにバーベキュー用のコンロが用意されていた。
「わ。もしかしてもう準備出来てる感じ?」
「うん。聡太朗とやったんだ。食材も適当に色々用意しておいた」
「申し訳ないね。ありがとう」
雪奈と二人は、二十分程度の時間だったが幸一の自宅へ向かう車内で、既に打ち解けていた。これは小学生の時からの雪奈の特技だ。相手が気持ち良く話せる会話の仕方と、それを相手に気付かせず自然に行う能力。
雪奈は昔から友達が多い。しかしそれが原因で苦しんでいる姿も知っている。
その日は晴天で、真夏日だった。主に幸一が食材を焼いて、時々僕が変わった。雪奈は悪いからと何度か変わろうとしていたが、幸一が「じゃあ食材を切ってくれ」とこちらも気を遣っていたりした。
テーブルには聡太朗と雪奈が座っていることが多く、学校の話とか本の話で盛り上がっているようだった。
雪奈は意外にも読書家らしい。それか、そんなに読んだことが無いのにそれを聡太朗に気付かせていないか。「すごくわかる!」「それすごい!」とか僕と幸一がコンロの前に居るとそういう楽しそうな声が聞こえてくる。もちろん僕と幸一も食材を焼きながら時々会話に混じったりした。
みんなお腹が膨れてくると、急にゆったりとした時間が流れ始める。聡太朗と幸一が残った食材でよくわからない味の濃そうな料理を調理して遊んでいた。僕と雪奈がテーブルに座っていた。
「楽しい人達だろ」
「うん、仲良く出来て良かった」
僕もとても嬉しかった。
「あー、たのしい」
雪奈は今を噛みしめるように言った。
それから僕達は夏季休業に入り、四人でほとんど毎日と言っていいほど集まって色んなことをした。
「また集まってなんかしようね」
バーベキューの時の解散間際、聡太朗が雪奈に声をかけると雪奈は嬉しそうに頷いていた。
海へドライブをして花火をしたり、地元の祭りや小さな花火大会へ行ったり、ファミリーレストランで何時間も他愛もないことを話した。行き先が無くても僕達は何時間でも車を走らすことが出来た。
四人の中で運転免許を持っているのは僕と幸一の二人だったが、「運転が好きだから」とほとんどが幸一の運転だった。だからなんとなく、幸一がバイトの日に三人で集まることは無かった。
ある夜、僕達はいつも通りドライブしていて、今日は目的も無いけど北の方へ行ってみようということになっていた。「タバコが切れた」と聡太朗が言って、幸一がコンビニに車を入れる。転回せずに前方からコンビニの前の駐車スペースにそのまま車を停めた。
「ごめん。ちょっと待ってて」
聡太朗が後部座席から降りると、隣に座っていた雪奈も「私もいく。」と言って後に次ぐ。
二人は笑顔を見せながらコンビニに入っていく。
「なんかさ」
運転席の幸一が二人を眺めながら口を開く。
「うん?」
「あの二人ってなんか似てるよな」
ふいに幸一が発した言葉。それは僕もぼんやり感じていたことだったが、幸一が言葉にしたことによってその瞬間に確かなものになった。
「あぁ、うん。なんかね」
聡太朗は漫画雑誌を手に取っていて、雪奈がそれを横で一緒に見て、笑い合っている。
「たまにお前と聡太朗も似てるなって思ってたけど」
「え?」
少し前は自分でそう感じることがあったが、最近は雪奈と聡太朗を見ていると、あれは単なる聡太朗への憧れだったのかもしれないと思うようになっていたのだった。
「どういう所が?」
「んー、なんか穏やかな所とか?」
「なるほど…。でも聡太朗は僕なんかと似てないよ。なんか聡太朗はもっと特別な感じがする」
「言いたいことはなんとなく分かる。今話してて気付いたんだけど、お前と雪奈はなんか真逆って感じがするな。不思議なもんで」
それはそうかもな。と心の中で思った。
そしてまた別の日の夜、僕達四人はファミリーレストランに居た。その日は既に集まっていた三人に、僕が店で合流する形で加わったのだが、雪奈の様子がいつもと違った。俯いて席に座っていて、長い黒髪を垂らして表情を見せようとしない。
「なんかあったの?」
向かえの席に座る幸一と聡太朗を見ながら聞く。
「分かんない。祥平も来たら話すって…」
聡太朗が答える。
「今日ずっとこんな調子で、具合悪いなら、家に送るって言ったんだけど、具合は悪くないって言うんだ」
二人ともすごく優しい人だから、ひどく心配してるようだった。
「雪奈、来たよ。何があったか話してみて?」
「やっぱり話さない」
隣の雪奈は体勢を変えずに言った。
「なんだよそれ、二人とも心配してるし困ってるだろ?」
雪奈はなにも答えずしばしの沈黙が続き、少しすると雪奈の鼻をすする音が聞こえてきた。僕が彼女の顔を覗き込むと、涙を溜めて泣いているのが見えた。雪奈は咄嗟に僕の頭を手で押しのけてそっぽを向いた。 雪奈が泣いていることに二人も気付いたようで、聡太朗が声をかけた。
「雪奈、落ち着いたらでいいから、話し聞かせてね。すごく心配なんだ」
「ほんとは」雪奈が口を開いた。
「ほんとは、泣いてなんかいちゃダメなんだけど、でも」
涙まじりに雪奈が言った。
「どうして?」と聡太朗。
「どうして、泣いてなんかいちゃダメなのさ。そんなことないよ。楽しい時と同じように、悲しい時は悲しいのが全てなんだから。いっぱい落ち着くまで泣きなよ」
聡太朗らしい意見だった。その優しさを雪奈は心から理解できるはずだ。二人は根深い所で通じ合っているように感じることがあったからだ。しかし、予想していた雪奈の反応は違った。
「わかるけど、それじゃ、ダメでしょ。悲しい時泣いてたんじゃ、楽しいからって手放しで笑ってちゃ、それじゃ…」
雪奈が普段は見せない、現実的な感情だった。
「大丈夫だよ。安心して。安心してほしいんだ。『ほしい』っていうか、本当に安心して大丈夫なんだよ」
聡太朗も泣きそうな細い声で言う。叶わない祈りのように聞こえた。
聡太朗が言うと雪奈はついに大粒の涙をポロポロ落として泣き始めた。少しの間だけだったけど雪奈は、我慢出来なくなったのか声をあげて泣いた。
涙がおさまると「もう大丈夫」と雪奈が言った。
「落ち着いた?」
雪奈の表情を見ながら聞く。
「うん」
眼は赤くなっていて、腫れているが、表情はすっきりとしていた。
「それで、何があったか話せる?」
「ううん、もう大丈夫。なんていうか、もう大丈夫」
思いっきり泣いて、泣いていた理由まで流しきってしまったらしい。
「みんなほんとごめん」雪奈が謝った。
「大丈夫」聡太朗が微笑みながら頷いた。
幸一も優しい顔を見せながら「うん」と返事をした。
「あー、夏ももう少しで終わるね」
雪奈が突然いつもの調子で言うので、その可笑しさと安堵からみんなで笑う。もう八月の下旬だった。間もなく夏季休業が終わる。
雪奈が言葉にしたことで、その瞬間から僕らは夏の終わりの中にいた。
「なんかやってないことしたい。夏っぽいので」
「ほとんどやったよ」と言いながら、僕も何かないのか考える。雪奈の喜びそうなこと。
各々考えてはいるが、「海は行ったし…」とか「花火も行ったし…」とか新鮮な案が中々出ない。そんな中、聡太朗がこれだという表情をしながら言った。
「肝試し!」
雪奈がすぐに難色を示した。
「えー、それはやだ」
「えっ、なんでさ?」
聡太朗は驚きながら聞く。
「怖いじゃん」
「え~」
聡太朗は残念そうにした。僕は正直おもしろそうでナイスな案だと思ったが、雪奈が却下するなら仕方ないと思い、何も言わなかった。しかし幸一が、そういえば…とあの噂の話を語り始めた。
「ちょっとやめてよ」
雪奈は怖がっているが、聡太朗も僕も興味津々に聞くので幸一は話してくれた。
「やっぱ噂は噂だったんだね」
幸一がくだんの駐車場へ行ったという話を聞いて、僕は言った。雪奈は話が耳に入ってこないように、携帯電話をいじっている。
「でもよ、一緒に行った友達が、どれだけ暇なのかまた行ってみたらしいんだよ。そしたら、ちゃんと聞こえてきたって」
「それほんと?」と聡太朗。
「多分本当だよ」
「じゃあさ、遊園地の中に確かめに行ってみない?幸一の力を借りてさ」
「まぁ、出来ない事はないけど。秘密の道を行けば楽勝だよ」
僕たち三人は雪奈の方を見た。
「もう、三人共行きたいんでしょ。私も行くよ」と、雪奈はついに諦めた。
「雪奈も楽しめるように、昼から行って、普通に遊園地で遊ぼうよ」
聡太朗が言うと、幸一は「そうだな」と賛同した。
そのあとは飲み物を飲みながら、ゆったりとした時間を過ごした。ほとんど会話は無かったが、それがより強く、この三人は仲間なんだということを肌で感じさせていた。
僕と雪奈は、駅の近くのコンビニまで送ってもらい、聡太朗と幸一に別れを告げた。
「家まで送るよ」
いつもの雪奈に戻ってはいたけど、さっきまで泣いていたのだからやはり心配だった。雪奈のことだから、僕らのことを思って、いつも通りの自分を演じていたのかもしない。
「ん?大丈夫だよ」
「そっか。…肝試し嫌でしょ?もしあれだったら、さくっと僕達だけで行ってくるからさ」
「そっちのほうが嫌だよ。みんなと居れないなんて。みんなと居ればなんだかんだいって楽しいと思うよ。ありがとね」
「わかった」
少し悪い気がしながらも、そう返事をするのが最善だった。
夜も深くて、街は静かだった。僕は四人で過ごしてきた時間の中で、聡太朗のある想いが芽生えていくのを感じていた。そしてそれが今日、ささやかにだが目に見えるくらいの強さで、波動のように放たれていた気がしていた。
「雪奈さ、聡太朗のこと、どう思う?」
「…好きだよ。今日、ほんとにそう思った」
雪奈は辛そうな表情で言った。
「でも私、このままたと聡太朗くんのこと、傷付けちゃうの」
彼女はとても隠し事が多かった。ここに居る訳とか、今日の涙の理由。僕はその理由をもう聞きたいとは思わなかった。今の僕にとってはその隠されている部分も含めて雪奈だった。昔の彼女にはそれが似合わなかったが、秘密を持った今の彼女の姿は、時の流れをしっかりと実感させた。
「そんなこと言うなよ。僕だって、傷つくよ」
「……わかってる。ごめん」
雪奈が謝った瞬間、僕は自分を責めた。雪奈を困らせない訳がない発言だった
そして、僕の想いが雪奈に伝わっているのだということを知った。彼女の方も今の僕の発言で悟ったのかもしれない。
「じゃあ、今度。遊園地楽しみだよ」
雪奈はそう言いながら歩き出した。
「ああ、うん。じゃあね」
慌ててそう言うと、雪奈は歩きながら笑顔で少し振り返って、そして遠ざかっていった。
中学二年生の冬。雪奈の転校を、雪奈の友達の女子から聞いた。一週間後に彼女は転校する。あまりにも唐突だった。僕と雪奈のクラスは二年間別々だったが、子供の頃からの馴染みで付き合いはあった。部活帰りに駐輪場で会うと時々だけど一緒に帰ったりもした。
雪奈の転校を聞いた僕はひどく戸惑ったもので、直感的に近くにはずっと雪奈がいるものだと思っていた。いつかは離れ離れになるかもしれない。その可能性があるのを知りつつも、あの時の僕には実感が無かった。
雪奈はクラスで転校の挨拶をして、翌日最後の別れを友人たちに告げるために、学校に寄っていた。中学生の僕たちの別れは学校の昇降口だった。一時間目と二時間目の間の休憩時間。雪奈を見送るたくさんの人が集まっていて、僕はその中の一人だった。
僕が話したことのない男子も大勢居たし、女子はそれ以上の人数が居た。
「元気でね」「帰ってきたら遊ぼうね」
様々な別れの言葉が飛び交う。
そんな中、たくさんの背中越しに雪奈と目が合った。何故か驚いてしまった僕は、何も知らない子供のような顔をしてしまった。雪奈がクスッと笑うのがかろうじて見えた。
「閉園までまだ少し時間があるから、観覧車乗らない?」
僕がそう提案すると「乗りたい!」と雪奈がすぐに返事をした。
「いいね、乗ろう」聡太朗と幸一も賛同して、四人で観覧車へと向かった。
前を三人が並んで歩いていて、その後ろ姿を眺めた。人生は不思議だ。
雪奈がふと、こちらを振り返ってクスッと笑った。なぜか雪奈がそうすると予感していた僕は、微笑みを返した。
「時間ギリギリにすみません」
幸一が乗り場の係員に挨拶をする。ゴンドラに乗り込み、隣に幸一、向かえに聡太朗と雪奈が座る。その係員の男性が幸一を茶化しながらドアを閉めた。ゆっくりと観覧車が回り始めると聡太朗が楽しそうにはしゃいだ。頂上が近づくと、聡太朗と雪奈は高さに驚き、地上を眺めていた。
「そろそろ頂上だな」幸一が前後のゴンドラの位置を確かめながら言った。
目を煌めかせて、雪奈は景色を見る。
「はい!今頂上だ!」聡太朗の笑顔もキラキラしていた。汚れを知らない聡太朗。
僕も景色を見る。市街の駅付近のビルたちが見える。遠くに僕らの町がただ存在していた。小さい観覧車だったけど、山の中腹にあるこの場所からはかなり遠くの景色まで見ることが出来た。
反対方向の景色は田園が印象的で、市街の方も決して発展しているわけではないけど、景色のギャップがおもしろく、愛おしかった。僕らが育った場所。
その景色を眺めていると、ふいに、子供だったころの雪奈を思い出した。なんでもないようで、妙に印象的だった記憶。
「ごめん。でも、居なくなっちゃったんだから、どうしようもないね」
「あー、頂上が過ぎた」と聡太朗。
「頂上一瞬じゃん」と雪奈。
「そこが良いんじゃない?」と幸一。
「ねぇ雪奈さ」
「うん?」
僕はなぜか、今しか聞くことが出来ないと思って、唐突に尋ねてみることにした。
「小学生の頃、一緒に帰ってたでしょ。いつだか、雪奈がメダカを流したの覚えてる?」
雪奈は少し驚いた表情で「覚えてるよ」と即答した。
「祥平、めちゃめちゃ怒った時でしょ。だから覚えてる」
そんなに怒った記憶は僕の方には無かったが、記憶から無くなっていてもおかしくない程度の出来事だが雪奈は覚えている。そう思っていた。
「メダカを流す?」聡太朗が奇妙そうに笑っている。
「あれ、どうしてなの?」
「なによ」と笑いながら、雪奈は答えてくれた。
「あれはね、たしか、メダカが溜まってたから、ただ単にえいってやってみたくなっただけ」
「でも、そのあとすごく悲しそうにした」
「それは祥平が珍しくすごく怒ったから」
僕は呆気にとられつつ、胸にひんやりとした風が通るのを感じた。
「僕は怒ったんじゃないよ。きっと」
「そうなの?」
「うん」
「…ふーん。そっか」
雪奈はそう言った後、いつもみたいにきゅっと口角をあげて笑ったけど、僕にはまったく違う表情に見えた。
僕にとっての雪奈の幻想性が、呼吸のような自然さをもって、ほどけた気がした。
午後七時にわくわくレジャーパーク」は閉園する。閉園したら僕達は出入り口から普通に遊園地を出る。そして従業員が全員帰った後に、幸一が言う所の「秘密の道」を通って園内に侵入する計画だ。
この遊園地は警備システムがなく、出入り口と従業員出入り口の鍵が数少ないセキュリティーとなっている。そのため要所、要所コンクリート塀で高さを設けていたり柵があったりするのだが、入ろうと思えばどこからでも入ることが出来る。
警備システムが無いということが、有益な情報だった。
閉園の少し前に、僕達は遊園地を出た。そして出入口のすぐ近くににある駐車場に停めてある車の中で待機をする。
まだ少し辺りは明るかった。徐々に遊園地の照明が落ちていく。全ての明かりが消えて二十分くらいすると、八人くらいの従業員がぞろぞろと出てきた。
その間の僕達はというと、雪奈が怖がるのをみんなで笑ったり、幸一が歌声の正体はゲームコーナーの電源の切り忘れじゃいかと分析したりと、他愛もない時間を過ごしていた。
人影が完全になくなると僕達は幸一の先導で出入口にある受付の建物の裏手に回った。柵が遊園地を隔てていて、しばらく外周に沿って歩く。辺りはようやく夜らしい闇に包まれてきている。
「壁によじ登らなくていい唯一のルート」
「色んなルートがあるのか」と僕は笑った。
「でも結構探検って感じがするね」
聡太朗が楽しそうにする。足場は悪く、柵の反対側は木々が生い茂っている。
「あ、あそこ?」聡太朗が言う。
柵が途切れている場所があった。少し地面が変形していて、斜面になっている。そこを登るとなにかの建物の裏で、表に回るとそれはゴーストミュージアムだと判明する。こうして僕達は閉園後の遊園地へと侵入した。
人影も明かりも無い遊園地。やはり不気味だ。昼間に感じられた懐かしささえ不気味さの要素になっている。
「すごい…。すごく綺麗」
雪奈が言う。あんなに怖がっていたのに、今は目を煌めかせている。
「すごいね。こんな光景ってあまり見れないよ」
聡太朗が雪奈に近づいて言った。そこで僕は満天の星空に気付いた。目には入っていたがその存在を心が 捉えていなかった。明かりが無いというのは間違いだ。僕達のいる地上を小さくしてしまう星々の輝きが、密やかに、そして力強く誰もいない遊園地を照らしていた。人が存在しなければ成り立たない遊園地は、人がいなくなってもそこに存在していた。ただの物体の群れと化していて、夜空の星々がそれをただ見守る。大きな力がこの空間に満ちていた。
「すごいよ!」
雪奈が走り出した。
「雪奈!」
僕は後を追う。雪奈は時々回転しながら空を仰いだ。追いつきそうになった時に雪奈はこちらを見て笑い、また走り出す。物体と化した遊園地の中、雪奈は様々な感情を辺りに振り撒いていた。生きていく中でこぼれ落ちていく結晶のようなもの。その輝きは、この時間とこの場所によく似合った。綺麗だった。
芝生になったエリアまで来ると雪奈は地面に寝転んだ。僕はそれを見て走るのをやめ、息を切らしながらゆっくり歩いた。そして雪奈の隣に僕も寝転んだ。
「すっごく楽しい。今死んでもいいかも」
僕もそう思った。聡太朗の言うとおり、今この瞬間が全てかもしれない。忘れない。そう心に誓った。
「ね、祥平」
「なに?」
「私、結婚するの」
予感していた痛みが、胸を走った。
諦めを含んだ声色。しかし前向きな感情を感じ取れた。
その続きを待っていると「ほんとだよ」と顔をこちらに向けて雪奈が言った。
「うん。わかってるよ」
「驚いた?」
「うーん」
「そっか。わかってたか」
雪奈は穏やかに笑いながら、また空へ顔を向ける。
「…こっちで結婚するってこと?」
「ううん。私、結婚の前に自由な時間が欲しいってお願いしたの。自由っていうのもなんか違う気がするけど、なんていうか、怖かったから」
「結婚が?」
「そう」
分かるようで分からない、僕には未知の感情だった。
「その人のことは結婚相手としてちゃんと好きなんだけど、私好きなものがいっぱいあるから、整理つけたかったの」
好きなものがたくさんある。雪奈はそういう人だ。方向性が違えど、その方向に最大限に愛を傾ける。序列なんて無い。その雪奈の魅力は多くのものを傷つける。きっと聡太朗も。
「ごめんね。隠してて」
「仕方ないよ。さらっと言えるようなことじゃなかったでしょ」
「…私のこと、好きだった?」
「うん。好きだったよ」
雪奈の表情は見なかった。微かな沈黙の後、彼女は言った。
「私も好きだった。祥平のこと」
これはこの先も、雪奈は色々な人を傷つけるかもしれないなと思った。そして雪奈が結婚することは誇らしく嬉しいことだと、正体不明の自信のようなものが心を満たした。
「聡太朗達には言ったの」
「言えない。…嫌われるかも」
「…嫌われる覚悟が必要な時もあるんじゃないの」
「そんな覚悟出来ないよ」
雪奈は笑いながら言う。感情が溢れる手前のふてくされた笑い方。僕と雪奈の関係が整理された今、しっかりと雪奈のためを思い正直な気持ちを伝えられる。
「このまま自分から伝えずに先に進むのと、しっかりと伝えるのと、どっちが後悔しない?」
「そんなの、解らないよ。解らないよ」
僕は雪奈を尊重するし、応援もする。ただ選ぶのは雪奈だ。
「居た居た」
頭の方向から聡太朗の声が聞こえた。
「何してんの?」
僕も雪奈も返事をしなかった。意味はきっと無い。そして雪奈の隣に寝転ぶ聡太朗の影。
「何してたの?」
もう一度聡太朗が言った。
「お話し!」
雪奈が空を見たままそう答えた。
「聡太朗って、学校卒業したら何するの?」
前に尋ねてみたことがあった。学校の屋上でのことだ。
「きっと何もしてないよ。今と変わらずこうしてるよきっと。俺は常に置いていかれるんだ。幸一とか、祥平とか雪奈と離れる時はあるんだろうけど、今は離れないでしょ。それでいいよ。俺は」
「でもさ、」言いかけると「分かってる」と聡太朗が制止した。僕は否定するつもりだったわけではなくて、聡太朗が今後どんな存在になるのか興味があったのだ。
「俺、今死んでもいいんだよね」
聡太朗は笑いながら言った。
「祥平でも分からないかもしれないけどさ」
「いや、わかるよ」
聡太朗は傷みを知っている。今というものが儚いということを知っている。しかし、今という時間は絶対的なものだ。触れられるもの、寄り添えるものは絶対的なものだ。そう強く静かに叫びながら生きているのが聡太朗だった。
人は大人になると、どんな場面に置いても痛みを避けるため、何か他のものを守るために牽制してしまう。聡太朗は今というものにありのまま身を投じている。牽制してしまうと、痛みは避けられるが、得られるものも少ない。得られる幸福と痛みは比例する。
聡太朗には守るべきものが何一つ無いように思う。自分の周りの大切なものは全ていつか消えてしまう。それが揺るぎない真実として聡太朗に根付いていた。大切なものを守ろうとしない代わりに、今という時間に死んでも後悔はしない。
「ほんとだよ。きっと僕わかってる」
「そうみたい」
聡太朗はそれで会話を終わらせたから、信じてもらえたのだと思った。これについて話し合ったことがあるわけではないが、僕も聡太朗も言語化の作用を知っていると感じている。何故そう思うのか理由を説明してしまうと、本来あったものが失われてしまうこともある。言葉にするということは水が蒸発するように取るに足らない変化をもたらす。だが、確実に何かは変わってしまう。
「なんで黙ってたのさ」
聡太朗は泣きながら言ったが、雪奈も僕も何も言わない。その理由は聡太朗にはわかるはずだ。聡太朗は過ぎ去ると言うことを覚悟しているわけではない。どんな時だってありのままなのだ。悲しみは最大の純度で心をえぐる。
幸一は隣に座って見守っている。聡太朗が来てすぐに幸一も追いついた。どうやら幽霊の声の正体を知ったようだった。この遊園地のオーナーの妹が、鼻唄を歌いながら犬の散歩ルートとして使っているらしかった。
僕らが通った秘密の道を通って園内を回るようで、幸一を見て驚き「あなた、ここで働いてる子よね?驚いたわ。お友達と?気を付けてね」と少し会話して行ってしまったらしい。幸一は正体を僕達に伝えようと興奮気味に話した。
聡太朗は「ほんとにか。まだいるかな?」とはしゃいで、雪奈と僕は「えー」と反応して形だけつくろった。少しの間歓談して、幸一が僕と雪奈の様子に気付く。
「どうした?二人とも」
今僕が返事をしてしまうとタイミングが失われる。今話すべきだ、雪奈。
「…私、二人に言ってなかったことがあって、祥平にもさっき話したんだけど」
雪奈は言葉で伝える道を選んだ。この決断は雪奈の大きな愛だと感じた。お互いが苦しむ道だが、お互いの幸福を祈っている。二人を理解しているだけに、胸が切り刻まれる思いだった。言葉で彼女は思いを形作った。結婚のことや、地元に戻ってきた訳、その思い。
「聡太朗くんのこと、大好きだった」
雪奈は激しく泣いた。聡太朗はいずれ理解するだろう。そしてまた彼には大きな幸福と大きな痛みが訪れる。
その後も二人はしばらく泣き続けた。聡太朗が雪奈の手を掴む。雪奈はその手を強く握り返した。この二人の姿も忘れないと誓った。泣きながら二人はささやきあっていた。
「雪奈が居なかったら生きていけない」
「いけるよ。大丈夫だよ。聡太朗くんは、なんかそのままで良い気がする」
雪奈は涙に濡れた優しい笑顔で言った。
「雪奈は俺が居なくても、大人になっていくんだ」
雪奈が「ふふっ」と笑う。
「聡太朗くんが居なかったらなれなかったよ」
時間が経ち、僕はどこか冷静に二人を見ていた。穏やかさとは違う何かが心を渦巻く。僕は二人を誇りに思う。この先もずっと。それは確かだ。
閉園後の夜の遊園地には、僕達四人だけ。不気味な静寂が満ちていて、満天の星空が僕達を孤独にする特別な世界だった。ついさっきまでは。今の僕にとっては、ただの夜の遊園地で、ただの星が出ている夜だった。
雪奈に会うことはきっともう無いだろう。心に渦巻く何かは、清々しさだと気付く。得体の知れない清々しい感情。僕はきっと今日感じた様々な想いを記憶しておくことは不可能だと思ってしまった。跡形もなく消えてしまうのだと。しかしそれに対する悲しみは無かったのだ。
聡太朗と同じものはもう見られないかもしれない。微かに残った聡太朗への特別な愛しさが、彼をより一層弱々しく見せた。
聡太朗がありのままで生き続けても傷つかない世界のことを思った。そこでなら雪奈は、聡太朗や僕の傍に居続けたのだろうか。
「そろそろ帰らなきゃだね」
雪奈が聡太朗の手を離した。
約二年前に初めて書きあげた小説です。意外と時間が経っていませんでした。
執筆の期間は九ヶ月ですが、書こうと思ってからだと、たしか二年くらい経っていた気がします。