バーにて
飲酒が禁忌のムスリムやヒンドゥーの多数派が占める中、大都市バンガロールにはたくさんのバーがある。
ベンガルールというのが古来からの正式名称で、最近はその表記に戻して変わりつつあるようだが、4ヶ月過ごした中ではバンガロールという人が殆どだったので、そちらの表記を使っている。イギリスに統治されていた期間が長かった所為だろうか、本来のものでないバンガロールの呼称がむしろ一般化してしまっているようなのだ。
カルカッタはコルカタと書いたのに統一されていないが、異世界旅行者のリアルな感覚を優先させたかったので、覚えたそのままでこう書く事にした。インド人でもベンガルールなんて言うと気取っている感じがして、普段の生活の中ではこちらの方が自然なのだ。
モンゴル僧侶とシン君とザキアちゃんが学校をサボって行ったケッラも、Keralaと綴って通常はケララと表記するらしい。だがインドネイティヴの発音では日本人以外の誰に聞いてもケッラ、もしくはルがRに巻いたケルラとしか聞こえなかったのであえて耳にした通り書いた。
俺はあまりガイドブックとか読みこまない方なのだ。
ちなみに首を振るインド人、あれはケッラ人らしい。
前に飛行機のマニューバで表現したあれだ。
ティルトがうんうんと頷く。
ヨーがいいえと首を横に振る。
それをインド人の店員は、ローリングさせる。
何だそりゃ。イエスかノーかどっちなんだ。
仕方ねえなあ、と言っているのだろうと最終的に判断したあの動きをするインド人。彼らは一人残らずケッラ人なのだそうだ。
このあたりで店などを出しているのはバンガロール人では無く、ケッラ人が殆どなのだと言う。
PGのオーナーが部屋に入って来て、何か文句を言うついでにそんな話になった。
バンガロールのクークタウンはインド有数の綺麗な街で、ビバリーヒルズみたいな高級住宅街なので、本当の住民は商売などしないのだろうか。
「でもコルカタでもプリーでも首ローリングしてる奴いたよ?」
「それもケッラ人だ。首をこう振る奴はみんなそうだ」
「本当かよ」
「ハッハッハー」
商売人は全部ケッラ人だとでも言うのだろうか。インド人は全員嘘つきなので、話半分で聞いておく事にした。
ガンジーがインドで嫌われているなんて話を聞いた事があって、バーでその話をしたらインド人に切れられた。
ファンだったようだ。
パキスタンと分離してしまった原因を作ったり、工業化を遅らせたみたいな話を聞いた事があったのだ。
だがいくらそれが事実だろうが、国民のヒーローを外国人に面と向かって貶されたらそれは嫌な気分になるだろう、今は反省している。
メシのまずいバナサワディーのクークタウンには、メインロード沿いに4件程のバーがある。
食べられるご飯が少ない代わりに、いつも酒を飲んで空腹を誤魔化していた。
一番近くの青いバー、と言うより立ち飲み屋だ。
二階に椅子と机があって、小さなゴキブリがよく邪魔してくるのだが座れる安酒屋がそこともう一軒しか無かったので一番よく利用した。
ここを利用するのはタミル語を話すインド人が殆どだった。例の水問題で、ダムを解放して貰えなかった地方の人だ。
タミル語では乾杯を「さんどーさ」ありがとうを「なんどるぇーい」と言う。
飲みながら他の客に教えてもらった。
排ガスやホコリで灰色に汚れたフサフサのわんこがよく二階まで上がってアテの食べ残しをねだりに来るので、それを撫でてやるのが癒しだった。手は必ず黒く汚れてしまうのだが、人懐っこくて可愛い奴だった。
茹で卵が置いてあって5ルピーで買える、糸で切って塩とマサラを掛けてくれる。それはマサラ付きなのになかなか美味くて、この辺りでは貴重なタンパク源だった。
一度ぼーっとして100ルピーを渡したつもりが50ルピーだった事がある。
お釣り20ルピーしか貰えず、少ないと訴えて、力説するがみんなお前が払ったのは50ルピーだと証言するのだ。
四人いた店員も、もっといた客も全員だ。
防犯ビデオまで見せてくれたが、画像が荒くて確認も出来ない。
「嘘だろ? 寄ってたかってみんなで俺を騙そうとしてるんじゃないの」
「そんなわけないだろ、ほらもうあっちへ行け」
で、納得出来ないまま二階に上がって飲みながら、しっかり思い出して確認してみたら、50ルピー紙幣を一枚持っていた筈が、それが無くなっていると判明。使ったのやっぱり50だったのだ。
すぐ下に降りて、
「ごめん、勘違いだった。今気付いた。俺が間違ってた。さっきは混乱してた。本当に俺が悪かった。ごめんなさい」
インド人の店員たちは迷惑そうに、
「だからそう言っただろうが」
でも何とか握手には応じてくれた。
インド人には騙されるという固定概念があったのと、その頃色々あって疲れていたのだと言い訳しておく。
一番遠くのバー、北にある線路の近く。ここは奥に広い座席があって寛げる。
だが英語は殆ど通じない。
カナラ語しか分らない店員に、酒の銘柄と身振り手振りだけで意思疎通するハードなバーだった。
茹で卵がカナラ語で「もってん」というのだけは必死で覚えた。
奥で一人で飲む事が多かったが、入り口は綺麗なので、ビッグ君やリョーコさん、ガナン君などアジア人仲間で飲む時はよくここを利用した。
女性は奥の座席には入れない。
女人禁制の男の楽園、ではなく汚いし暗いし男ばかりで危険なので、絶対入らない方がいい。
キングフィッシャービールは不味い。UBとブルーのラベルに書かれた奴はまだマシだ、暑い日に飲むと美味く感じるくらいには。
大人数で飲む時はビールだったが、実はあまり好きじゃない。元々ウイスキー派なのだ。安くて飲みにくいウイスキーをロックかストレートでちびちび飲るのがスタイルなのだ。
日本では美味いバーボンが安く買えた。オールドクロウかベンチマークが晩酌の友だった。1リッター1,500円前後だ。
だがインドで洋酒は安くない。ジャックダニエルだとか有名だけど別に好きでもない銘柄が、750mlで5,000ルピー以上もする。
インド産のウイスキーではブレンダーズプライドと言うのが最初に飲んだ銘柄だ。そこそこ高くて、味はブラックニッカに似ていた。
インド人の飲むラムやブランデーも何度か試したが二日酔いの頭が激痛になるのでやめた。あれは猛毒だ。
黄色い紙パックのPUNCHと、それにトランプ模様のACESという銘柄の奴が、ウイスキーでは一番安くて結局これに落ち着いた。
シン君はそれは不味すぎてダメだと言って、BAGPIPERというスコットランド楽器を弾くおっさんが描かれた少し高い奴をよく頼んでいた。
カナト君と飲みに行った時彼はおしゃれな瓶の輸入ビールを頼んでいた。
リョーコさんはキングフィッシャーストロング。強い奴がお好みだった。
ガナン君はUB。
あと殆ど関わりにならなかった日本人女性二人のうち一人、エリさんとは一度だけここに飲みに来た。
暑い日の午後、入り口付近で飲んでいるとインド人のおっさんに喋りかけられた。
喋っていると、今度は別のインド人の若者も喋りかけて来る。
このバーはカナラ語を話す人が殆どなのだが、この若者たちはナガール語を喋っていた。
カナラ語でありがとうは「わんだね」なのだがナガール語では「びしんらにゃーばっ」というように、全然違う。
英語は喋れたのでそれで会話をしていたのだが、ナガール語の若者に対応しているとカウンターに置かれた俺のビールが突然倒された。半分くらい残っていたのが溢れて滴る。
「えっ、何?」
店員がそれに気付いて、拭きに来る。
で、何故か俺が、酔いすぎだと追い出された。
倒したのは最初のインド人のおっさんだ。間違いない。
意味が分からなかったが、多分カナラ人のおっさんが若者たちに嫉妬したのだろうと思う。
店員も、ややこしい事になる前に逃がしてくれたのだといいように理解しているが真相は不明。
ビールを損しただけだった。
二番目に遠いバー。ここは立ち飲みで、ヨの字型に高いテーブルが置かれていて広かった。
シン君とリョーコさん、モンゴル人のガナン君、タイ人のビッチ・パーンやビッグ君、それとムスリムなのにザキアちゃんという大人数でここに行った事がある。
もちろんザキアはコーラしか飲まない。
で、盛り上がっていたのだが俺は立っているのがダルくて早く帰りたかった。
きっと俺は一人で飲む方が好きなんだとその場では納得したが、自己分析したら自分が話題の中心にいないのでいじけていただけかも知れない。
子供なのだ。
和気あいあいと楽しむ友達の中にいながら、疎外感を感じていた。かと言って自分からその輪の中に入りたいとも思わない。
誰にも構ってもらえない。嫌われているのかも知れない。面白い事なんて喋れない。自分なんて、誰にも必要とされていないのだ。ならば自分だってその人達を必要だなんて思ってやるもんか。
そんな深層心理が潜んでいた。
見捨てられ不安、または分離不安と言う問題が根底にある。
ガナン君が気を遣って、
「一人で飲んでちゃつまんないよ、こっち来て喋ろうよ」
と鼻声で誘ってくれるのにそれも、
「俺は一人で飲むのが好きなの」
「そんなのダメだよ、ほらこっち来て」
と言うのも面倒臭いなあと邪険にしてしまうくらいの有様だった。
二番目に近いバー。そこは汚なすぎて、裏のトイレから下水や糞尿の悪臭が漂ってくるのを5分おきにその場にいるインド人の誰かが濃い化学薬品をぶちまけて消臭する、というあり得ない場所で、しかも狭い上にすれ違えないほどインド人が密集しているという最悪の環境だったので、飲みかけのウイスキーを便所に捨てて10分で逃げ出した。
それから二度と行っていない。
客もテルグ語だったかまた違う言葉を喋っていたのだが、よく覚えていない。
あとは街はずれ、シン君とラーメン屋に行った帰りに寄ったバー。
クークタウンの外れ、南の果てにあるので、行ったのはそれ一回だけだった。
オート力車のドライバーに降車時に10ルピー多めに請求されてキレる。だが相手も一歩も引かず、もう面倒臭くなって払ってしまい、降りたすぐ前にあったバーで飲む事にした。
するとドライバーも入って来て一緒に飲み始めた。
「はあ? 何だお前」
「家がすぐそこなんだよ」
「じゃあ10ルピー返せよ。てかお前今、仕事したんじゃなくて家に帰っただけじゃねーか」
インド人オート力車ドライバーは気にせずにウイスキーを飲む。
もう放っておいて楽しく飲むことにして、まずいウイスキーのコーラ割りを2杯くらいあけ、仲良くなったまた別のインド人たちに安ウイスキーを一杯奢って貰ったりしていた時だ、
そこにふらふら入って来た若者のインド人。奴がぶんぶん振り回していたベルトのバックルが、運悪くシン君の脳天にクリーンヒットした。
しかも奴はそのまま知らん顔して奥に行こうとする。唖然とした。
腹が立ったのですぐに呼び止めた。
「おい、ちょっと待てい。お前、ちょっと来い」
無視しようとするのを、強引に向き直させる。
「お前だよ、聞こえてんだろ?」
そのまま引きずって来て、
「お前今俺の友達を殴っただろ、何でそれで無視してんの?」
シン君は頭を押さえている。
「何で殴った? 何で彼をいきなり殴ったんだって聞いてるんだよ、この汚ねぇベルトでよ」
と追求する。
全然悪びれないので腕を掴んで、
「OK、分かった。ポリスステーションに行くか?」
と脅す。
それは流石のインド人でも嫌がるようだ。
非暴力主義のインドで、殴られたりはあまりしないそうなので強気でいけた。
それに非は完全に向こうにあるのだ。
「わざとじゃなかった、気付かなかったんだ。悪かったよ」
「いや気付いとったやろ」
「……アイムソーリー」
やっと反省の色を見せたインド人。
直接謝らせて、シン君は仕方ないなと舌打ちしながら受け入れる。それと握手。仲直りのと言うか、とりあえず今の時点では敵意はなくしましたよ、というニュアンスの握手だ。
「まあ気いつけえよ」
テンプレの、バーでの喧嘩っぽい話をまとめてみたが、勇ましい立ち回りの格闘などはとうとう最後までなかった。
それより何がなんだか分からない事の方がやはり異世界には多いようだ。
※予告※
平穏な学園生活に気を抜いてしまったのか、なろう主はなんと大切な聖剣をインド人の盗賊に奪われてしまう。絶望を胸に彼は奪還を決意する
次回『聖剣の奪取』人々は皆さまざまの旅をして、結局自分が持っていたものだけを持って帰るッ!