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ただのトラック転移で異世界観光  作者: 都築優
भारत गणराज्य (Republic of India) currency:India Rupee(INR/Rs) rate:1.5/JPY
24/35

夜行列車の妖精


 到着時間は12時過ぎだという。

 深夜と言うよりすでに早朝。午前4時に発車した電車の話だ。

 AMなのかPMなのか書いていない。これは24時間表記なのだろうか。

 結果、予想を大幅に上回って32時間だった。

 意味が分からなかった。

 最初は、8時間か、長くても20時間くらいのつもりでいた。

 舐めていた。


 スリーパークラスの電車は結論から言うと取れていなかった。


 ホーム内の、乗車許可者の書いてある張り紙には確かに、この番号が記載されていた筈だったのに。


 名前と切符の番号がプリントされた紙が、電車の各車両の側面に、薄い糊かもしかしたらただの水で貼り付けられている。

 全車両のそれを見て回るが、こっちには見つからない。


「あなたの座席はありませんね」


 どの服を着た人が駅員なのか、全然わからない。発車5分前に、ようやくそれらしき人物を発見して、席が見つからないと言うと、端末を出して仔細チェックした挙句そう言われた。

 その職員さんに文句を言うと、あと3000ルピー追加で払えば1等車ならひとつ空きがあるそうだ。

 時間は既に発車間際で、ATMまで下ろしに行く余裕はない。

 電車代と食費で結構使ったので、ちょっとだけ足りない。


 え? どうしろと?


 ブバネーシュワルはご飯は美味いが何もかも高い。泊まるのも、食費も。

 1000ルピー払えと言われた動物園の二人組にまた見つかるのも嫌だ。


 どうしよう。


 乗ってしまえ、なんとかなるさ。


 悪魔が囁いた。

 インドの実情はそんなに知らないが、切符はとりあえず買ったのだ。バンガロールに行けないならばそれは俺じゃなくてシステムが悪い。

 寝台車はダメらしいので、誰でも乗れる三等車に駅員の目を盗んだ隙に乗り込んだ。

 警笛を鳴らして電車は発車する。

 そこには地獄の光景が広がっていた。


 いちめんのインド人。

 いちめんのインド人。

 いちめんのインド人。

 かすかに鳴る携帯の着信音。

 いちめんのインド人。


 インド人アレルギーの人が乗ったら死ぬ。

 そんなすし詰めのインド人の車両に一人、日本人の転移者が押し込まれた。


 32時間と言われても、実際に経験しなければどれほどのものなのか想像がつかないだろう。しかもインド人に囲まれて。

 その苦行の行程を今から書く。でも絶対に伝わるとは思えない。


 インドの電車は横に広い。

 線路の幅が新幹線並みで、例えば日本の地下鉄やJR、鉄道オタクではないので詳しくは知らないが、狭軌道で非効率でカーブでスピードも出せない事実上の標準デファクトスタンダードだなどと聞いた事がある。キーボードのqwerty配列と同じで、不完全なものが先に標準化してしまった故に替えられずに残っている、負の遺産だ。

 コルカタの地下鉄(メトロ)はそんなでもなかった気がするが、インドの長距離電車は広い。

 例えば日本の新幹線は3列シートと2列シートが並んでいて真ん中が通路だ。


□□□ □□


 インドの三等車は1列シートと5、6人掛けで境のない長椅子が、向かい合わせに並んでいる。


□ □□□□


 コルカタからプリーまで乗ったスリーパーは、横に1列の寝台座席が2段ベッド、通路を挟んで縦に2列の向かい合わせになった寝台座席が3段ベッドになっていた。


□ □□□□←三段ベッド

□ □□□□←三段ベッド



 基本構成はそれで、横の1階を向かい合わせの椅子に変え、縦の2列は真ん中の寝台を取り払って上を網棚にしてある。

 大阪地下鉄の谷町線なんかと比べたら倍以上の広さがあるんじゃないだろうか、そこにインド人が7〜8人も座っている。もちろん網棚にも人が4、5人乗っている。

 ぎっちりとインド人が詰まっている。乗車率は300パーセントは超えているだろう。それも貧乏そうなおっさんばかりだ。

 だから、初めの6時間で頭がおかしくなった。


 シートバッグを何とか網棚に乗せて、タンクバッグを手に持って立っていると、インド人のおじさんが話しかけてきた。


「日本人か? つっ立ってないでここに座れ」


 何と、ぎゅうぎゅう詰めだった椅子を更に詰めて、僅か半分程度座れる場所を空けてくれたのだ。


「いいの?」

「ああ」

「ありがとう」

「お前は喋れるのか英語を?」

「ちょっとだけね」

「ヒンディー語は?」

「無理」

「ベンガル語は?」

「全然」

「何だ、喋れないのか」

「日本語ならペラペラなんだけど」

「ハハッ、そりゃそーだ」

「仕事か?」

「ううん、旅行中。で、バンガロールに英語習いに行く途中なんだ」

「ほー、そうなのか。でも何でこんな電車に乗ってるんだ」

「切符が取れなくて」


 すぐ上の網棚にも四、五人乗っていて、汚い足が俺の頭上に垂れてくる。

 やめてくれ。

 踵が割れて、爪も剥がれて土か牛の糞か何かで汚れている。

 多分他のまわりのインド人の体臭の方がきついので臭いこそしないものの気分が悪い。いや最低だ。


 これを書くために今、それを思い出しているだけで、眉間に皺が寄ってくる。


 本当によく耐えたられたものだ。


 親切なおじさんと会話した後、最初の数時間は寝て過ごした。

 タンクバッグを抱えて、紐で上の網棚から吊るしたそれに顎を乗せて枕代わりにして、座ったままウトウトした。

 悪夢を見て、目を覚ますとそこにもまだ悪夢の世界が広がっている。

 前から横から、すすけた服のインド人が、知らない言葉で喋りかけてくる。


「こいつは日本人で、あんまり英語が喋れないんだ」


 隣のおじさんが説明を一手に引き受けてくれる。

 今のは英語だったらしい。

 インド人の英語は日本の言い方とだいぶ違って、例えばウォーターをワタールというように発音する。もちろんRは巻き舌だ。

 で、ネイティヴスピーカーに通じるのはむしろワタールの方だ。

 アメリカ人にでもイギリス人にでもウォーターと言ってもぽかーんとされるのに、ワタールならあー水ね、と分かってもらえるのだ。

 解せん。


 そんなやり取りが無限に繰り返される。気を張って、財布や魔導通信機器を盗まれないように警戒しながら、引きつった笑いを浮かべて何を喋っているのか分からない会話に頷く。

 思わず大声で、叫びだしたくなる。

 睡眠不足もあいまって、イライラが頂点に達しようとしていたその時。


 後ろから手を叩く音が聞こえてきた。

 クラップハンド。それもかなり激しい、強く2回ずつパンパンとリズミカルに。

 何だ?

 振り返るのも億劫なので目を閉じていたら綺麗なサリーを着た人が目の前に立って手を叩いていた。

 は?

 でも顔は綺麗じゃない。

 インドの女性は彫りの深い美しい人が多い。コルカタにいたラッシー君は、全員と結婚できるとのたまっていた。

 日本に連れて帰って、踏んだ牛の糞とかを洗って綺麗にしたらいける、と。

 でも目の前のこの人は、そうでもない。


 パンパン。

 え、何?


 戸惑っていたら、隣のおじさんが追い払ってくれた。


 何だったんだ?


 見ていると、どうやら他の人はお金を渡しているようだ。

 何かのサービスだろうか。


 電車が駅で止まる。すると物売りだとかチャイ屋さんがカゴやポットに商品を詰めて狭い通路を行き来する。

 通路にも人が満載に座っていて、大荷物を持ったままその隙間を縫って歩くプロの技を見せてもらえる。


「ぱにぱにぱに。ぱにー!

 ぱにぱにぱに。ぱにー!」


 カゴを持ったインド人がしゃがれた声で叫んでいる。


「ぱに?」

「ああ、(ワタール)の事だ」


 隣のおじさんが教えてくれる。

 ペットボトルの水をカゴに何十本も入れて担いでいる。


 買うと普通は30ルピーする2リットルのペットボトルが、何とたったの10ルピーだった。

 何で安いんだ?

 キャップの蓋を確認すると、既に開いている。

 インドの大抵の駅にはドリンキングウォーターと書かれた水道の蛇口があって、無料で水が汲める。

 それを空のペットボトルに詰めただけのものを売っていたのだ。


「何てこった!」


 だが腹痛と下痢の洗礼は、既にコルカタで済ませている。

 既に免疫がついているので大丈夫だ、矢でも鉄砲でも持って来やがれ。


 バンガロール行きの電車だが、途中の駅で降りるインド人もいたのだろう。

 多少のインド人の出入りがあって、運良く座席が広がった。


 やれやれ。俺は寝なおした。

 しばらくするとまた手を叩く音が聞こえてくる。


■ ▲◯□□□


 通路を挟んで向かいの一列シート席、黒い四角の部分に二人で詰めて若い兄ちゃんたちが座っていた。彼は俺に、お金を払っちゃいけないと言う、その悪戯っぽい笑いを隠さずに。

 丸の所に座っている親切なおじさんの、更に向こうの人たちは、20ルピーを払うんだと教えてくれる。彼らも笑いを堪えている。

 おじさんは払う必要はないのだが、とどっち付かずだ。


 朝になると、お姉さんに起こしてもらえるというサービスなのだろうか。


 しかし後ろのクラップ音は結局近付いて来なかった。

 その代わりに、怒鳴り声。


「何?」

「ファイティング」


 にやにや笑いの兄ちゃんが教えてくれる。

 振り返ると、サリーのお姉さんとポロシャツの若者が喧嘩している。

 お姉さんが手を振り上げた。

 激しい平手打ちがクリーンヒット。

 若者も負けじとやり返す。


「こわー。何なのあれ」

「ファイティング」


 そりゃファイティングは見れば分かるけど、何でそんなことになっているのかが分からないんだよ。

 結局、そのままお姉さんは来なかったのでお金も払うか払わないか迷わなくて済んだ。

 どっちが勝ったのかは、振り返る首が痛くなったので見ていない。


 眠かったので寝た。


 次は、3人組で来た。一人はふくよかで、一人は可憐な雰囲気で、もう一人は普通。でも全員不細工だ。

 インド人の男達はみんなお金を払っている。

 どうやら、駅に近付いて電車が速度を落とした隙に乗り込んで来るようだ。電車には自動扉なんて付いていない、乗車口は吹き抜けなのだ。


 だが無駄にお金なんか払うつもりはない。

 俺は無視して寝たふりを決め込むことにした。


 しばらくすると、目の前でクラップ音。


 おそるおそる目を開ける。

 正面にデブ、両サイドに残りの二人。

 取り囲まれていた。


 どうすればいいの?

 訳が分からないよ。


 にこにこと、敵意はない事を示しながら戸惑うジェスチャーをする。

 指でお金を要求される。

 やだよ、と首を横に振る。


 一列シートの兄ちゃんは腹を抱えている。

 左手の乗客たちは払え払えとこれも笑いながら言う。


「何でだよ」


 すると、左手の子が着ていたサリーを一気に捲り上げた。下着も何も付けていない。つんと上を向いた形のいい胸、縮れた陰毛が目に焼きつく。


 何と!


 デブも負けじと抱き付いて来る。その豊満な胸に顔を押し付けられ、深く埋められる。もう一人にも手を取られて、胸を揉まされた。


 こ、これは何というサービスですか。


 は、払ったら更に何かして貰えるんだろうか。

 男臭い三等列車で誰も彼もがイライラしている中、ちっとも美人ではないがきっと彼女らは一時の安らぎを与えて回っているのだ。

 隣の兄ちゃんも向かいの席のインド人も全員顔をくしゃくしゃにして笑っている。

 暑苦しい車内に一瞬だけ舞い降りる、きっとこれは清涼剤なのだ。


 さっき喧嘩をしていたのも一種のエンターテイメントで、退屈な車内を少しでも盛り上げる為にあえてバトルをしたんだろう。


 楽しいので次は払ってみることにした。

 エンターテイメントの様な形のないものにケチケチしてお金を払えない様では、真の意味で文化人とは言えない。

 日本男児の矜恃に賭けて、インド人にもとるような恥ずかしい真似は出来ない。


 だが、待っていると逆になかなか来ないもので彼女らは次の駅では乗って来ず、その機会はなかなか訪れなかった。

 ワクワクしながら何時間か過ぎ、やっと来た。


 20ルピーを渡す。

 こんな安い金額で、一体何を見せてくれるのか。いや、させてくれるのか。

 期待が膨らむ。


 だが、お金を受け取ると彼女はさっさと去っていった。


 え?

 何もないの?


 次に来た奴にもお金を渡してみるが、それも素っ気なく去って行く。ただそれだけだ。


 まわりのインド人たちもどこかつまらなそうにしている。


 これは、どういう事だろう。もしかして、逆なのか?


 彼女らは嫌がらせのセクハラをしているつもりで、それを回避する為にインド人は素直にお金を払っているのか。

 だとしても、何故?


「トランスジェンダー」


 親切なおじさんが教えてくれる。


「早く言え」


 ちょっと喜んじゃったじゃねーか。

 確かにうっすらヒゲが生えていたのは見えた。

 払わなかったらいたずらしちゃうわよ、というわけだ。何と恐ろしい脅迫だろう。

 兄ちゃんの笑う訳が分かった。

 後で調べたらインドにはかなりの数の性転換者がいて、彼らは差別の激しいインドでまともな職にはつけないので電車や街でこんな脅迫まがいのゆすりたかりを繰り返して稼いでいるのだという。

 しかし憎まれているかと言えばそうでもなく、いわば悪戯好きの妖精にお布施をして鎮めるような感覚で、端金を渡して帰ってもらう。

 それでも本気で嫌がる人とは殴り合いの喧嘩になる事もよくある、それは朝に目にした通りだ。格好は女でも肉体は男なのだ。たとえ手術で取っ払ってしまっていたとしても、力は強い。

 電車には満載に人が乗っている。電車が通るその度に全員から集金をしていたら、端金とはいえその総額はものすごい事になる。

 なのでそんな性癖のない人でも、お金の為に手術して妖精になる事だってあるそうだ。

 インドでは聞き分けのない悪い子供を叱り付ける時に、人攫いに渡して妖精さんにしてしまうよ、と脅すらしい。昔の日本でもサーカスに売ってしまうよ、なんて脅かされたそうだが、洋の東西を問わず似たような話はあるものだ。


 到着時間だと思っていた昼の12時を回っても、電車はいっこうにバンガロールに着く様子がない。

 もう8時間も乗っているというのに。


 ここで、やっと勘違いに気づいた。

 もしかしたら12時間、到着時間を間違えていたのかもしれない。

 イライラは、既に峠を越えて落ち着いていた。

 汚い足が頭上からぶら下がってくるのにも慣れた。

 めくれた足の皮を剥がして下に投げ捨ててくるインド人に、頭を手で払いながらお前これ汚ねえじゃねーかと文句を言う余裕すら出てきた。

 人間の適応能力はなかなか大したもののようだ。


 座席や荷物が心配で初めはトイレにも行けなかったのだが、長いこと観察しているとインド人はよく席を立つ。

 即座にそこは別のインド人に座られる。

 だが彼が戻ってきた時、座っている人の肩をぽんぽんと叩くと、すぐにどいてくれるのだ。

 先に座っていた人の、優先順位が完全に確立されている。

 インドの三等車は確かに、主に妖精のゆすりたかりの蔓延する無法地帯ではあるものの、ルールが無いわけでは無いようだ。

 明文化されない、これはマナーとでも言うのだろうか。ムスリムも、ジャイナ教徒もヒンズーも、詐欺師臭い奴も悪人顏も、ずっと見ていてそれを守らない奴は一人もいなかった。


 トラブルで無用に体力を消耗する必要はない。インドの長い電車の歴史の中で、これはきっと血で血を洗う戦いの末、ようやく編み出された休戦協定なのだろう。


 席を立っても安心らしい。それを確認するとやっとトイレに行けた。

 地獄の汚さだった。

 だがこんなものは初めから予想通りだ。

 息を止めて手早くすませば問題無い。


 うとうとしたり、10ルピーのりんごに似た青いフルーツを買って食べたり。マサラと塩が付けられて一ミリも甘くない、それは果実というよりは野菜のようだっだ。それも酷くまずい、がしがしで筋っぽくて青臭い木の枝でも齧っているような。しかしインド人たちはみんな喜んで美味しそうに食べているので騙された。


 そしていつの間にかまた夜になって、到着時間と思っていた12時を過ぎるが、バンガロールに着く様子はまだなかった。

 その頃には、それを知っても笑顔すら浮かべられるようになっていた、悟りを開いた釈迦顔負けの。


「あとたった12時間かあ、すぐだな」


 地図アプリのGPSは鋼鉄の車内には電波が遮られて届かないようで使えない。

 でも現在地を知ったところで別に早く着くものでもないのだ。自分が今何処にいるのか、そんな些細な事を気にしたって仕方ない。


 落花生の殻だとか、ゴミやほこりや飛び散ったカレーやご飯、変な虫で車内の床はとても汚い。

 白いワイシャツを着た少年がつかつかと歩いてきて、乗客のインド人を見回した。そして突然そのシャツを脱いで、土下座の勢いでしゃがむと床を拭き出すではないか。


「は?」


 そして掃除したからお金をくれと言う。

 面白い乞食もいるものだ。考えたな。

 そんなに綺麗にはなっていないし、椅子に座っている俺には床が汚かろうと関係ない。

 だが意表を突かれて笑ってしまい、仕方なく10ルピーを渡すことにした。

 これもまた余興のようなものだ。


 時間が過ぎるに連れて様変わりした対面の乗客、今は家族連れが乗っていた。

 手を叩く音がして、まだ乗っていた隣の兄ちゃん、人が減った隙に一座席に二人腰掛けていたのが、既に対面で座り直している。彼は10ルピーしか払わなくていいよ、と俺をそそのかす。5ルピーだっていいんだよ。

 家族連れは20ルピーよ、と教えてくれる。目の前で変なものを見せられたくないのだ。

 しかし残念なことに女性がいると妖精さんも力を失うようで、もう払わなくても何もされなかった。


 お婆ちゃんと娘と、その姉妹。あとは孫だろうか、4歳から10歳くらいの子供が三人いた。

 夕方くらいから乗って来て、鉄の炊飯器みたいな弁当箱からグチャグチャのカレーやご飯を出してみんなで食べていた。


 夜中。みんな床に新聞紙を敷いて寝はじめた。椅子に座っている人はそのまま、横の人の肩に寄りかかりながら。


 俺は相変わらず吊るしたタンクバッグを枕にうとうとしていたらまた新しい乗客が乗り込んできた。

 痴漢だった。

 寝ている家族連れの、姉妹で若い方の後ろに場所をとると、薄いタオルを被せて人目に触れないようにした。


 明らかに素振りが怪しいので見ていると、布の下で手を動かしている。

 女性の臀部を撫で回しているようだ。


「おっさん、おっさん!」


 注意しても、ちらっとこっちを睨むだけで無視される。


「おっさん、何してんねんて!」


 他の乗客も、眠りを妨げられる方が不快なようで、逆に俺が非常識な事をしているような目で見てくる。


 え?

 でもそれは違うでしょう。


「この手、何してんの?」


 布をどかして、するとスッと手を引っ込める痴漢。


「あかんやろ」


 とインド人風に首を振る。


「何なんだ? お前に俺の睡眠を邪魔する権利があるのか?」


 奴は、だが何もしていないと言い張るのだ。

 追求して刺されても嫌だが、見て見ぬ振りも出来ない。

 隠すという事は悪い事をしているという自覚だけはあるのだろう。


「分かった、じゃあ俺は足を伸ばしたいからそこどいてくれ」


 と、不自然な格好で間に足を入れて邪魔する。

 味方は誰もいない。

 みんな自分が寝る事で忙しい。

 自分がいい事をしているのかも判断がつかない。日本の勝手な常識を押し付けて、いい格好をしようとしているだけなのかも知れない。

 痴漢されていた女も、嫌がるよりも眠い方が勝っているようで、特に避けたりもしていないのだ。

 気分が悪い。

 歯向かって起こる面倒よりも痴漢を許容する文化なのか。

 それが嫌なら三等車になど乗らなければいいと言う事か。

 それでも、犯罪をされる方が悪いなんていう理不尽を認めたいとは思えない。


 そのまま足を伸ばして、痴漢がこっそりと手を伸ばすたびに足を動かして、軽く蹴飛ばして邪魔を続けた。

 翌朝には筋肉痛になっていた。


 やっと痴漢も去って空も明るくなった頃、家族連れの娘たちも起き上がる。

 別に感謝をされようと思ってした訳でもないが、何も言われず素っ気ないままだ。


 ひょっとして気付いてすらいなかったのかもしれない。

 妖精さんとどっこいどっこいの、特に綺麗でもない小太りだ。


 まさか邪魔されなければ楽しむ事ができたのになんて思われていたら嫌だが、本人は何も言わない。

 当たり前にありすぎて、蚊に刺されたくらいにしか思っていない可能性だってある。

 インドにずっと住んで同じ生活を続けている人でなければその心の内は分からない。

 だから俺は一人で勝手に救った気になっているだけだ。

 それを求めて乗る人なんて日本の常識的に考えたらいないだろう。

 でもこの異世界に、自分の常識を押し通すのはエゴなのかも分からない。

 助けを求められた訳でもないのに、余計なお節介を焼いてむしろ迷惑をかけただけなのかも知れない。

 日本の常識に洗脳された、異世界での異常者が俺なのだと言われたら否定出来るだろうか?

 それでも、普通に考えたら嫌がるだろうことをして、それが当たり前だなんていうのは絶対おかしいだろうと、不快でたまらない。

 これは妖精さんと何が違うのか。彼らは一種のエンターテイメントだから仕方ないと許せるのか。大っぴらで、開き直って、堂々と嫌がらせをしてお金を得る。

 痴漢は後ろぐらい事をしていると自覚しながら、隠れてそれをする。決して声をあげらる事もなく。

 じくじくと暗く湿ったインドの不浄な闇の部分を、目の当たりにさせられた気がして、それは決して気分の良い事じゃない。

 何千何百というこんなことが、事件にもならずこの異世界の夜の電車では繰り広げられているのだろう。それを受け入れながらこの異世界は回っている。


 この鬱屈は自分の中にあるのだ。


 ふとそんな気がした。

 後ろぐらい事をしてはいけない、それをしている他者が許せない。

 ならそれは本当は自分がしたくても出来ない事を、目の前でされて悔しかっただけではないのか。

 それこそ最低だ。

 痴漢にしても、貧乏でもてなくて誰にも相手をして貰えず仕方なしにした、みたいな事情があるのかも知れないし、それはくだらない理由としても清濁というかインドでは何が正しくて何が間違っているのかが一つも分からない。


 幾つもの違った宗教、幾つもの違った常識、人種、言語、エトセトラ。

 一方にとっての正義は他方にとって悪。それがこれだけ集まっていて、全面戦争にも殺し合いにもならないのはお互いを許容出来るからなのか、逆に許容出来なければ殺し合いになるのが明白なので諦めているのか。

 善も悪も定かではないこの異世界で何一つ正解なんてなくてただ、はっきりしているのは自分が何を行動したか、そして何をやらなかったか。

 それだけだっだ。


 駅で止まる度に人は減り、家族連れも降りて座席に余裕が出てきた。

 電車の最終目的地、バンガロールが近付いて来たのだ。


 その頃にはお互いに軽口を叩きあうくらいになっていた隣の兄ちゃんが、噛みタバコをくれてやると手のひらを差し出した。


 正直、興味がないでもない。

 インド人がのべつまくなしに噛んでそこら中にヨガファイアしているアレだ。

 でも、見ればとてもまずそうだった。


「うーん、やっぱいいや」


 断る。

 肩を掴まれて、振り返ると最初に席を譲ってくれたおじさんが怖い顔をして、


「やめとけ!」


 と言う。


「え?」


 いや、しないけど。

 兄ちゃんの方を見ると、俺にくれる予定だったその噛みタバコを、窓の外に捨てている。


 は?


 自分で使わずに、捨てているのだ。


 睡眠薬強盗。


 バンコクのカオサンロードで日本人の彫師ワナビーに聞いた話の中にあった奴だ。


 本当にあるんだー!

 すげー!

 と言うかお前結構仲良くなってたじゃねーか、何するつもりだ。


 彼は悪びれもせず、何だったんだと聞いてもしらばっくれている。


 やって後悔をした方がやらなくて後悔をするよりいい、なんていう薄っぺらい言葉を聞いた事があったがその反証だ。

 恐怖、インド人に騙されてこんな酷い目に! の実践篇を多分命ギリギリで回避して、その実感も湧かないまま電車はようやくバンガロールのメインステーションに到着した。






※予告※

美しい街、追い続ける夢、すり寄ってくる犬たち。地獄の32時間を乗り越えて、たどり着いたのは……えっ? ここは楽園?


次回『大都会』あーあーーーー果っ(略ッ!)

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