あの犬の悲鳴を君は覚えているか
コルカタ市内に向かうバスはクラクションを鳴らし続けている。それも手元のレバーを引くと連続音が鳴り続けるように改造済みのようだった。
前の車も、後ろから来る奴も、抜く奴も抜かれる奴も何が楽しいのかとりあえずブーブーと鳴らしっぱなしだ。
あとで聞けば、これは鳴り物を嬉しがる子供のような感覚なのだそうだ。
日本で言うところの『邪魔だ、どけ』という意味とは少し違い、『僕はここにいるよ』と言っているのだという。
この人種も人口も糞のように雑多なインドの中で、必死で自分の存在を主張する、魂の叫びなのだ。セカチュウなのだ。
何だろうがうるさいには変わりない。
全然スピードは出ていないのに急ブレーキだとか段差やカーブで始終揺られっぱなし。
それは我慢出来るとしても、このバスが本当に目的地に着くのかも不安でいっぱいだった。
地図に地下鉄の駅名がShyambazarと書かれていて、その次の駅がSovabazar-sutanuti。
は?
し、シャムバザー?そばばざーすたぬティー?
うん。読み慣れないのは仕方ない。で、どっちに向かってるんだ。
俺がメトロステーションと言った時、指に何十枚ものルピー札を挟んだ車掌は何と答えたのか、もう定かではない。ナントカばざーるって言ってた気がする。
ローマ字表記があるだけマシだと今となっては思うが、このインドの地名だけは最後まで慣れなかった。
無事に目的地に着けたのは車掌さんが異様なほど賢かったからだ。
満席のバスのシート、すし詰めのインド人。それを見事にさばいて、女性は女性同士、先に降りる人はドア付近の席、全部きちんと廻していたのが彼だった。
運転手などはクラクション鳴らして走ってるだけだ。
いやこの交通状況のなか事故を起こさないだけで人知を超えた超絶テクニックの持ち主なのは間違いない。
しかし車掌の気遣いや記憶力、判断力、認識力はそれこそ次元の違う異能だった。
乗客全員の目的地を彼はすべて覚えていて、停留所のたびに、その人ごとに到着を知らせてあげていた。
同じにしか見えないインド人、同じにしか見えない道。似通った地名。
「すげーな」
易々とそれをこなす車掌の姿を見てインドの底力に恐れ慄いた。
ここだ降りろと言われてやっと多分地下鉄の駅近くに着く。
荷物も無事だし交通事故も無く到着。
日常的にちょっとしたスリルを味わえる何ともお得な環境だ。通勤に使いたい。
バスに乗る前、因みにサンドウィッチも食べる前の話だが、ひたすら歩いていた時に隧道に汚い看板でSUBWAYと表示があって入ってみたら単なる地下道だった。
イギリス支配下にあったインドの英語はイギリス寄りで、アメリカ英語との細かい違いが幾つもある。ちょうどそれに騙されわけだが今度は本物の地下鉄だ。
どっちのバザール駅だろうが乗ったら一緒だ。
残りルピーも心細くなって恐る恐る値段を聞くとたったの15ルピー。確か500ミリペットボトルの水が20ルピーでサンドウィッチが80ルピーだった。バスですら17ルピーもしたというのに。
1.5倍なので日本円で20円少々だ。
それで切符ではなくICチップの入った青色のトークンが貰える。
運賃も安く、構内は普通に綺麗だ。ゴミもウンコも落ちていないし唾を吐く奴もいない。
その代わり警備がものものしい。
駅構内は写真撮影禁止だし、乗り場に金属探知機のゲートがあって兵士が警備している。飛行機と同じように、カバンはX線のスキャナを通さないといけない。
日本の感覚ではたかが地下鉄だが、異世界ではこれも重要な軍事技術なのだそうだ。
そこから5,6駅でパークストリート駅、ガイドブックによれば安宿が密集している地域がこの近くにある。
今更だが、インドについてから異世界度メーターが振り切れっぱなしだ。
見渡す限りのインド人。
てか僕ここにいて本当にいいんすか?
そんな気にすらなってくる、白くて薄い顔の日本人。
とはいえいわゆる典型的なインド人、ターバンを巻いてる人はそんなにいない。
実はターバン使用者はシーク教徒で少数派だとか。多数派はヒンズー教徒で、女性はカラフルな衣装を纏い、第三の目を描いている。男は大抵普通の格好、小汚いワイシャツが多い。
あとは髭を伸ばしているイスラム教徒らしき人が多かった。
いや正直、ごちゃごちゃし過ぎて誰が何なんだかこれっぽっちも分からない。
右から来るのも左から来るのも誰とも知れぬインド人なのだ。
全員が全員みんな怪しそうで、騙して来そうだし、睡眠薬を盛られてもおかしくない、そんなおどろおどろしい雰囲気に感じられた。
喋りかけてくる奴は敵だ。喋りかけて来ない奴は敵になるかもしれない奴だ。いつでも即座に聖剣を振るえるようにベルトループに通したカラビナに付けている。
小腹がすいて売店で、10ルピーでお菓子を買ってそれが全然開かない。袋の接着な尋常じゃなく強固に閉じられている。切り口だってどこにもない。
さっと聖剣を抜き、小さいハサミを開いて一発。
恐れ入ったか、これが俺の実力だ。
サワークリームオニオン味のギザギザしたポテトチップスを口に放り込みながら、俺は油断なく周りを見渡す。
ここにはスクールカーストならぬ本当のカースト制度がある。いや、あった。現在では法律で禁止されているらしい。
それでも実際靴を履いていない人だとか、何か貧乏そうな人も道で寝ている。靴を履いていないのはカースト外の不可触民だとか、そんなよく分からないルールがある。
とにかく異世界の歩き方のガイドマップから地図のページを開いて、宿の所在地を確認して向かう。相変わらずWi-Fiが無くて役に立たないg〇〇gle map。
インド人に一切道を聞かないで、何とかその安宿街、サダルストリートとかいう場所に着いた。
道はそこら中にゴミが散らばっていて牛とか犬のうんこだらけだし、ヤギの群れを連れたおっさんが棒切れ持って歩いてるし、たまに牛はいるし野良犬はそこら中に寝てる。
通る車は引きっきりなしにクラクションを鳴らし、何か黄色いタクシーが沢山いる。タタ自動車製らしい。
歩いてるおっさんがその車に内輪差で軽くぶつけられて、その隣で豆かなんかを焼いて売ってたおばちゃんがその人の知り合いなのか分からないけど抗議のつもりだろうトランクを平手でバンバンと叩く。
怪しげな小汚い老人がしゃがれた声で喋りかけてくる。
「ハッパアルヨ」
日本語だ。転移者だとバレている。
「いらんわー」
あと老いも若きも男も女ものべつ幕なしに唾を吐きまくる。
空気が悪いからというのもあるだろうが、見るとその吐かれた跡が赤い。
噛みタバコをやっているせいだ。
赤い液体をヨガファイアしてくるそれを油断するとダメージを喰らうので細心の注意で避けながら、というのも発射には前動作があって一瞬首をくいっと上に上げてタメをつくる。それを見逃さずに回避すれば簡単に避けられる。ジャンプする必要だってない。
うん。
まあ、インドなんだしこんなもんだろ。
宿で空室を聞くと三軒目で入れた。一泊350ルピーだった。
部屋は個室でタイの時よりきれい……と言っていいのか。
全然手入れの行き届いてない新しめ(昭和くらい)の設備と、そこそこ掃除してある古い(明治時代レベル)小屋の違いと言ったら少しは感覚が分かってもらえるだろうか。
天井から大きなファンがぶら下がっていて、スイッチを入れるとものすごい勢いでぶん回る。飛んでいた蚊も羽虫も吸っていたタバコの灰もぶっ飛んで行く。
多少は涼しい。暑くない事もない。
ベッドは硬い。でもそれが思いの外、寝心地がいい。
木枠にマットレスは無く、硬く平たい紐が交互に渡してあって、その上に薄い布団とシーツ、毛布という構成だ。
ワイアーのネットに背負っていたシートバックを入れて施錠して、ベッドの脚にくくる。
レートのマシな両替商を宿の人に教えて貰ってドルをルピーに換える。100ドルが6500ルピーと少し。カードは使うのが怖いので未だに躊躇していた。
あとは汚れた服の洗濯をしたり一服したりビールを買って飲んだりダラダラした。
Wi-Fiが通じるのでネットしたり4chanに書き込みしたり、日本で引きこもっているのと何も変わらない。魔導通信機器さえあればもしかしたら多分世界中どこでもニートができる。……そう、魔導通信機器ならね。
適当にそこら中にある安いローカルのレストランでカレーを食べたり、ヨーグルトと砂糖と牛乳を混ぜた冷たいラッシーを買って飲んだり、10ルピー以下で売ってる甘いチャイ、植木鉢みたいな赤茶色の素焼きの小さな使い捨てのコップに入れてくれる。
それを試しに飲んでいたらチャイ屋の親父がふと急にそれを振りかぶって全力投球。
さっきから店の横で骨の欠片を咥えて嬉しそうにしゃぶっていたブルテリアそっくりの不細工な犬にスマッシュヒット。
「ちょ、何すんねんな急に」
キャンと鳴いて逃げてゆく、犬の声が聞こえてくるようだ。
器ギリギリまで入った熱いチャイが溢れないように笑いを堪えるのが辛かった。
次の日だったか三日目だったか、日本からの転移者が来た。旅慣れている感じでインドは何回も来ている言う。
「僕初めてなんすよ」
と言うと、
「インドって言うだけでみんな脅かしに掛かってくるけど、来てみたら意外と普通ですよね」
「そう……っすね、意外とね」
「ははっ」
と何故かすぐ仲良くなれた。
短期で転移して来て、すぐ日本に帰ってしまうという、なかなかの強者だ。
で、インドと言えばガンジャでしょ、とそっち系の話になった。
「実はタイでもあったんですけど、法律が厳しくなったとか聞いてやってないんですよ」
「インドは大丈夫らしいっすよ」
「そうみたいっすね」
今では本当は法律ではダメらしいが、修行僧から庶民、果てはシヴァ神まで習慣的に嗜む神聖な植物なのだとか。
紀元前2000年以上昔から続く文化らしい。
逆にお酒や煙草に厳しくて、屋外で飲酒はダメだし喫煙だって見つかったら罰金だ。
ある祭りでは参加者のほぼ全員がバングーという乾燥大麻を喫っていたのに、煙草を吸っていた観光客だけが捕まって罰金刑に課せられたなんて記録もあるそうだ。
「よく声掛けられるんだけど、大丈夫な奴なのか心配で買ってないんすよ。相場も分かんないし、誰か詳しい人でもいたら聞こうかとは思ってるんですけど」
「僕ね、宿の人に聞いて実はもう買っちゃったんですよ、えへへ」
「何それすごい」
宿のガードマンが密告とかしない安全な売人を教えてくれたそうで、2000ルピーを値切って500ルピーで買ったのだとか。
「詳しい人ここにおった」
「いや全然そんな事なくて、ムンバイとかじゃラッシーに混ぜた奴しかやってないんです、だから喫い方はよく分かんない」
「半分こしない?」
250ルピーならある。
「じゃあちょっと屋上で一服します?」
それから巻紙を買ったり、ビールを買ったり準備万端で屋上に向かった。
※予告※
この物語はフィクションです。いかなる実在の人物、団体、国家とも一切関係がありません。
次回『日本人宿』ぷはーッ!けほけほッ!