一日目 第四話
長い間便器にしがみついた格好で自らの選択を悔いていたが、そろそろ戻ろう。あまり長い間トイレに居ても怪しまれる。ふらつく体と痛む喉を堪えて廊下に戻る。見慣れぬロボットが前を通り過ぎたが、この島のことだ。今更驚くほどの事ではない。
では、戻ろう。魔女の釜の置かれたあの厨房に。
「随分と長グソだったな」
厨房に戻ってかけられた第一声がそれだった。見た目通りに下品な冗談を飛ばしてくるアンドレイは放置して、改めて厨房の中を観察する。壁は清潔感のある白い輝きを放っているが、コンロの近くはこびりついた油でわずかに汚れていて、長い間使い込まれたような雰囲気を感じさせる。整理された料理道具。せわしなく動き回る人。そして、コンロで火にかけられている鍋から突き出る、少女たちのものであろうヒトの手足。トイレに行く前に見た光景は幻覚でもなんでもなく、地獄のような現実だということを再認識する。
「料理長。こいつが件の新人だ」
アンドレイの視線を追うと、ニュースで見た顔の男が居た。それから、アンドレイと最初に会った時の質問がどういう意味を持つのかを理解した。
やはりこの島の経営者、フィッシュは頭がおかしい。
「やあ、はじめまして新人君」
凶悪殺人犯らしからぬフレンドリーさで握手を求められる。数秒間迷って、その手を握る。そうと知っていなければ迷わずその手を握るかもしれないような、爽やかないい男。それが、この料理長と呼ばれた殺人鬼の第一印象だった。殺人事件のニュースで取材される人間が、口をそろえて「そんな事をする人には思えなかった」と言う理由もよくわかる。こうして対面しても、全く本性を匂わせない。
「名前はなんて」
「ジョン・ドゥ」
先程も語った偽名を名乗る。
「偽名かい?」
「もちろん。ミスター・ヴァンパイア」
ニュースで流れていた、犯行の手口からつけられた蔑称。これで反応すれば本物だ。本物とすれば、死刑になり牢屋へぶち込まれているはずだが……果たしてどうなのか。
「僕のことを知ってるのか」
「全米で報道された有名人だ。アメリカ人で知らない奴は、世間に感心の一切ない世捨て人か、情報を取り入れる道具を一切持たない田舎のホームレス位なもんだろ」
女性を拉致監禁した上でレイプして、それだけでは飽きたらず血を注射器で吸い出して飲んで、最終的には失血死させるという斬新かつ残忍な犯行。その手口から吸血鬼とも呼ばれたその男が、今目の前に料理長という立場で立っている。ということは、こいつのつくる料理も……鍋を覗けば、やはり赤色。ここで出されるスープは血液。鉄錆の臭いをうまく別の香りで打ち消している。
「僕の料理に何か?」
「よくできてるなと思って」
軽蔑九割、料理の腕への称賛を一割の割合でブレンドした言葉を贈る。吸血鬼と言われるだけあって、血の味をよくわかっているのだろう。だからそれを料理に使う事もできるのか。目を閉じて、香りだけを感じれば空腹を刺激する素晴らしい料理とわかる。
具が人間であると知らなければ、ぜひ食べてみたいと思っただろう。
「これを客に出すのか?」
「そうでないなら、一体何のために作ったと思ってる。それとも客に出せないような仕上がりだとでも?」
僅かな苛立ちを込めた返事。どうやら自分の料理を馬鹿にされたのだと感じたらしい。余程料理の腕に自信があるのだろう。でなければ、こういう反応は返ってこない。
「いや。客は材料知ってるのかなってな」
「知らない奴がこの島に来るわけ無いだろ」
ああ、やはりこの島はカニバリストの島だったか。そうだよな。ただ少女を買うだけなら途上国へ行けばいくらでも買える。わざわざこんな太平洋のど真ん中に浮かぶ人工島にまで来てやる必要もない。だが、衛生的な調理施設、腕の良い調理師、そして高い秘匿性は途上国に求めるのは難しい。
「客はどんな層が居るのか、見せてもらっていいか」
「もうすぐ料理を出しに行く。その時にドアが開くから、そこから見るんだな」」
「わかった」
殺人鬼と言っても、マトモな判断が下せないわけではないらしい。凶悪犯罪者は皆理性も知性も自制心も欠片も無い、どうしようもない屑ばかりだと思っていたが、それはただの思いこみだったらしい。
いや、犯罪を犯す時点で屑なのは間違いない。理性がない、という点だけが間違いだ。犯罪者にも理性的な判断は下せる。きっと話せば意思の疎通は容易だろう。でなければ、一人殺した時点で警察に捕まる。
ということは、私がわざわざ軽蔑する屑のふりをしなくてもよくなったのか。偽のプロファイルで屑を騙っていたのだし、言動もそれに倣わなければと思っていたが。意外と理性的な犯罪者も居ることだし、素のままで過ごしても案外問題ないのではないだろうか。
「それじゃ料理を出してくる。客の顔、今覚える必要はないが、その内覚えろ」
「客商売だったから、人の顔を覚えるのは得意だ」
「頼もしいな」
軽く言葉を交わし、吸血鬼が美しく盛りつけられた人肉料理を手に持って、厨房から出て行く。少し広めに開かれた扉から客の顔を覗く。元々目は悪い方でもないため、少し離れて楽しそうに食事と会話に花を咲かせるセレブ達の内一組の顔を、鮮明に捉えることが出来た。見目麗しい男女。見覚えがあると思えば、あれはハリウッド・スターではないか。そう思ったところで目が合って、微笑みかけられ、心臓を鷲掴みにされたような気分になり、扉が閉まる。
「どうした。客に惚れでもしたか?」
「いや。有名な映画女優がまさか食人鬼だったとは思わなくてな。ショックだよ。ファンだったのにさ」
今まではスクリーン越しの、演技している姿しか見ていなかった。出演する映画の中で、彼女は主に清純な女性というイメージの強い役で有名になった。そんな彼女の演技ではない生の姿は初めて見るが、これが本性だとすると軽蔑せざるを得ない。こちらが勝手に、しかも一方的なイメージを抱いていただけで、そして勝手に幻滅しただけ。だが、あちらにも当然本性というものがある、常に演技をし続けろというのは、ファンの傲慢だろう。
「お前は薬をやらなくてもよさそうだし、接客も覚えてもらうことになりそうだな」
「なんだよ薬って」
「俺含めて、この島にゃヤバイ奴が居るんだよ。こう、ムラっと来たらバラして満足したくなるんだ。そのムラっと来るのを薬で抑えてる」
なかなか恐ろしい告白に身の危険を感じて、一歩後ずさる。性欲の代償としての殺害衝動ならば、暴力が向けられるのは主に女性だろうが、それが自分に向くと思うと、身体が震えてくる。
「今は薬が効いてるから大丈夫だ」
そうなると、薬が切れてる間は離れているべきか。薬が効いているか、効いてないか、見極めが肝心だ。
「じゃあ厨房は十分見ただろう。今度はプレイルームへ行くぞ」
「プレイルーム……ああ、お楽しみ会場か」
きっとまたおぞましい光景が広がっているのだろうが、ここ以上に異常な光景はもう見られないだろう。この厨房は本来有り得ないものがあったから少しショックが大きかったが、お楽しみの会場はそういう場所だとはじめから予想がついている。家畜の屠殺場に行くのだと考えれば、まだ覚悟もできる。
では、新たな地獄へ足を運ぼう。連れられるままに。