水心魚心
お浄土、天竺、ガンダーラ。
日本から時空間の歪み差三時間半。角度にして、52.5度廻った計算になる。
ラクダとか馬しか無い時代に旅をするのは辛かったのだろうか。しかし時速800キロで移動出来る時代になっても家から出ない人だっている。
俺も実は引きこもりのほぼ黎明期からそれを体験しているそっち側の人間だし、観光より宿でネットをしている方が好みだ。
それに見栄えのいい景色の写真なんてグーグル先生やナショジオに任せとけばいい。プロがもっと綺麗に、既に撮ってくれている。
絵描きは写実を止めたのだ。カメラという技術が出来て具象の追求なんて無意味と化した。
インターネットの発達で、情報や写真の価値が相対的に下がった。誰もが魔導デジタル一眼レフを首から下げて、ブログやFBで発信する。十把一からげのブロガーはアフィリエイトで二束三文の糧を得る。
それに追従するのも勝手だ。けどひねた俺の性格からはそんなのベンガル湾で泳ぐよりも嫌な事だと感じられた。
一昨日、うんこだらけのビーチを散策してた時にjyoti君が教えてくれた。
「明日、近くのもっと綺麗な海に連れてってあげるよ」
「いらん」
断った。
あれを見たらインド人でなけりゃ誰でもどんなに綺麗に見えようがベンガル湾沿いで泳ぐのは御免だって気になるだろう。
漁師はそこで魚を捕って同じ砂浜に並べている。シュモクザメや名前のよく分からない魚。
「何て言うの」
と聞くと、
「キン(グ)フィッシュ」
うん、分からない。ナマズみたいな奴だ。他にも鱗と足のある古代魚みたいな奴もいた。昨日食べたのもその中のどれかだ。
転移前に住んでいたアパートの水槽でポリプテルスという熱帯魚を飼っていて、顔が少し似ていたので懐かしかった。ただあれはアフリカの淡水魚なので違う種類の筈だ。
ポリプテルスは結局飼い方の悪さで殺してしまいベランダの植木鉢に埋葬した。そこに白菜を植えて、生えてきた菜の花を天ぷらにして食べたら美味かった。
たった90センチの水槽の中で、下手糞な飼い主に殺された彼はどんな気持ちだったのだろう。
「Like a jail、か」
汚くて広大なベンガルの海で採られた魚は下手糞なカレーにされて食べられる事も叶わない。
安全な檻の中でも危険で自由な外でもなく、その中間。俺の歩いているのはきっと糞まみれの波打ち際だと思う。
やっと気が向いて英語の学校を検索したらバンガロールという街に安いところがあるという。インド旅行者のブログにあった。
二、三日ダラダラしてから荷物を纏める。
纏め終わると面倒くさくなってまたしばらくゴロゴロする。比較的涼しくて過ごしやすいのでつい出発しそびれる。
宿の主人は顔をあわせるたびに、追加で50ルピーをくれないかと懇願してくる。
その度にやだと断る。
魔導通信機になんとマップをダウンロードして保存しておけるアプリがある。コルカタの宿でラッシー君に教えてもらった。
彼のお陰でWi-Fiチートが使えなくてもある程度地理が分かるようになった、もし日本で会えたらビールでもご馳走したい。
そのアプリにバンガロールの学校の場所を登録しておく。
三十路のおっさん学園編の幕開けだ。
そのまままた何日かダラダラして、朝。
「出るわ」
「Wi-Fi代……」
「しゃーないなあ」
宿泊費と別に50だけ払うと、宿の主人は狂喜乱舞したので俺はもの凄くいいことをした気分になった。
電車で直接向かってもいいが、バスでブバネーシュワルという街に出てそこから向かった方が本数が多いらしい。プリーでは特に何も見ず、治療に徹しただけだったので多少は観光もしたかった。
痔は良くも悪くもならず現状維持。
ブバネーシュワルには歴史ある神社仏閣や動物園がある。象も見れるという。
バス乗り場に向かい目的地を告げると案内されたバスに搭乗してぼーっと待つ。
熱波のなか、満席になる迄バスは出ない。
早朝に出発したにもかかわらず、着いたのは午後をまわっていた。
そして歩き回って宿を探す内に、すぐに夕方になった。
線路を越える大きな橋があって、両脇に露店が並んでいる。
表通りは高いビルが立ち並んでいて、でも服屋さんばかり。駅の方まで回ってもレストランしか見つからなかった。
看板にホテルと書いてあっても何故か実はただのレストランなのだ。
インドじゃそういうものなのかも知れない。
そこのローストチキンは骨っぽくて食べにくいがまあまあの味。チキンの癖に日本の魚料理くらい骨が面倒臭かった。
切符なしでそのまま駅を横断出来るなんて知らなかったので、またぐるりと大回りして戻る。シートバッグが肩に食い込む。
裏通りは全部さびれた砂利道。
そこら中にゴミが放置してある。バナナの皮や椰子の葉や、ペットボトルやお菓子のビニール袋。とにかく汚くて野良犬も多く、何で食べられたりしないのか鶏も駆け回っている。
そんな道を一時間くらい歩くとさっきの駅の裏側に着いた。
新しいアプリにはこの辺りにも宿があると書いてある。
一個ずつそれを潰していくが全然参考にならない。
正確じゃないのか情報が古いのか。一つあったホテルは料金を聞くと1250ルピーもした。
確かに綺麗目ではあったがその料金はあり得ない。
で、さまよい歩く内に日が沈んだ。
何とか見つけた安宿は、一泊450ルピー。激高だ。
プリーにいれば三日暮らせる。
後悔しながら設備を確認する。Wi-Fiはない。シャワーは付いてる、と宿のスタッフ。
まあまあのシングル。そこまで不潔そうにも見えない。
チェックインして荷ほどきを済ませて、早速シャワーにしようとバスルームにはいる。
シャワーは、付いていた。
しかし水栓のレバーは、無かった。
下の蛇口からは勢いよく水が出るが、上のシャワーへ繋がる栓が開けれるようになっていなかったのだ。
腰タオルで宿のスタッフを呼びつけて怒る。
来たのは受付をしていた恰幅のいいおっさんで、貫禄のある声をしている。
「シャワー無いじゃん!」
「付いておりますが?」
「使えないじゃん!」
「かしてください」
しばらくガチャガチャやって、でもそんなので直るわけが無い。
「これはこういうものなのです」
と意味の分からない事を言うと、首を横にローリングして去って行った。
しばらく呆然としているとドアがノックされた。
「何?」
きっと直しに来てくれたのだろうと出ると
「食事は何になさいますか?」
さっきのスタッフ、肥ったインド人だ。
「そうだな、今日はその辺で食べるからいらないわ」
「そうですか、チキンとマトンがありますがどちらがよろしいですか?」
「えっ?」
「チキンとマトンがありますが、どちらがよろしいですか?」
「えーとだから、いらないって」
「では、チキンとマトンだったらどちらがお好きですか?」
「……マトン」
押し切られてしまった。
「チャパティとナンが……」
「ナンだコノヤロー」
マトンは精力剤のような効能があるらしく、スタッフはお盛んですねダンナ、みたいな事を言って引っ込んでいった。
色々諦めて水道の蛇口を浴びたりしながら30分後、運ばれて来た食事はスーパーにあるみたいな透明ビニール袋に入っていてそれを銀色のステンレス皿に開けて食べるという微妙な給仕。
ため息をついて一口食べる。
「なんだこりゃ!」
それが、劇的にウマかった。
今までインドに来て、色々なカレーを食べてきた。まあ腹は膨れるというレヴェルで、感動を覚えるほどの物には一度も出会わなかった、しかし。
食べ物の表現などどうせ伝わらないし無意味なので殆ど書かないし下手糞だが、それでも書かずにはいられない。
ルーは濃い茶色をして、仄かに優しくスパイスが香る。一見では分からない、中に含まれた沢山の味がお互いに決して邪魔する事なく奏でるセレナーデ。
それに浸して食べるナンは、お淑やかな小麦がでも僕はちゃんとここにいるよと控え目に主張している、それは掛かったバターの強い香りにも決してかき消されてしまわない。
嚙みしめるほど滲み出すマトンの味わい。決して堅すぎず、柔らかすぎもしない。
そしてブツ切りにされた大腿骨の骨髄。
完璧だった。
それまで食べたカレーが日本のどんなに高級なものも含めて全部、白飯に余り物を掛けただけの犬の餌に感じる程の、あり得ない美味しさだった。
食事の余韻を残して寝転がっていると、食器を下げに来た。
「実は宿代とは別で、食事をしていただかないと私の稼ぎにはならないのです」
と、堂々と種明かしをした。あまりに美味かったので一言も文句が言えない。インド人ははじめからそうなると知っていたかのように誇らしげにしている。
正攻法のゴリ押しでインド人に負けた気がした。全然俺tueeeじゃないじゃないか。
でも何故か悪い気分じゃなかった。
彼はついでに蚊取り線香を持って来て点けてくれた。
「気がきくやん」
でも空中に浮かすのの字の金具なんて無くてただ地べたに置いただけだったので、ちょっと後に気付いたら既に火は消えていた。
※予告※
インド人は本当に嘘つきなので、絶対に騙されます。
何度も騙され裏切られてようやく旅人は対処法を知るのです。
次回『インドの虎狩り』 観光客は自分が行った場所が定かではなく、旅人は自分の行く場所が定かではないッ!