三日目 第四話
結局、バター工場の見学、見回りでは、心にそれほど深い傷を負うことはなかった。それはきっと初日に見た光景と、二日目の晩餐のおかげだろう。やはり、あれに比べると衝撃は小さい。
傷を負わなかったことが良い事か悪いことかはともかくとして、今は何事もなかったかのようにパンとスープ、それとサラダを口に運んでいる。鍋に入った手足を見てゲロを吐いていた初日からすれば、かなり大きな変化だろう。これも、良いことか悪いことかはわからない。
自分にとって苦か楽かで良し悪しを判断すれば、これは良い変化だ。島に適応しつつあるならストレスも緩和される。外で培われた良心から判断すれば、悪い変化だ。良心が壊れつつあるということだし。
しかし、この島にいると本当に何が悪くて何が良いのかわからなくなりそうだ。外の常識、法律ではなにもかもが許されないことなのに、ここでは何もかもが許されている。外での悪が、ここでの正義。ならまだ外の常識を捨てられない私は悪なのか。
「何を辛気臭い顔して飯食ってる。こっちの飯までまずくなるだろう」
「すまない。考え事をしてた」
一見すればマトモに見えるこの男も、その内側を見れば外でいうところの悪。この島では正義。助けを求める少女を何の迷いもなく殺してしまえるような、殺人鬼。
「しかし、お前は本当に暗いな。外のルールに縛られずに済むのに、どうしてそんなに暗い顔ができるんだ?」
「そんなにひどい顔か?」
「鏡見るか、自分の顔触ってみろ」
辺りを見ても鏡は無いので、とりあえず自分の顔に触れてみる。触った感じでは、確かにいつもの営業スマイルは剥がれていた。素顔を隠す仮面が剥がれていた。一体いつから仮面が砕けたのかは知らないが、それならもう一度仮面を被り直せばいいだろうと顔に笑顔を貼り付けて、パンをスープと一緒に胃に流し込む。
「ルールに縛られずか。そうだな……外の監獄暮らしが長くて、洗脳されてるんだろう」
常識を洗脳と言い換える。こんな言い換え方は、普通じゃまず出てこないはずだ。つまり、私はもう普通じゃない? いや、そんな事はない。私はまだマトモだ。
「洗脳ね。まあ、ゆっくり慣れろ。そうすればその内解ける。それより肉はどうした。野菜ばっかりじゃないか」
肉、と言われて昨日の夕食が頭をよぎる。味は覚えていない。思い出せない。思い出したくない。
「肉は、今は食おうと思わん」
「人の肉じゃないぞ? 従業員までガキの肉食ってたら、いくら産ませても足りないからな」
「そうだな……」
気を紛らわすために、事情を少し考えてみる。人間は牛や豚、鶏ほど成長のスピードが早くない。何か特別な薬でも使っていない限りかなり時間がかかる。エンジェル位の大きさになるまで、十二年ほどだろうか。一体成長させるのに十年以上。それを日々どれだけ消費しているのかと思うと、嫌気しかしない。
「それでも今は気分じゃない。ところであんたは人肉は好きなのか?」
「あんまり好きじゃないな。女は犯して殺すもんであって、食い物じゃない。牛の赤身のステーキと並べられたら、ステーキを取る」
前半さえ聞かなかったことにすれば、意外とマトモな発言だ。殺人鬼をマトモと言っていいかどうかはともかく。
「大体、俺の好みはあんな小さなガキじゃない。ストレートヘアをセンターで分けた美人だ。ガキを当てられても溜まる一方だ」
「あんたの好みはわかったから、つばを飛ばさないでくれ。サラダにかかる」
被害者《好み》の特徴で思い出した。そういえば、こいつもこいつでなかなか世間を賑わせてた。ニュースで流れてたテロップは、第二のバンディだったか。
思い出して、検索してみる。頭の中身埋められた機械がインターネットに接続して、そのワードで検索。トップに出てきた殺人鬼大百科というなんともそれらしいサイトに目当てをつけて、まばたきを一回。ページが一瞬で表示され、欲しい情報がピックアップされて表示される。
『本名――――被害者の年齢層は十代後半から二十代前半にかけて。髪をセンター分けにした女性ばかりを襲われたため、一時期は街からその髪型が姿を消したほど。被害者を鈍器などで殴って昏倒させた後に強姦、殺人、死姦などを行うのが特徴。また、その犯行から(※)バンディの再来と言われた。素顔はこちら。(※)セオドア・ロバート・バンディ(1946年11月24日 - 1989年1月24日)はアメリカの犯罪者、元死刑囚。電気椅子で処刑された』
画像を注視してまばたきし、拡大表示された画像を目の前の男と重ねあわせる。髪型以外はほぼ一致した。本名と違うのは、この島では犯行の手口から名前が付けられているのだろう。ふと気になって、ロバート・フィッシュで検索してみる。合致なし。ロバート。ロバート、合致、ロバート・ベン……違う。フィッシュ、合致。アルバート・フィッシュ。こっちだ。プロフィールをさっと眺めて、まばたきを三度。ページを閉じる。
「じゃあ、溜まったのはどうやって解消してるんだ」
「最初にあてがわれた娘を一人やってからずっとご無沙汰だ。客に手は出せないしな」
「いくら溜まっても、俺は殺さないでくれよ」
「安心しろ。俺はゲイじゃない」
殺人と性欲が結びついているのは、やはり異常だ。これと比べれば私はまだマトモだ、そう確信できた。
「そういうお前こそ、腹がたったからって俺を殺すなよ。いくら退屈でも、死ぬのは御免だ」
「余程のことがない限り大丈夫だ」
昨日の夕食の件。エンジェルの件。人肉料理の提供。既に三つほど重犯罪を犯している。その中身と数からしたら、内二つは強制された事とはいえ、裁判で下される判決はまず死刑以外にないだろう。その点については私もこいつらと同類。違うのは、その行為に罪悪感を抱くかどうか。そこが正気と狂気の境界線になる。