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ただのトラック転移で異世界観光  作者: 都築優
स्कूल जीवन(School Life)
26/35

三人の阿保

胸糞の悪い話なので気の弱い人は読まない事をお勧めします


 らーいらっは

 いっらっらーふ

 むはめっだー

 らっすーるらっふ



 これを覚えておけば、ISISとだって友達になれる。

 それは言い過ぎとしても、善良なムスリムの人々と仲良くなれるのは間違いない。


 ホテルから歩いて、チェックしておいた英語の学園まで歩いた。3キロもない。

 予約もなく、飛び込みで行った。ダメなら帰ればいい。

 で、土曜日だったので授業は半ドン、既に終わっているという。

 職員もいないから手続きは月曜日になるとの事。


「泊まる場所はあるの?」

「まだ決めてない」

「じゃあ付いて来て」


 何の略なのか知らないがPGというステイ先を紹介された。

 月に6500ルピーだそうだ。

 そこのオーナーがムスリムだった。


 最初に書いた奴、魔導通信機のメモ帳に書いて覚えておいたそれを、ついに使う時が来た。


 初めは何を言い出すんだ、という顔をされ、次に笑顔に変わり、後半は合唱して、最後にハイタッチを交わす程打ち解けた。


「YYEEAAAHHH!」

「イェーイ!」


 一瞬だった。


「日本人なのにムスリムなのか? 何でこれを知ってる」


 彼は不思議そうにそれを聞く。


「ごめん、本当は俺は仏教徒なんだ。

 でもムハメッダーを尊敬している。

 彼のエピソードが大好きだ」


 ムハンマドはコーラン(クルアーン)を大天使ガブリエル(ジブリール)に渡され、「読め」と言われて字ぃ読めねーもん、と三回断った。その度に首を絞められて脅された。仕方なしに、頑張って読むとそこに啓示が書かれていた。

 その事を恐る恐る身内に相談したのが話の始まりなのだ。


 かわいい。


 内容だって、下らない偶像崇拝などではなく、お題目でも妄信でもアニミズムでも権威的でもない、もともとは当時のアラブの現実に即した実践的で高効率な話ばかりなのだ。

 豚を食べないのだって当時の衛生環境からしたら有鈎線虫だったか危険な寄生虫症の予防には仕方ない事だった。

 もともと豚はトイレで、人糞を餌にして飼われていた事はご存知だろうか。うんこを拭く左手でものを食べるどころの騒ぎではない。

 他にも死後、毎日100人の処女と致し放題というどんなチーレムも霞んでしまう天国があるとか。そんな事を言っちゃうとこもいい。

 教条主義的な馬鹿はどの世界にもいるので、本質ではない言葉だけが一人歩きしがちなのはどんな宗教でも変わらない。

 大切なのはその心なのだ。


 あと、正確には仏教徒じゃなくてバイク狂徒なのだが、言っても1200%伝わらないのでそういう事にした。キリンという漫画が聖書(バイブル)のマイナーな派閥だ。

 しかしマレーシアのペナン島以来、ずっと乗れていない不信心者。



 今夜、もう一人日本人が来るのだと言われた。予約があって空港まで車で迎えに行くらしい。



 それが本気で 糞 野 郎 だ っ た。



 この更新がぴたっと止まったのは何を隠そう奴が原因だ。

 殺そうと思ったので、そのために旅行記なんかに構っている暇がなかったのだ。


 インドでは人は簡単に死ぬ。


 旅行者など簡単に行方不明にする事が出来る。大使館の掲示板に、よくMISSINGなどと張り出されるあれだ。


 ここから先は読まない方がいい。

 不快になりこそすれ読んで楽しい事なんて書かないんだからね。

 証拠になるような事も書かない。そもそも異世界ファンタジーなんだから。
















































 実はすこし因縁のある大学の、彼は医学生だった。一浪だったかで、歳は忘れたが大分若かった。


「へー、偶然やね。俺の知り合いでもそこの大学の医学生やってた人がいるよ」


 1000ルピーも掛かるという送迎車で夜中、俺が寝る前くらいに彼は着いた。


 寮は二人部屋で、俺と同室にされた。


 何でインドくんだりに勉強をしに来たのかと聞くと、安いからだという。

 夏休みを利用して、一月だけ英語を学びに来たのだとか。

 それから片親で、幼い頃は親戚だとかをたらい回しにされ、いい顔をするのが上手になっただとか、聞いてもいない事までベラベラ喋る。


「へー、じゃあたいへんだったんだー」

「そんな事ないんですよ、奨学金も貰えるし」

「頑張ったんやねー」

「よく言われるんですけどね、実際全然そんなことないんですよ」


 それは言われとんのやない、言わせとんのや。

 精神科志望かな? と思った。

 訊くと、当たっていた。


「まだ一回生なんで全般的に勉強してるんですけど、専門は精神科をやろうと思ってます」


 やばそうな奴は大概そこを目指すのだ。

 この辺ですでに、嫌な雰囲気には気付いていた。


 知り合いの元医学生は、中でも勉強の出来ない馬鹿な学生が志望する科だと言っていた。

 それでも医大生以外などと比べたら勉強量は「半端なく絶大」なのだが、その中でも差別があるのだとか。


 医者なんて全員とは言わないが、勉強だけ達者で人間的にはそんなカスの集まりなのだというのが俺の知識、経験から得た現在の結論だ。

 医大の内情なんて知らないが、頭がおかしそうな奴が精神科を目指す気持ちは分かる。

 最初に自分を治さないといけないのに、自分が異常な事を認めないでそれを他者に投影して治してあげようとするのだ。

 そもそもフロイトからしてそうだったというのが現在での定説なのだ。

 メサイア症候群なんて名前の、多分通称の奴もたまに目にする。

 それに、人の事は言えないがインドなんかに来ている時点で気が狂っているとしか思えない。

 刺激をしないように適当に世間話をして合わせた。


「英語の勉強のためだけだったら、じゃあバンガロールしか見てないんだ」

「はい、インドってやっぱり超きたないっすね」

「初めてがここだったらやっぱりそう思うよね、でも他の町はもっとひどかったよ」


 最初に入ったのが土曜日の午後だったので、翌日は休み、翌々日から授業開始となるそうだった。

 学園付近は住宅街で、見るものも時間を潰すものも何もない。

 なので朝からMGロードに遊びに行く事になった。


 こんな距離は歩いたらすぐなのだが、そんなエゴを初対面の人に押し付ける訳にもいかない。

 値段も知らないオート力車にぼったくられて揺られながら、少しイライラしていた。


 立ち並ぶスターバックスや服屋、スポーツ用品店。

 まだ10時そこそこ。時間が早いので半分以上閉まっている。

 インドにしては馬鹿高い料金の、日本と変わらない街並。

 そんな物を見て何が楽しいのか、プーマの靴屋さんに入ったり、服屋の店員と買わずに喋ったり。

 雑貨屋で東洋人を見かけて話しかけたりもしていた。


「そろそろ疲れませんか?」

「んー、どっか座れるとこあるかなあ」


 しばらく歩いて小腹が空いた頃、31アイスクリームのお店があった。


「椅子あるし、じゃあここでちょっと休もうか」


 店前の歩道にプラスチック製の椅子と机が出してある。

 店内に入って注文をすると、紫とピンク、31カラーのアイスを出された。まあいいけど、俺はチョコチップと言ったはずなんだが?

 そこで、彼の異常行動が炸裂した。


「水道水を使ってませんか?」


 は?

 何を言っているんだこいつは。

 その場にいる全員が耳を疑った。

 それでも奴は気にしない。


「ミネラルウォーターを使って作っていますか?」


 アイスにか?

 使うか! そんなもん。

 ちゃんと安全な水を使っているかと何度も何度も繰り返して確認して、しまいに怒った店員に、叩き出されていた。


「出てけ!」


 そりゃそうだ。


「アイスクリームを作るのには、砂糖と卵と牛乳しか使わないんだよ。水なんて、入れないんだ」


 俺が説明すると、


「でも、お腹壊したら嫌なんでそれは絶対確認取らないと」


 きちがいだ。

 理屈や事実が通用しない。

 自慢のアイスをあからさまに侮辱されて、よく店員も抑えたものだ。

 安くもないフランチャイズ代を海外資本に払って、インドなりに清潔に、遵守事項だとかを守って店を維持して、あげく汚物扱いされたのだ。


 彼は何で店員が怒るのか、一つも分かっていなかった。


 帰って夜。暑かったので扇風機を強で回したまま寝たら、次の日個室に移ってくれた。寒かったようだ。

 蚊も出るし、そういう嫌な虫を追い払うには天井の扇風機は効果的だという事だ。


「全然大丈夫っすよ、回しといてください」


 寝る前にはそう言っていた、これは言わなくても気づけ、という意味だったようだ。


 個室は二倍の料金なのだが、奨学金があるので気にならないそうだ。一月の家賃が日本円で2万円程度だ。医大生には鼻くそをほじりながらでも払える金額らしい。


 そんなこんなで次の日、やっと始まったわくわく学園編。


 簡単なテストを受けて、クラスが振り分けられる。何故か二人共同じインターメディアというレベルになった。


 その最初の授業で、彼はやらかしてくれた。

 例文作りでたまたま自虐的な英文を言った。過去形とか未来形の授業だったと思う。

 碌な文が思い浮かばなかったので、洋楽でマリリンマンソンという歌手がいて、そのノーバディズという曲の歌詞からパクった「過去、私は悪い人間だった。いつか善人になりたい」みたいな回答をしたら、彼は大袈裟に俺を否定して、


「彼は本当は変人(ストレンジャー)じゃないんですみんな!」


 みたいな事を大声で言ってフォローした。


 は?

 例文だよ?

 そんな風に言われたら、俺が本気でそうだったと思われちゃうんじゃない?


 案の定、先生からは哀れんだ目で見つめられ、そんなに自分を卑下する事はないわ、みたいな事を言われる。

 だからァ!

 こういう時、第一言語でもない言葉でとっさに対応出来るほど機転は効かない。

 そのうち『example‼︎』と言ったら良いと知るがそれは後々の話。


 これはかなわない。


「授業のレベルが中学英文法だよね、日本人に足りないのは発音とか会話力とか発言力なんだから、クラス替えてもらったほうがいいよ。ましてや1ヶ月しかいないんでしょ」


 ともっともらしい事を言って次の時間、プレアドバンスという一つ上レベルの授業に一緒に替えてもらう。

 そしてひとまずそれを受け終えると、一人で中央の職員室に行って、


「やっぱり難しいから、俺は元のやつで」


 と、戻した。(これがまた失敗だったのだが、それはずっと後々の話)


 とにかく違う授業に変わったので会う機会も少なく出来た。

 実際の話、現役医学生とは違う馬鹿は中学英文法も忘れていたので、それはそれでちょうど良かった。


 授業が終わって部屋でくつろいでいると、何故か俺の部屋にのこのこ入って来て自分の夢とか理想を語り出した。

 それがどうしたの、というような寝言だ。


「中学の頃にすごい考えて、自分を変えようと思って努力したんです、それで頑張ったら行けないと思ってた高校に受かって」

「へー」


 聞いてないんですけど。


「だから世界中の人にやればできるとか、努力とかを教えたいんです」

「医者じゃなくて?」


 聞いてないんですけど。


「はい、医者もそうなんですけど、それも並行してそういう人の為になる事をやっていきたいなって」

「ふーん。そう思うのは勝手じゃないの。で、何で?」


 それでも何故か、引っかかる。いやカチンと来るものがあるのは何でだろう。リア充に対する嫉妬か?


「そこは理由なしで絶対なんです」

「へー」


 聖域があるという事はそこが何か、根本的な問題点なのだろう。


「俺の知り合いでもね、少し病んでいる人がいたんだ」


 防御線を張っておく。


「その子は実は、昨日言ったと思うけどその大学の医学生でね。

 何でそうなっているのか、何に気づかないのかが俺には分かった。

 本人が気付きたくないことだけどね。他人だから分かる。

 仲は良かったと思うんだけど。

 でもそれをどうやったら伝えられるか、分からなかった。


 何かしてあげたかった。


 でも本人が望んでいないのに、変わる事を強制できると思う?

 それでどれだけその子が苦しんでいたとしてもね。

 もう、いい大人なんだよ」


「うーん、説得しますね」


「どうやって?」


「その理由とか全部分からないと何とも言えないんですが、分析してよく考えてどこが間違っているか伝えます」


「すごいね。

 俺は無理だったなぁ。

 本人が気付きたくなくてずっと抱えている問題だから、俺には何も出来なかった」


 これが後に効いてくるのかは、現段階では分からなかった。


「正解を言ったってだめなんだ。自分自身で答えを見つけ出さないと」


 それよりどんな関係だったんですか、その人とは? とか、根掘り葉掘り聞き出そうとしてきて、またどっと疲れが溜まった。


 ※ ※


 寮は別だが、学園に半月前くらいから日本人の女性が一人いて、日本人が入って来たと知ると喜んで、3人でオリオンモールにご飯を食べに行く事にした。


「ずっと日本人一人で心細かったんですよ」


 この人が面白い人で、最安の宿を探求したりローカルフードを色々知っていたりタイで凶悪な野良犬に囲まれただとか経験豊富で色々話があるのだが、この章では割愛する。

 医者の卵は初対面の相手に臆面もなく、胡散臭い話しを始める。


「インドに来るってことは、内面的に何か探してる人が多いじゃないですか?」


 ぽかーん。


「うん、アーユルヴェーダとかヴィッパサナーとかいろいろありますよね。ヴィッパサナー瞑想は行く予定なんですよ」


 乗るんかい!

 こやつ、出来る。只者ではないな。

 その日本人女性に対する認識を改めた。

 それともインドちゃんに呼ばれて仕方なく来るなんて実は少数派なんだろうか。三島由紀夫、あの嘘つきに騙された。呼ばれないと来れないとか言ってた癖に、本当は誰でもええんか。


 彼はさらに調子に乗って、精神科だから少し勉強してて軽く催眠術くらいなら掛けられる、みたいな事を言い出した。


「へー」

「すごい!」


 これは通常、かかったふりをして施行者をからかうのがセオリーだが、目配せは通じなかった。

 夢をこわしてしまわないで! サンタさんはいるのよ! みたいに、すごい、あなたは催眠術が使えたのよ! とかそんなつもりでテレパシーを送ったのだが。


 何か手を握って、なんちゃらをイメージしろだとかごちゃごちゃ言って、済むと手が開かなくなるという。


 結果。

 あっけなく開いた。


 オリオンモールの最上階にはピザ屋さんやマクドナルド、ギョーザ屋さんがあって、中華麺も置いていた。割高だが味は食べられない事もなかった。



 別の日だったか1週間後だったか、今度は夜にMGロードへ行ってナンパしようと言われてついて行った。クラブがあると聞いたので、ちょっと行ってみたかったのだ。


 バスを降りて公園の前に、テジャスというインド独自開発の戦闘機を見れた時が、その日のクライマックスだった。


 確かに医大生が声を掛けるとホイホイインド人が引っかかる。FBのアカウントを聞いたり、電話番号を教えて貰ったり。


 何か、それを見ているうちに意気消沈してきた。

 あれは俺には無理だわ。

 まあ向き不向きがある。イケメンでも社交的でもないけどそれは悪い事じゃない。

 分離して、酒場を見つけてビールを飲む。

 モジョという名のパブだ。

 インドにしてはなかなか雰囲気がある。値段も高くない。古い洋楽が流れていて、知っている曲もあった。

 ダンスをしたり見たりするのも楽しいが、こういう落ち着くところで飲むのも好きだ。

 街中で女の子を引っ掛けるのは嫌いだ。

 引っかかるような人がまず嫌いだし、引っかからなかった時に落ち込むのも嫌だ。

 どっちにしろ嫌ならやる必要がない。

 結論が出た。

 そういうのは好きな人がしたらいいのだ。


 くつろいでいると、一人でナンパが進まないのか帰ってきて、いい場所を聞いたんです、と言う。


「クラブみたいな女の子と踊れる場所がある。そんな事を言われたんですよ、この人です」


 黒服。

 風俗のにおい。

 胡散臭い奴。こういう奴の顔は知っている。女を商品、人を金としか思っていない、そんな店の呼び込み。俺が嫌悪するタイプの人間たちだ。


 500ルピーポッキリだそうだ。


「安いですね、行きましょう」

「まあ、いっか」


 だいたい予想はつくけど、嫌な気分になって帰るというのはほぼ確実だ。

 何で行く事にしたかというと、断り切れなかったのもある。

 それと今後の為に失敗体験の蓄積をしたかったのだと思う。

 探索木を一つづつ辿って、成功に繋がる枝を見つけ出すのが好きなのだ。


 大音響で音楽が流れている。インディアンダンスミュージックだ。一言も何を言ってるのか分からない。

 部屋の中心に四角い大きな柱が立っている。縦横2メートルくらいの。

 そして、その柱の前にサリーを着た女が何十人も立っている。


「は?」


 バーテンが注文を取りに来る。

 一番安いウィスキーでも350ルピーだ。


「んーと、込みじゃないの?」

「違います」


 そしてお金をばら撒くあの気違い染みた遊び。

 これはどう説明したらいいのか。たとえ経験しても、あれが本質的に何なのかが分からない。


 男女の関係に厳しいインドでは、同じ席に着くなんてありえなくて、それが最強にエロチックな遊び方なのだそうだ。


 ここはいわゆる若者向けのクラブじゃなくて、いるのはオッサンばかり。全員ソファーで座ってニヤけている。


 お金を全部10ルピー札に両替えした札束が、机に置かれている。


 おっさんが、おもむろにそれを撒く。

 金を撒き散らす。文字通り、前の柱にいる女の子に向かって。


 するとそのテーブルに面した女の子が音楽に合わせて踊り狂う。


 お金はボーイが箒でかき集めている。

 巻き終わると踊りは突如止まる。


 は?


 踊るのは女の子だけで、それも机と通路を挟んだ向こう側だ。


 子供向け異世界もののラノベでもハーレムといえば大抵キャバ嬢にちやほやされるくらいのもて方はする。


 だがここでは、バンガロールの男と女の間には、深くて広い、ガンジス川のような隔たりがあるのだ。


「下らん。飲み終わったら帰ろう」

「えっ?」


 奴はうきうきで、座って女の子に踊り掛けていた。


「でもこれ飲めないんでユウさん貰ってください」


 ウィスキーに氷を入れられてしまったかららしい。

 一気飲みをして席を立つ。

 帰り際に別のボーイに、もう一度350ルピーを払えとか意味のわからない再請求をされて、大声で怒鳴った。


「お前、最初に500ルピー言うとったやろがボケこらァ!」


 八つ当たりだ。

 タイで会ったアラン、フランス人の彼が直接俺に文句を言えなかったから、現地人の物乞いを怒鳴りつけたあの気持ちが心底よく分かった。

 その節はごめんアラン。

 と、心の中で謝った。


「何が楽しいのか意味が分からんな」

「ユウさんは日本でそういう店に行った事あるんですか」

「まあこの歳だし、付き合いでそれなりにあるけど、それがどうかした?」

「いえ別に」


 学生時代にキャバクラのボーイのアルバイトをしていた事だってある。

 大学の卒業制作の資金を、夜間にそこで稼いだのだ。

 客に触られ、飲まされて、裏で吐きながら、彼女らは毎日働いていた。それに比べてここでは何て楽に稼いでいるのだろう。反吐が出る。


 これこそが急成長したインド社会の歪みだ。

 慣習や教義で、西洋や東洋の端数カ国と違って男女の関係に厳しい社会的圧力。

 持ち慣れない大金を持って、不安を抱える小金持ち。どれだけ持っていても使えない、使い道が分からない。城を建てられる程、戦闘機が買えるくらいのお金があるわけじゃない。

 だからこんな店で文字通りお金をばら撒く事でしか、自分を保てない。

 踊りを見るのは楽しいし、その間撒き続けるくらいのお金を自分は持っているんだ。

 そういう層から巻き上げるシステム。

 ……なのだろうか。

 想像の限界を超えている。


 何も知らないのは幸せだ。何も考えないのも楽な事だ。

 確かに敬虔なヒンズー教徒の街で手当たり次第にナンパするそのバイタリティは大したものだ。


「ここはインドだよ?」


 諌めようとそう言った。相手の事情も知らないのに、何でそんなにズカズカ踏みこめるのか。


「いや外国人特権ですよ」


 とその場で否定され、後で言われたのは、


「言い訳くさい」


 の一言で切って捨てられた。

 確かにそんな勇気はない。相手の気持ちを踏みにじりながら進めば、道は開くだろう。無理が通れば道理は引っ込む。そういうものだ。



 こっちの部屋にあえてやって来て勉強をしようというので、ものすごく馬鹿な質問を繰り返して追い払う事に成功した。


「What is your name? っていうけど、何でWhat name are you? って言わないの?」


 とかそんな奴だ。

 レベルの違いを見せつけてやった。

 いやワザとでもなく素でだが、医大生なら教えてくれると思ったのだ。

 だが何故かではなく、そういうものだと覚えるのがお勉強なのだ。

 それに答えられなくて彼は、いいかげん呆れたのか来なくなった。

 ちなみに、答えをあえて言うなら、What name だと物に対して言う習慣だから、人にそれを使うと違和感があるのだ。


 蛇足だが、のちに、近くに立ち飲み屋があって、そこでインド人に What place is your country? なんて聞かれて、出身地を聞かれていると最初は分からなかった。

 インドでは地域によって習慣も考え方も違う、その国内の地域を尋ねることが多いのでWhere are you fromではなくWhat place とその場所を強調して聞くのかも知れない。

 それとも少し前に俺がいた場所、という意味と取り違えないようにそう言ったのか。

 聞き取れなかったので言い換えてくれた可能性もあるけど、別の飲み屋でも何回か言われた。なので少なくともバンガロールではそう言う習慣なのだと思われる。

 もしくは、カースト外の外国人は物と同じ扱いなのか。

 broken english か、ピジン・クレオール言語に近いのかも知れない。


 そんな話もしようと試みたのだが、この医学生には一つも通じないのだ。同じ日本語を話す相手なのに。

 何故か。

 

 相手の話を聞く余裕がない。否定されたら自分が無くなってしまう、死んでしまうという根底にある恐怖から、こういうケースはしばしば発症する。


 他者を認められないのだ。

 他者の意見や、人格を。

 インターネットの掲示板によくいる奴と根本的に一緒だ。


 人の意見や考えを受け入れたって、自分が人格を否定される訳じゃない。

 多分、俺も分かるけど、彼は自分を殺し続けて生きてきたんだろう。

 自分が認めて貰えない、そのために認められるように努力する。

 素晴らしい事に思える。


 ただし、自分を殺してしていないなら、だ。


 その歪みだろう。

 例えば子供には我慢しなければいけない事が沢山ある。

 受験だとかスクールカーストだとか。

 大人だって変わらない。

 社会で生きていくためには、思い通りにいかない様々な困難や障害が満載だ。

 それを、我慢して耐えて忍んで苦しむのを美徳だから正しい事だからと言われて強制されたらどうなるか。

 それを避けられないものとして受け止め、自分で立ち向かう気になるのとは違う。

 動機の、根拠が自分にないからだ。


 押し殺している心は歪む。

 たとえ見た目や受け答えがいくらいい子やいい大人に見えたって、心の中は怒りや悲しみに満ちている。それは当たり前の事なのだ。


 で、出しやすいところにそのしわ寄せを吐き出す。

 自分が人間扱いされなかったのと同じように、相手を選んで言いやすそうな奴だけに、自分がされた同じ事を繰り返すのだ。



 寮のオーナーのおっさんと喧嘩しているのを見た。


 このムスリムのおっさんがやたら細かい人で、やれ扉を閉めるときは静かにゆっくりしろだとか、シャワーを浴びる時間をどうしろだとか、酒もタバコも友達も部屋には入れるな、ここは勉強する為だけの場所だ、などといちいちうるさい。


 扉はボロの癖に金具のバネが強くて、ノブを優しく戻さないと大きな音が出る。その度に、階段を上って部屋に来て、ここはそーっと閉めてくれと文句を垂れるのだ。

 いつもその度に、


「気をつけるわ、ミスった」


 とか謝っていたのだが、彼はなんと勇敢に立ち向かった。


 個室の部屋で勉強をしていたら、風で扉が大きな音を立てて閉まったようで、それに文句を言いにおっさんが来た時だった。

 素直にごめん気をつけるわーと彼は言えないのだ。


「でも風で勝手に閉まっちゃったんだよね、ごめんね」


 それで済む事を、やれ俺が悪い訳じゃないだとか、他のアラブ人はオーナーがうるさすぎるから入居しないんじゃねーかだとか、1時間以上にわたって反論を言い続けた。

 オーナーのおっさんもおっさんでお前みたいな文句ばっかり言う奴は初めてだとか、何度言っても分からない奴は馬鹿だとか、(いや当然その通りだと思うんだが)1歩も引かない。

 面倒臭い奴らだ。

 ジュースを買いに行く時に目に入ってしまう。彼は個室のドアの前で泣きながら喧嘩していた。

 別に何も反応しなかったのに、


「大丈夫ですから」


 と言われた。うん、あなたの事は気にしてないです。うるさいだけ。

 あとでやって来てそれを愚痴られたので、


「英語で喧嘩が出来るなんて、会話力が向上してる証拠じゃん」


 って言っておいた。




 奴は外面は悪くないので表層的な友達は多い。アラブ人たちとすぐに仲良くなっていた。

 そしてその関係を押し付けてくる。

 サウジアラビアやイエメンから来ている人が多いらしい。

 最初はインド人と見分けがつかなかった。

 ケモ君というアフリカ人はいい奴だった。この辺はまた別の章で書こう。


 インド人やベーカリーのアルバイトのプータン人とも笑顔で打ち解けていた。


 ここは餃子、それにそっくりなインドではモモと呼ぶ皮に包まれた食べ物が売っていて、まずい飯ばかりのバンガロールでは数少ない食べられる店の一つだった。


 だが、あろう事か彼はブータン人の店員に何故かキンタマという言葉を教えたのだ。

 調子に乗ってプータン人は会うたびにキンタマと連発する。


 食えねーよ。


「汚い言葉だから、食品の店で使うのはやめてくれ。食欲が失せる」


 何度そう伝えても、小学生のように顔を合わせる度に挨拶のようにキンタマ。

 気にしなければいいだけの話だが、それにしても気が悪い。好きだった餃子をここで買うのは諦めた。


 奴はあと、インド人の店員とよくつるんでビールを飲んだりしていて、たまたま1日それに呼ばれた。

 売店でタバコを買ってくれとインド人にせがまれる。


「バカか。自分で買えそんなもん」


 乞食か。

 それもしつこい。


「いいじゃないか、3本だけ。10ルピーでいいんだ」

「お前の欲しい物はお前のバイト代で買え」


 それを後でダメ出しされた。


「あの時思ったんですけど、あれはどうかと思いますよ?」

「はァ?」

「タバコをあげるくらい些細な事がどうして出来ないんですか。ケチな人間だと思われますよ」


 乞食に恵む金くらい無いわけじゃない。

 日本人だ、それなりに持っている。

 だが、恵まれ続ける事に慣れてしまったらその人物の人格はどうなる。


 お金がない時に、友達にタバコを貰った事がある。

 頼めば友達はすぐに恵んでくれる。それに慣れて、買うのをやめてずっと貰い続けた恥ずかしい経験が俺にはある。

 友達は愛想を尽かしてそのうち離れていった。

 惨めな思いだけが残った。

 自分がみっともない人間だという、たかがタバコなのに、それを自分で買わないで人に要求する乞食と成り果てていた。それに気が付いた時には遅かった。

 仲の良い関係で貸し借りのような場合は構わないが、会ったばかりで一方的に要求され、いつもそれを続けるような関係は、どちらの為にもならない。タバコをあげる方にしても端金で関係だとか優越感を買っているだけなのだ。


「現地人の乞食根性を育てるからダメだ」

「じゃあそういう人間だと思いますよ」

「意味が通じてないな」


 向き直って、


「俺も、昔お金がなかった頃にタバコ乞食をしていた事がある。

 友達をなくしたよ。

 何が悪いのかも分からなかった。

 でも思い返したら、自分がどんなに情けない事をしていたのか分かる。

 そんな思いを、施しを受けた者っていうのは感じるようになるんだよ。そいつがまともだったらな。

 ここまで人に言わせて、それでも伝わらないなら、俺の説明が下手なのか、理解力がないのかどっちだろうな」


 彼は聞いていなかった。


 人は、その人の話を聞こうと思わない限り、何を語ろうが心に入って来はしないのだ。

 俺が彼にその程度の、話をするに値しない人間だと思われている時点で、何を言っても無駄だと分かった。

 壁に向かって話していた方がマシだった。


 いい加減ヤバイと思うようになってきた。もっと早く関係を改めるべきだった。


「彼女とかいました?」


 と聞かれた事もある。


「うん、今迄五人かな。多くないけど。それがどうかした?」

「いや別に何も」


 これの含みに、気付く人はモテない仲間だと思う。

 それを弱みに感じる人がいる。そんな人とは仲良くなれそうだ。

 そこを切り口に、「だからそういう所を直した方がいいんですよ」

 そう侵略の糸口として使われる、よくある手口だ。

 考えすぎ? それは企みのばれた人が使う言葉だ。君とは友達になれない。


 若い頃はそんな目に何度もあった。少なくない経験が裏打ちしている。

 そんな奴の言う事を聞いても、結局ろくな事にはならない。

 適当な奴の言う事を聞いて、うまくいかなくても、最後に責任を取るのは自分自身なのだ。なら大切な選択権を赤の他人に渡してしまうのがどれだけ愚かな事かが分かるだろう。

 そう、何回失敗した事か!


 自己愛性人格障害というのが近いと検討をつけて、ざっくり対処法を調べると、極力関わらないようにするしかないそうだ。



 別の日曜日。彼の知り合いにクリスチャンのインド人がいて、彼に教会に日曜礼拝に来ないかと誘われたそうだ。


「一緒に行きませんか?」

「行かねーよ」


 それが帰ってきて、布教されて逆ギレして喧嘩したと得意げに言っていた。自分から進んで行っておいてだ。求めよさらば与えられん、なのにだ。


「へー」


 よくよく、人の意見を流したり許容出来ない性格のようだ。受け入れたら死ぬと思っているのは違いない。


 さらに、他人にダメ出しをし始めた。


「ずっと言おうと思ってたんですけど、ユウさん最初に病んでる友達に何かしてあげたいとか言ってましたけど、その前に自分を省みた方がいいんじゃないですか?

 いつも言い訳ばっかりじゃないですか」


 インド人をナンパしたり、礼拝を断ったり、行動しない言い訳ばかりだと言う。


「あ、それはそうだね。俺は自信がないんだろうね」

「僕も昔そうだったんですけど、今は変わってそれが良かったと思ってます」


 自分の言う正論を認めないものは、全て言い訳に聞こえるのだ。


「良くなって欲しいんです」


 ここで、侵略が来た。


「絶対出来るんで、頑張りましょう」


 クリスチャンに布教されて喧嘩した彼は結局、自分の正論を布教したいだけなのだ。


「結構。

 確かに、俺には病んでる友達がいて何も出来ないって最初の日に言ったね。

 あれは嘘だ。


 ふつう、そんな人間に自分で気付かせる為には傾聴だとかあと何だったかないろいろテクニックがあるらしいけど俺はカウンセラーでも医者でも無い。


 最初に言ったあれはね、気づかなかっただろうけどお前の事なんだよ。

 いや逆か。

 こうなる予想があったから、試してみたんだ。


 説得する? 馬鹿じゃ無いの。

 それが通じない部分があるから、理屈で分かってても出来ないって言うんだよ。


 それにお前は気付いていない。

 無神経に、自分の中の理屈を押し通すのが正しいと思い込んでる。


 あの答えで、お前が『説得する』って言った時点でそれは一目瞭然だった。

 だから絶対侵略をしてくるって分かってたよ。


 それは、侵略なんだよ。

 されたら凄い嫌な気分になるんだ。

 お前の意見はお前の意見だ。

 俺にとっては俺の考えの方が大切なんだ。いくら間違ってるって人に言われようがね。

 それは当たり前の事なんだけど、それに気付けないで、認めたくないから、言う事を聞きそうな言いやすそうな奴に押し付けるんだ。

 それは、おかしい事なんだよ。どんな正論だって、それを受け入れようって気持ちがあるから納得出来るんだ。

 それは、弱みを見つけて無理やり従わせるような事じゃないんだ。


 言っても届いてないことは分かってる。

 お前にはお前の意見があるんだから、それを大事にしたらいい。

 だけど嫌な気分になったから言うよ。


 お前凄い感じ悪いよ。最悪の気分だ。


 お前の考えがいくら正論だろうと、人っていうのはそれじゃ動かないんだよ。

 本当はそれを知ってるから、弱みを探し出して従わせるような真似をするんだ。

 今みたいにね。


 だか断る。

 そんなものに構ってる暇なんてない。


 精神科志望ならそのうち習うかも知らんよ、自分の症状を。

 でもお前には気付けない。


 そういう事なんだよ。


 頭が良いんなら分かるだろ。

 自分に聖域があって、そこは分析しても分からないから考えないフリをして大事に放置してる、そこだよ。

 合理化という防衛機制だったかな。

 自分で絶対気付きたくない。だから無い事にして、絶対正しいんだって思い込まなきゃそれが保てない。

 お前はそれに気付いてすらいない。

 分かってるはずなのに、頭で分かってても絶対に認めようとしない、そんな心がある事を」


 受け入れる事は敗北で、打ちのめされて仕方なくする事なのだ。そう思い込んでいる人に、何を言っても届かない。

 実はそれは俺も同じなのだが。


「考えてみます」


 この時、とうとう口に出してしまった、これが無駄な事だったというのは言うまでも無い。


 ※ ※


 ちょっと象徴的な話なので、息抜きにでもならないだろうか。

 インドでは襟付きの服が必要だそうだ。ドレスコードがあり、高級な店の中には入れない場所もあるという。

 俺はTシャツしか持っていない。

 服を買うために近所の店を探した。

 線路を歩いて超えた向こう側に、服屋が

 一日中巡って、寮の近くまで戻って来てやっと見つけた、地下にあるシンガポールという名前の店でマシなのを安く見つけた。

 買って帰ると、奴も同じ日に服を買っていて、聞けば同じ店だった。

 たまたま最初に入った店がそこで、これでいいやと買ったのだそうだ。

 探索木を辿って全部の失敗を消して行ってやっとたどり着いた俺に対して、奴はたまたまで同じ場所を引き当てたのだ。もちろん買った服の趣味は全然違うものだったが。


 帰納と演繹、微分と積分。


 ま、そこまで上等なセンスのいい服でもなかったので正解だったとは言わない。


 ※ ※


 9月も後半に入った。人にはどうでもいい情報だが、そこには俺の誕生日がある。

 その日の終わる前、魔導通信機経由以外では誰にも祝われたりしなかった、それは誰も知らないし知らせてないから当然だ。


 そろそろ寝ようかという折に、部屋に入って来た医大生。

 個室にはトイレがなくて、二人部屋の方を共同で使う厄介なシステムなのだ。

 何気に誕生日なのだと言うと、


「抱負は?」

「変わらんよ。ダラダラ、できる事をする」

「いいんですか? 言葉って大きいですよ」

「ああ、いいんだよ」


 何を言っているんだ、こいつは。

 はじめは意味が分からなかった。

 釈然としないまま、シュラフに潜り込み、暫くぼーっとしてふとその意図に気付いて憤慨した。


 こいつは、俺のする事に踏み込んで、偉そうに指図をしようとしているのだ。

 それもよりにもよって俺の誕生日に。


 真夜中にそれに気が付いて、殺意が芽生えた。


 このまま首を絞めて殺して、いや枕を押さえつけて窒息死だな。

 枕を焼却炉にでも捨てて焼けば何も証拠はない。

 そのまま捕まる前にすぐに帰国すれば何も問題ない。

 不可触民に依頼するのも手を汚さなくて済むのがいいな。

 最悪でも日本の住所に郵便で薬草を送りつけて警察にマークさせてやろう。

 それはまず決定した。


 頭の中でそういう妄想をするのではなく、しっかりと計画を立てて実行出来るようにするまでが大切だ。

 そのスイッチをいつでも押せるようにして持っておく事。

 精神的な余裕が無くなって追い詰められた時は、ここまですればある程度対処が出来るようになる。

 いや、対処が出来る余裕が生まれるまで綿密に計画を立てるのだ。自分がどこまでしたら満足できるかを図れる。

 それは自分がどこまで傷付いたのかという確認作業でもある。

 実行するかどうかの決定権は俺の心の中だけにある。

 全世界の誰が否定しようと、鍵は自分だけが握っている。


 それから分析した。

 だが、彼は何故そんないらない事をわざわざ言わずに気が済まないのだろうか。

 思いやり?

 人の誕生日に人格を否定する嫌味を言うような思いやりが存在するとしたら、辞書を全部書き直したほうがいい。

 彼の思う正論を押し付けて来ているのは間違いない。

 当然そうすべきなのだ、と。

 それが出来ない奴は、人間のクズで、間違っている。


 だが、この怒りはどこから湧いてくるのか。

 俺は確かに、誰にも褒められるような生き方をしていない。それは自覚しているし、誰に否定されようがそれが自分なのだともう分かっている。


 正論を言えば、せっかくインドくんだりまで来たのだから一生懸命に勉強を頑張る、みたいな答えがいわゆる模範解答だ。

 そして、あえてそれを言わないししないのは何故か。

 不成功防衛や、何と言ったかセルフアドバンテージだったか、自分に障害をあえて作って成功しなかった場合の言い訳にする奴。そんな問題点を抱えているのも知っている。

 カスに一言言われてそれが解決できるなら今までこんなに困ってはいない。

 それは自分自身で原因を探索して、見つけ出して、更に言えば成功しなくても大丈夫だから精一杯してもいいのだと安心させてあげないと、無理矢理強制させても何にもならない事を知っているし、その最中でもある。

 ならば何も不快に思う事などないのだ。

 何も分からない馬鹿が寝言を言っている、それだけの事なのに。


 それでも腹立たしく感じるこれは、もしかしたらこの感情は彼に逆転移されたもので、俺の感情ではないのではないか。


 ふとそんな発想が降って湧いた。


 彼は、幼い頃からいい人間である事を事あるごとに強制され、それに殺意に近い感情を抱いていた。


「それは、あなたのためなのよ」

「えっ?」


 それは意識の上に出るようなものではなく、心の奥底に深く、ずっと刻み込まれている。

 そして、自分がされたのと同じ事を、関わる人間の中でも言いやすそうな相手に、押し付けてその無念を伝えようとしているのではないか。


 これは想像に過ぎないが、こういう直感はまず間違ってはいない。


 そう理解したところで、俺の中で燃えたぎっていた殺意が消え去ったのだ。

 彼が殺したいのは、きっと彼が尊敬していると言った母親で、俺は巻き添えで殺意を当てられただけなのだ。


「あなたが大事だから厳しい事をいうのよ」

「そうなの? (嘘だっ!)」


 殺意とは恐怖が原因だ。

 自分の存在を消し去られてしまう恐怖。

 その恐ろしさが怒りに変わる。自分が殺されるよりこいつを殺せばいい、それが強い怒りの正体なのは前提だ。

 彼はそれを奥深く隠して、自分自身にも教えていない。だけどその恐怖を、他人に与える方法は知っている。

 正論を使い、本来の人格を否定する事だ。

 完全な人間などいないので、それは誰にでも使える技だ。

 特に、完全にならなければいけないのにまだそうではないと、常に自分に不安を抱えている人間に効果が高い。

 逆に自信家には効きづらい。


「言い訳ばっかりして! この子は本当に、誰に似たのかしら」

「ごめんなさい。ごめんなさい。もうしません(僕はこのままじゃダメなんだ)」


 だから彼はそれを常に、自分より下に見ている人間に使う。

 自分より多くの不安を抱えていそうな人間に使うのだ。

 それは彼が今まで繰り返しされて来た事に他ならない。

 どうすれば殺意を覚える程の恐怖を与えられるか、彼は熟知している。

 それこそ自分が何度もされて来たからだ。


「それは、正しい事なんだから。黙っていう事を聞きなさい」

「はい。(…………)」


 それは彼の助けて欲しいという心の叫びでも、実はあるのだ。

 自分のされた事を、分かって欲しいという、不器用な。

 かわいそうだと思うだろうか?


 しかし自覚がなく、治療を求めてもいない人間に、医者でもカウンセラーでもない他人が出来ることは何もない。

 ここまで推理出来たとしても、何も手出しなんて出来ない。


 お互いに友達だとすら思っていない相手だ。


 こんな人間は医者など目指さずに、出来ればカウセリングにでも通って心を見つめ直して欲しいものだ。

 自分がおかしいのだという自覚は、彼は確かにある筈なのに。

 それを絶対認められないでいる。それが彼の聖域だ。確かにそれは簡単な事じゃない。

 それこそ人格を否定される気になるからだ。

 でも、人は誰だろうが何かしら問題を抱えているものだし、仮にそれを認めたところで何も変わりはしないのだが。

 まず認めて、解決に導いてあげなければずっとその問題を抱えたままで、一番苦しむのは自分自身だ。

 人に言われて気付くようなものなら、すでに解決できている。


 自分自身で気付かなければ、自分の心で認識して理解して、それを受け入れなければ、表面だけ従ったふりをしていても奥底でいじけて殺意を燃やすだけなのだ。


 逆に、簡単に認められないほど苦しく辛く怖い事だからこそ、これまでずっとこうだったのかも知れない。

 それを他人に強制してさせるなんて傲慢な真似が、一体誰にできるだろう。


 例えば釈迦でもなければ、誰かにそれを気付かせたりなんて出来ないだろう。


 俺は賢くないし、偉くもない。


 そしてそんな釈迦ですら、基本的には評判を聞いて自分を頼って来た人間にしか解決法を説いたりはしていない。キリスト教のように押し掛けて強制はしないのだ。


 俺はただ迷惑しているだけで、彼に助けてと言われた訳でもない。


 対処法は、やはり避けるくらいしかない。自覚を促すにしろ、被害を予防するにしろ、この現状で俺の取れる行動はそれくらいだ。能力不足は俺の不得の致すところ。


 それから彼はいないものとして過ごす事にした。

 諦める、というのは本来明らかにするという意味が含まれているそうだ。まあいっかではなく。

 原因を深く追求して明確に出来れば、仕方ない事だと分かるという訳だ。


 イヤホンを付けてパソコンを開いてゲームに没頭する毎日。物理的距離が取れないなら精神的距離を離せばいい。


 たった一週間足らずの我慢だった。

 お別れ会をしようという、もう一人いた日本人の女性の誘いも理由を付けて断った。


 挨拶一つせず、彼が去った日にはこっそり祝杯を挙げた。

 そして「酷い目にあったね」と自分を労ってあげた。

 もう少し早く拒絶していればよかったね、次からはこういう人に会ったらすぐに本気で全力で逃げよう。

 何とかうまくやれるかも知れないなんて、とても甘い考えだった。

 そういう人はもう分かるよね、何を話しても通じないんだ。

 凝り固まった自意識と防衛機制で、人がどんな嫌な思いをしていても気付かない。

 自分は絶対的に正しい、それだけがその人の拠り所なのだ。

 哀れだけど。

 こっちにそれを受け入れられるだけの余裕もない。そんな状態で、少しでも構っちゃダメなんだ。

 次からは話だってしないから。

 嫌な思いをした事はもう過去だから仕方ない。変えられない。悔しくても受け入れるしかない。

 辛かったけど、あんなカスばかりじゃないよ。いい奴もきっといるから。

 多分ね。


 この章は最初から最後まで憎しみに満ちていたかもしれない。

 これでもあった出来事の半分も書いていないのだ。

 仕方なかったとはいえ、殺意まで抱かされた相手を好意的に見れるほど俺は人間が出来ていない。

 殺意は消えた今でも、まだ不快な記憶は残っている。

 関連するものを思い出すのも嫌で、インドを立つまでろくにこの旅行記も更新出来なかった有様だ。

 今でも死ねばいいのに、くらいは思っているし、こういうタイプは最終的に絶対うまくいかないのを知っている。

 放っておいても問題が本人の中にあるのだから自滅するのが自然の道理なのだ。

 誰か言いなりになりそうな馬鹿と結婚して子供が出来たとしても、成長したら金属バットで殴り殺されるんだろうな。俺が子供ならきっとそうする。

 それまで人にたくさん厄介ごとを降りかけるのは間違いないので、関わる人の事を考えるとやはり殺しておいた方が世のためだったのではないかと思わなくもない。

 でもまあ一生連絡を取るつもりもないし、仮に道で会っても話しかけるつもりもないので、迷惑が今後一切俺に掛かる可能性はない。赤の他人だからどうでもいい。


 この人の病理は、他人にどんな嫌な思いをさせてでも自分を分かってもらいたいという点だ。ならいつまでもイライラするのは結局思い通りにされている、手のひらの上にいる事になる。

 構うだけ損なのだ。

 ただ気が向いたらどっか海外から薬草くらいは送ってあげるかも知れない。

 人を不快にさせるってそういう事だ。

 気まぐれで他人の人生を終わらせる事だって、状況次第では可能だしあり得るのだ。

 このスイッチを押してしまい、結果俺が警察に捕まったら、調書には、動機は金持ちの医大生に対する嫉妬だとか書かされるんだろう。遊ぶ金が欲しかったレベルの作文で。

 ある種の人々にとって、他人の内面などどうでもいいのだ。それが社会を作っている。目に見えるものだけの世界。

 見えないものを感じることの出来る人間だって、意外といる筈なんだが。


 追記として。

 こんなつまらない話をあえて長々と書いたのは、この不快感を読者に感じさせて自分の気持ちを分かって貰いたかったから、だとすれば俺も認めたくはないがこの糞野郎と根本的に似た病理を抱えている表裏という事だ。きっと二人の馬鹿が似たような事をお互いに押し付けあっていただけなのだ。ここまでこだわるというのもいい証拠だ。

 ここまで書いてきた文句も悪口も全部、自分に対してだって言える事なのだ。

 でも、吐き出したかった。インドの下痢みたいなものだ。嫌なものを見せてしまって正直、済まないと思っている。

 でも警告はした筈だ。


 いつ終わらされようが困るような人生を送っていないのが唯一救いだ。



 さてここで二人の阿保が出揃いました。

 では三人目はと申しますと、それはモニターの前にいる皆様で御座います。


※予告※

…………。


次回『めしまず』食べ物を拒絶し、習慣を無視し、信仰を恐れ、人々を避けるのならば、旅などせずに家で寝て暮らしていたほうがましだッ!

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