四日目 第八話
映画を見ている途中、部屋に設置されている古典的な置き電話が鳴り響いた。エンジェルに一旦映画を止めてもいいかを尋ね、許可をもらってからリモコンのスイッチを押す。映像と音声の両方が止まり、フィルムの中の時間が止まる。ソファーの上にリモコンを放り投げたらベッド脇の電話機まで歩き、受話器を取って耳障りなベルの音を消し、代わりに耳に当てた受話器から流れる声に意識を傾ける。
「もうすぐディナーの時間だよ。出ておいで」
昼にも効いた不愉快な声。いや、声そのものは低く、歳相応に落ち着いていて、聞いた相手を落ち着かせ。それでいて慈愛も感じさせる、素晴らしいとしか形容できない美声だ。きっと奴の素性を知らない人間がオンライン放送などでそれを聞けば、十人中九人が声を売りにした職業につくことを勧めるだろう。そして顔も……テレビのコメンテーターに居そうなそこそこ整った顔つき。不愉快だが、見てくれは良いのだ。
しかし、その内面を知れば、あの女優と同じくすべてが獲物を安心させ、引い寄せて食らうための疑似餌としか思えなくなる。実際にそうだった。私も奴への第一印象は、ただの大人しそうな老人にしか見えなかった。だが皮を一枚剥がせば、すべてが真逆に感じる。低い声は腹をすかせた肉食獣の唸り声。温厚そうなほほ笑みは、牙をむき出しにし、肉に食らいつく一秒前の顔。たった一枚の化けの皮を剥がすだけで、これほどまでに醜い真実が見えてしまう。私が今生かされているのは、単なる気まぐれ。人間特有の娯楽からである事を、今思い出す。
「わかった」
不快で、恐ろしい。しかし飯を食わなければ人は死ぬ。ならば行くしか無い。了承の返事をして受話器を置く。もちろん壊れないように、そっと。
「夕飯だとさ」
「面白くなってきたところなのだけど」
まるで子供のような物言いに、苦笑いとともに形容しがたい苦しみが胸にこみ上げて、引きつった笑顔になってしまう。この苦しみはきっと、彼女の人格が、あのケダモノの手によって作られたものというのを意識しているから起きるのだろう。意識しなければ楽なのに。
どこにも粗の見つからない、完璧とも言える人間らしさ。これが作り物とは思えないし、信じたくもないが、事実だ。一枚の絵の書かれたキャンパスに白いペンキをぶちまけ、その上に完璧な絵を書いた。おそらく、これ以上非道な行いは存在しないだろう。あったとしても、私の貧弱な想像力ではとても思いつかない。
そしてその一端を、ほかならぬ私が持っている。言い逃れのしようがない、重大な犯罪行為。それが私を苦しめ、同時に救っているのだから、皮肉なことだ。
「どうしたの」
こんな屑に私の罪が声をかける。胸の内の苦しみが増し、表情筋のコントロールがきかなくなり、完全に顔が崩れた。
「や……」
やめてくれ。と言いかけた口を閉じる。彼女を拒絶してはいけない。私にその権利はない。彼女から全てを奪い、都合のいい偶像を押し付け、演じさせている私には。
「いや……なんでもない。ありがとう」
崩れた表情筋を、なれた形に整える。何千回と繰り返し、形を筋肉が憶えているはずなのに、違和感がある。
エンジェルの深海のような蒼い瞳に私の顔が映り込む。口角だけが釣り上がり、とても笑顔とは言えない。どうやら私は、笑顔の作り方まで忘れてしまったらしい。一度顔を背け、手でもみほぐし、いつもの何も考えてない、素の表情に戻す。
「……ならいいわ」
異常に気付かれているのはわかる。しかし、あえて追求せず見て見ぬふりをしてくれる優しさ。それも設定されたもの。そうと考えるだけで吐き気がする。では考えないようにすればいいのではないか、と自問するが、頭のなかの私は即座に「それができれば苦労しない」と、自答した。
しかし、少し話をしただけでこの有様。午前と午後の休憩は一体何だったのか。大火事に対してバケツ一杯の水程度のものでしか無かったのか。きっとそうなのだろう。
「何してるの。行くんじゃないの?」
一人で思考の渦に飲まれていると、不意に意識を現実に引き上げられる。
考えるのは良くないな。正気を削るばかりだ。しかし何も考えず歩いていれば、いずれ地雷を踏む。地雷を踏めば正気どころか命も一度に吹き飛ぶ……案外そのほうが楽かもしれないが、エンジェルを残して死ぬ訳にはいかない。
考えるのも寿命を縮め、考えなくとも寿命は縮む。進むも退くも、立ち止まっても地獄だ。それでも時間は無慈悲に素数だけ。私の意志とは関係なく。
「そうだな」
自分の意志で、部屋を出る。晩飯と言っても、肉さえ食わなければ問題ないはずだ。