或いは糞で一杯の海
書き溜めなしの連続更新実施中!in ナイロビ
そこから一週間近くトイレとベッドの往復だった。
これがいわゆるインドちゃんの洗礼。
よくある奴らしい。
体温計で計ると熱もあったし、水状の排泄物がいつ出現するか分からないので動けない。
最初の宿からラッシー君が何度か訪ねて来てくれたのだが、何もおもてなし出来ずにベッドで唸っていた。
ポカリの粉末を食べて、水を飲む。
それと塩を舐めて浸透圧を調整する。
経口補液の割合をググって調べて、それに近づけるように。
コレラだとしたら発熱はしないそうなので、ノロだかロタだかウィルス性のものだったのかもしれない。或いは抵抗力の弱った状態での複合感染か。
日本から持ってきた薬は効いている様子もない。下痢止めは正露丸が一番効くらしいが毒素の排出を止める事になるそうなので持ってきていない。
ジップロックに風邪で余った抗生剤なんかを適当に放り込んである。
型番で調べて、効きそうな奴を口に放り込む。体内濃度を一定にする為に、飲み忘れなく定期的に。
あとはひたすら寝る。
で、二日目あたりから背中が痛くなってきた。
癌とか結石とか自力で治せないとんでもない病気なんじゃなかろうかと不安に思う。
インドは世界でも高水準に医療の発達した国らしいので、病院に行こうかと迷う。
二段ベッドの下を使っていたのだが、その背板が歪んで傾いているのに気付いた。
「ん? これなんじゃないの?」
ベッドの歪みも自力で直すのは無理そうだったので、寝る方向を変えてみた。西枕だったのを東に。
治った。
下痢や嘔吐はそのままだったが背中が痛いのはましになった。
翌々日くらいにたぬ吉君も倒れ、他にいた何名かの宿泊客も同じように感染した。
原因は不明だが、ウォーターサーバーが怪しいと踏んでいる。集団感染で、共通点といえばそれくらいしか思い当たらない。
それともなんとかいうボランティア施設で病人の介護をしてきた人が、帰宅前にちゃんと手を洗わなかったのかも知れない。
起き上がれずに暇なので魔導通信機器でちょっと調べたら聖人づらしているババアの黒い噂がたくさん見つかった。
本名をアグネスというらしいあの皺くちゃ。
劣悪な環境と不潔な施設で現地人の病人を飼い殺し、清貧と忍耐の理想の元で注射器を使い回したり十分な投薬もされない、医療研修も適当なボランティアスタッフ。怪しげな治療法。耶蘇教の布教と改宗。多額の寄付と使途不明金。
自分の事ではないながら、ここで彼らが何を嬉しそうにお手伝いしているのか、だんだん腹が立ってきた。
それは多分、信仰なのだと思う。
決して良い意味ではなく、妄信で自ら何も調べたり考えたりしない。
いわば羊の群れだ。
コントロールし易い、馬鹿の量産タイプだ。
為政者に都合のいいカモだ。
唐突だがちなみにコルカタでは美味しいマトンを食べられる。
ヒンドゥー教では基本的に肉食が禁忌だが、ムスリムのやっているハラールのお店に行けば売っている。マトンと言ってもインドではシープではなくゴート、山羊肉の事だ。
臭みもなく、柔らかい。でも一番美味いのは骨髄がとろりと垂れてくる所だ。
ぶつ切りにされた太い大腿骨の中に詰まったそれをストローの要領で吸い出すと、濃厚な味が口の中に広がる。
マトンカレーを頼んだのに肋骨しか入れてくれない店には二度と行かない方がいい。
それほど美味しい餌食なのだという喩えである。……飼い慣らされた。
ただ、俺自身が無批判にその黒い噂とやらを信じるのもまた同じ誤謬の裏表だ。
昔から何か虫が好かないとは思っていたものの、それも誰かに作られた伝記と言う程の物語だし、そういう幻想を受け入れられないひねた性格に問題があるとも考えられる。
単純に、彼女を悪人に仕立て上げたい勢力があって反キリストなのかも知れないし、カソリックを嫌うプロテスタントの意向なのかも分からない。善意や正義感から告発したという話を単純に信じる事も出来ない。
宿泊客で看護師の女性がいて、体調が悪いみんなにあれこれ指示していた。医療従事者だからだと言っていたが、俺は知っている。友人が看護学校の事務で働いていて、彼女らがどれほど医学的知識を持っていないか。それどころか一般常識すら怪しい事を何度も嘆くように愚痴られた。
それと医師ではないが医大出身の友人がいて、少し事情があって今は連絡を取っていないが大体その辺の話は聞いている。
なるほどボランティア施設なんかとは相性が良さそうな組み合わせだ。
同病で苦しむぽん太くんに、
「ナースの人に塩舐めろって言われたよ」
と言うと、
「あの人そればっかりしか言わないんですよ」
と批判的だった。
「きっと悪気はないんだよ」
本物の医者だって誤診するんだから。
病気や身体についての、解明されたり治療法の確立している物事の数は数限りなく多い。それこそ専門分野に特化しなければ医師一人ではとても網羅仕切れないほどに。
しかしそれに当てはまらない原因も対処法も不明な未知の疾患、症状はいわゆる悪魔の証明と同じ数、無限に近く存在する。
現場と研究職があって上の方では病魔との闘いが分子レベルで繰り広げられていたりもするのだが、それもまた神話と同じくらい、それこそバラモンやインドラくらい関係ない話だ。
シュードラと何も変わらない俺のような底辺市民に出来ることは塩を舐めるだとか、せいぜい抗生物質を飲むくらいなのだ。
熱が少し引いてようやく動けるようになった。
ぽん太くんは縫いぐるみを連れて帰国すると言う。
全快ではないが飛行機の予約があるそうだ。
検疫で引っかかって薬草の反応が出ないかを心配していた。
「大丈夫! 所持は違法だけど使用は何も罰則なかったはず」
見送ると、使い残した余りと綺麗に巻かれた1ショットを置き土産にくれた。
「どうせ持って帰れないんで、使って下さい」
「いいの? 本当に?」
連絡先をあえて聞かなかったのは彼が変なファンタジー小説に書かれて迷惑する可能性を考えたのと、逆にぽん太くんが捕まって連絡先から芋づる式に調べられてマークされたくない為が49%ずつ。残りの2%は彼を追ってたぬきの縫いぐるみに隠されたマイクロチップを奪い目撃者を消す為に襲い来る各種エージェントに目を付けられない為の用心だ。
「じゃあ、いつかどっかで」
「うん、気を付けて」
そんな感じだった。
そして下痢も大分マシになったのでラッシーくんにおすそ分けしようと前の宿に行くが、彼も既に旅立った後で会えなかった。
仲の良かったジャンキーがみんな居なくなってしまったので、プリーに行く事にした。
少し南の街で、ベンガル湾に面したビーチと信者以外入れない歴史的寺院がある所だそうだ。
ここの日本人宿の本店があるらしい。
何より田舎で物価が考えられないくらい安いそうなのだ。
一泊400ルピーもし、食費もそこそこ掛かるコルカタでの生活、トイレとベッドの往復の日々に終止符を打つ、と翌日荷物を纏めて街を出た。
何故か付いてくるインド人にコルカタ・ハウラー駅行きのバス乗り場を教えてもらい、汚い道の乱暴運転とクラクションの嵐を越えて駅に着き、迷っていると汚いジジイがこっちだと指図してくる。
「は?」
「お前は来なければいけない」
「うるせえ、誰やお前」
プリー行きの電車の切符を買うだけなのだがどの窓口へ行けばいいのか初見ではなかなか分からない。
ジジイは目を赤く充血させていて、左の掌に何かの葉を入れて揉んでいる。
明らかにお前に付いて行っちゃいけないと、俺の全身全霊が叫んでいる。
絶対に駅のスタッフじゃない。おおかたチンピラ旅行代理店の呼び込みか何かで、初見殺しの詐欺師だろう。切符の三十倍位の料金を請求される奴だ。それにしてももう少しまともな格好も出来ただろうに、脳みそがお花畑の少女だってきっと裸足で逃げ出すだろう。
で、しつこくつきまとうジジイ。彼に出来るだけ失礼に聞こえるように、
「Who are you?」
と、聞き質す。
ジジイは答えない。
無視してまともそうな人に聞くと一番端に外国人用の切符窓口があって、そこに並べばいいようだった。
そこに並んで立つが、ジジイはいつまでたっても諦めないで来い来いとうるさい。
「だから、いらんて」
うだうだやっていると、警棒を持った駅職員か警備兵が出てきて、
「お前は何をしているのだ」
と尋問された。
「いや切符買いたいだけなんだけど、このおっさんがうるさい」
「そうか、ならば付いて来い」
と、切符売り場の中の柵の奥へ連れて行かれた。ジジイは追い払われた。
「パスポートを見せろ、お前は何処へ行きたいんだ」
それに従って鞄からパスポートを取り出してプリー行きの切符が欲しいと言うと、また
「付いて来い」
と言う。
で再び外の切符売り場、さっきの外国人用窓口に連れて行かれた。
「お前は外国人だからここで並ぶんだ」
「えーっと。いや、知ってましたけど?」
「ここに並んで、この紙に記入して提出しろ」
「……お、おう。分かったわ」
ジジイがじゃれてきて面倒だったのを救ってくれた恩もある、ここは素直に従おう。最初は出来る奴と思ったけど、きっと意外と馬鹿なのだ。
その用紙を書いている間や職員と喋っている間中、前から後ろから割り込みをしてくるインド人がいて、いちいちそれを押しのけるのも一苦労だ。
ようやく紙に必要事項を書いて出すと職員が何個も訂正した上で受理してくれた。
お金と交換に印刷されたチケットを受け取る。
スリーパークラスと云うやつで寝台車、300ルピーだった。
距離にして600キロ近く。東京ー大阪間よりも更に離れているが、円換算して450円少々だ。
やはりインドは交通費が異常に安い。
で、出発ホームが腐るほど、三十個近くあるのでまた迷っているとまた別のインド人が教えてやる、チケットを見せてみろと言ってくる。プリー行きで22時35分発の奴だと言うとこの階段を上って向こう側の22番ホームだよ、と教えてくれた。
「ありがとう」
親切な奴も居るものだと去ろうとすると、
「60ルピーだよ」
「は?」
「教えてやった代金、60ルピーだよ」
「馬鹿じゃねーの? そんだけで高すぎるだろ20ルピーくらいだったらまあいいけど」
「仕方ないなあ、じゃあ20でもいい」
と云うやりとりで、結局払ってしまったが、よくよく考えると1ルピーだって払う必要なんてなかったのだ。
ENQUIRE(問い合わせ)と書かれた窓口があって全部そこで聞けたからだ。
腸が煮えくりかえるほど悔しかったが、小さくこつこつ騙されて警戒心や免疫をつけておいた方が最終的に大きく騙されるよりはいいだろうと無理矢理自分を納得させる。取り返そうと血眼で駅内を探し回ったけど奴はもういなかった。
身なりはまともな奴だったのだが。
構内はとにかく雑多の一言で、オレンジ色の服を着た坊主やウクレレを弾いてる疲れた顔の欧米人カップルだとか民族衣装を着た人の群れだとかたまにターバンを巻いた人だとか、描写するのも面倒くさくなるほどごちゃごちゃしていた。
絵の具を全種類ぶちまけて汚く濁ってしまったパレットのような色合いだ。
その中で誰か何かを探そうなんて一目見て無駄だと分かる。
仕方ないのであとはインドの誰もがしているようにコンセントから魔導通信機に勝手に充電したりお菓子を買ったりパティがチキンでバンズがばっさばさのハンバーガーを食べたりして発車まで時間を潰した。
始発駅なのか知らないが、驚くべきことに生意気にも全然遅れず定時出発だった。
夜行寝台で一眠りしている間に着いた。
壁に見たことのない小さくて変な虫(Gに非ず)が這っていたのを見ないふりするのが辛かったくらいだ。
早朝、プリーに着いてまた駅から日本人宿の支店へ向かって歩き出す。
その途中で見た海、朝日にきらめく水面。出航を待つ漁船の群れ。
そして砂浜には、数かぎりない人糞が転がり、放置され、あるいはより来る波に打ち寄せられていた。
※予告※
恐ろしい病魔や傷との戦いに疲れて弱り切った体を回復させる為、旅人はひとり部屋にこもる。ひとときの休息。
可愛らしいたくさんの犬たちが彼を優しく癒す。
次回『一人遊び』牢獄で暮らすのと永遠に旅を続けるのはもしかしたら同じ事なのかも知れないッ!




