一日目 第七話
フィッシュからこれからここで暮らせと与えられた一室。柔らかく、しかし適度に反発の有る一級品のベッドの上で一人夜を過ごす。部屋に備え付けの、音のしない時計を見れば、もうすぐこの島に墜落した最初の一日が終わる。
私は外の世界ではどういう扱いになるのだろうか。脳内のGPSは相変わらず太平洋の中心を示し、島の名前は映し出されない。飛翔機に登録してある番号の信号がここで途切れたのなら、調査が来るだろうか。いや、きっと来ない。対空システムまで導入して島の存在を秘匿しているのだ、そこら辺の対策は万全だろう。おそらくは碌な調査もされず、事故で遺体は海の底。回収不可能ということで片付けられるだろう。そして私の両親には多額の保険金が支払われ、飛翔機メーカーへの訴えも行われずに事件は報道もされずに収束する。そういうシナリオになる可能性が一番高い。家族にはそれほど愛情をかけられていないし、金さえ貰えば追求はしないはずだ。保険金で残りの人生を謳歌するのだろう。
まあ、どうなろうとも最早私には何の関係もないことだ。外の世界に戻ることは恐らく、生涯二度と無いのだし。会社や友人、家族に未練が有るわけではないが、そう思うと訳もなく悲しくなってくる。
この感覚は、初めて親元を離れて都会で一人暮らしを始めた時のことを思い出す。あの時は最初の数日間こそ寂しいと感じていたが、それを過ぎてからは環境に適応し、一人暮らしの楽しさを見いだせた。ここでもそうなるのだろうか。そうなるのだろう。そうなってしまうのだろう。この異常な環境に適応し、ストレスを感じなくなる。それは恐ろしいこと。今まで積み重ねてきた人生の価値観が崩されて土に帰り、そこから新たな価値観が芽吹く。
それは恐ろしいことだ。
何故恐ろしいのか。
私が私でなくなってしまうからだ。
だが、そうしなくてはいずれ耐え切れずに自ら命を絶つか、使いものにならないと判断されて命を絶たれるかの未来しかない。
適応するのも怖いが、死ぬのも怖い。これが二律背反というものだ。
諦めてしまえば楽になれる。だがそうしたくはない。我ながら難儀な性格をしている。
「入っていいかね」
ベッドの上で自嘲の笑いを浮かべていると、ノックの音とフィッシュの声が響く。頭だけ動かしてドアの方を見ると、動きに反応して空間ディスプレイが目の前に現れ、ドアカメラに映ったフィッシュともう一人少女、二人組の姿が現れる。拒否する理由もない。
「どうぞ」
声に反応してドアのロックが解除され、二人組が入ってくる。ある程度近寄ると、枕元の電気スタンドに照らされたフィッシュの嬉しそうな笑みがよく見えるようになった。人を不愉快にさせる笑みだ。そしてその後ろ、フィッシュの恰幅のいい体の影に隠れ、その顔を窺い知ることは出来ない。
「上司が来たというのに寝たままか。態度が大きいね」
「前の会社でもこうだった。変える気はないからな」
「出世できなかっただろう?」
「機械以上の仕事ができるわけでも、有名大学を出たわけでも、重役の家族親族ってわけでもない。出世なんて頭の片隅にも無かったよ」
だから日々こき使われ、不平不満を口にしながらもその仕事を続けていたのだが。それはともかく、フィッシュの影に隠れた彼女の事が気になって仕方がない。彼女は私が生まれて初めて犯した凶悪犯罪の被害者。彼女は私のことを恨んでいるだろうか。恩を仇で返されたことに怒っているだろうか。それとも、それすら感じないように設定されているのだろうか。
いっその事糾弾してくれたほうが、気分も楽になるのだが。
「私は君に期待しているよ。珍しい常識派の人間だからね」
「悪いが期待には応えられんよ」
常識派と言っても、漂着したばかりの今でこそだ。時間が経てばいずれ島の色に染まるだろう。そうはなりたくなくとも、いずれ避けられない。
「そうなるのを恐れているのが良い。この島の人間は全員が最初から壊れている。だが君はそうではない。外の常識を持つ人間が染まり、壊れていく様を見るのを、新たな楽しみにしているのだよ」
「……そうかい」
壊れていく様を見て、楽しんで。それは自由だ。他人の娯楽には自分にかかわらない限りどうこう言うつもりはない。しかし私が完全に壊れたらどうするつもりか。壊れてはいけない、壊れたくない理由が一つ増えた。
「いい目だ。しかし、いつまで持つか」
「あんたが飽きるまで。持てばいいんだが」
持たせてやる。そう言い切ることが出来ないのが人間の弱さ。化物を前にすると、自信を持って自分は大丈夫だと言い切る事ができなくなる。単に私の心が弱いだけかもしれないが。
「長い付き合いになるといいね」
「そうだな」
本当に。いつまで持つものか。
「さて、夜も遅いしあまり長話をしては睡眠時間が削れてしまって良くない。エンジェル。彼が君の主人だ。誠心誠意、尽くしなさい」
フィッシュが小さな彼女の背中に腕を回して前、私の側へと押出す。スタンドライトの光が彼女の顔を照らし、気丈そうな顔を露わにする。若干丸みのある可愛らしい顔と、長さの整えられた金糸のような髪。ほんの少しだけ日に焼けた肌。目には前に見た時よりも力があり、比べるまでもなく生気に満ち溢れていた。もう人形には見えない。
「よろしく」
右手を差し出す。すると、パシン、と軽い音を経てて手を弾かれた。驚いて一瞬固まると、彼女がようやく閉じていた口を開く。
「気安いわね。ケダモノ」
侮蔑と拒絶。それを見下すような目つきと言葉、行動で示されて困惑する。
注文と違う。
そうフィッシュに視線で抗議すると、これまた不愉快になる笑みを浮かべながらこう言った。
「天使は人を導く存在で、悪魔は人を堕落させる存在。前者は人に厳しく、後者は優しい。君の付けた名の通り、天使のようにしておいたよ」
私は君の注文通りに作ったよ、文句は無いだろう。そうとでも言いたげな顔だ。
「そうだな」
しかし、これならこれでも構わない。依存するだけでは限界はすぐにやって来る。ストレスからの逃避として依存をするのなら、依存先はストレスの発散先にしかならない。しかし自分の求めぬ性質のものと一緒に居れば、それ以外での発散方法も模索する。考えることも刺激も増えて、限界も遠ざかるだろう。
「改めてよろしく。私はジョン・ドゥ。元サラリーマンだ」
もう一度手を差し出すが、見向きもされない。
「自己紹介は無視せず返すのが礼儀だ」
「……名前はあなたが知ってるとおりよ」
「だとしてもだ。これは人間同士なら必要なことだよ」
人間、という言葉を使い、彼女をモノ扱いする気はないという意志を示してやる。その気遣いが通じるかどうかはともかく。
「エンジェル。不本意ながらあなたの所有物になったわ」
腕を組み、顔を背けて私を見ようともしない。苦笑しながら、また手を差し出すが、彼女の腕は引っ込んだまま出てこない。
「私は君のことを物とは思っていない。命の恩人を物扱いするような外道ではないからね」
暗にフィッシュへの皮肉も込めつつ、彼女の気を緩めるためにアプローチを掛ける。
「記憶はないけど話は聞いたわ。恩人の人格、記憶を消して新しい人格を入れる時点で、十分外道と言えると思うのだけれど。外の世界の常識では、そうじゃないのかしら」
「やったのは私じゃない。なんて言い逃れをする気はない。手厳しい」
実行したのはフィッシュでも、それを提案され、頼んだ時点で既に同罪。自分が凶悪犯罪者であることは自覚している。
しかしこれだけ知性の有る会話ができるとなると、刷り込んだ人格ではなく本物の経験を積み重ねた結果、固定された人格を持つようになった人間を相手にしているようだ。
「それが売りだからね。人形を抱いてもつまらないだろう?」
考えを見透かしたように、フィッシュが話し出した。
「その点に関しては、私は一切妥協していない。何千何万という人格パターンを組み合わせて、顧客一人一人に合ったオリジナルの人格を作り上げ、それを刷り込んで提供する。私が唯一人に自信を持って誇れる事だ」
「鬼畜の所業だな」
「私は従業員たる君の望みに答えるという義務のために行ったのだよ。それを忘れないでくれるかな」
「わかってる」
わかっているとも。これから私もその行為の片棒を担ぐ事になるのだ。
「では、そろそろ失礼するよ。あとは二人でゆっくり親交を深めるといい」
言いたいことは全部言ったのか、満足したような顔でフィッシュは部屋から出て行った。そして、枕元のスタンドライトだけが照らす薄暗い部屋の中で、私とエンジェルは二人だけになる。ベッドはキングサイズ、大人二人でも余裕のサイズだが、枕を一個掴んでそれから降りる。
「……」
ビクリ、とエンジェルが震えて一歩下がる。それには触れず、まっすぐに部屋のソファまで歩いて、座る。
「怖がるな。手を出す気はない」
「本当かしらね」
疑惑の視線。それを正面から受け止め、不安を解消してやるために自分の好みを言ってやる。
「俺は年上の方が好みだからな」
「そう」
「ベッドは譲ってやる。レディをソファで寝させる訳にはいかないからな」
ソファの上に畳まれて置いてあった毛布を被って、枕を敷いて横になる。
「やったことは屑なのに、意外と紳士的なのね。少しでも点数を稼ごうって?」
「レディファースト。紳士でなくとも、常識の範囲内だ。それじゃ、良い夢を
「……おやすみ」
電気が消され、真っ暗闇の中で目を閉じる。