二日目 第五話
午後七時。この島に来る前は、仕事も終わって家に帰り、夕食の支度を始めている時間。
この島に来て二日目のこの時間は、エンジェルを連れに、一度部屋に戻る事に使っている。自室の前に立ち、ノックを三度。ゆっくりとした間隔の、小さな足音が奥から聞こえてきて、やがて扉一枚を隔てた向こう側で止まる。
「どちら様?」
襲われないためにどうしろとは一言も言っていないが、ちゃんと自分の身を守るための行動は取れるらしい。
「私だ」
「そう言って開けさせようとしたのが三人居たけれど。これで四人目ね。一応聞いておくけど、あなたは誰?」
なんとまあ、それほどエンジェルを襲おうとした奴が居たのか。それともそれだけしか居なかったと言うべきか。猟奇殺人犯ばかり集めた島で、その人数は多いのか少ないのか。まあ、外の常識で考えれば一人でも異常といえるだろう。あの料理長は比較的マトモに見えたから、連中にも常識があるのかと思った矢先にこれだ。
「身元不明の成人男性の遺体。短く言うならジョン・ドゥ」
「死人が声を上げるものかしら」
「B級ホラー映画ならよくある事だ」
「ならこの島は何級ホラーかしら」
「さあな。それを決めるのは俳優じゃなくて観客だ」
ちょうど昼間に話をしたあの女優のことを思い出し、まるで狙ったかのような話の流れにくすりと笑う。彼女が出演するだけで、どれほどB級映画によくあるような脚本でもA級の売上になるとまで言われているが。この島はどうだろう。もし帰れたとして、この島の事を本にしたらどれほどの売上が見込めるだろうか。
「その喋り方。間違いないわね」
まず帰れないし、この島の客のことだ。出版以前に原稿の時点で握りつぶされた上で消されるのがオチだろう。そう思っていると、いきなり目の前でドアが開かれた。
「おかえりなさい」
その隙間から、少女が顔を覗かせ、気丈な性格を表しているかのような鋭い目で私を見上げる。
「ただいま……というのはちょっと違うと思うんだが。ただいま」
ここは私の家じゃないし、帰るべき場所でもない。迎えてくれる相手も、恋人じゃないし家族でもない。私の犯した罪の被害者。本当、この島は私自身を含めて何から何まで異常しかない。
ともかく、いつまでも部屋の前で突っ立っているわけにもいかないので開かれた扉をさらに開け、部屋の中へと入っていく。奥に入ると、彼女は今朝使っていたベッドの端に座り、私はガラスの天板が載せられたテーブルの前のソファに座る。部屋の中は朝出て行った時とほぼ変わらず、変わっているのはベッドシーツの皺と、テーブルの上に置かれたテレビのリモコンの位置くらいか。およそ生活感というものが全く感じられない。
「碌な娯楽の一つもないから、退屈で死にそうだったわ。だからと言って外を出歩けば殺人鬼に襲われるし。ずっとそのベッドで寝てたの」
「そうか」
確かに、この部屋の中におよそ娯楽といえるような物はテレビ以外に存在しない。そう言っても、アレ一つで過去百年以上に渡って上映されてきた映画、ドラマのほとんどが見られるのだし。娯楽がない訳でもないだろう。
使い方がわからなかったのだろうか。まさか、いくらなんでもそれはあるまい。膨大なコンテンツの中から、自分の好みにあった作品を探すのが面倒だったのだろう。
「だから、何か話を聞かせなさい」
「童話でいいなら」
「本当は仕事の話がいいのだけれど。まあ、それでもいいわ。何を話してくれるの」
「青髭」
「……」
無言で枕を掴み、投げられる。片手を上げて受け止め、床に落ちないようにしっかりと両手で持つ。
「冗談だ。そんなに睨まないでくれ」
冗談半分、本気半分で言ったのだが、激しい抗議の視線を向けられたので冗談として取り下げる。しかしこの島で青髭の話をするのは、あまり冗談にならないな。もう少し考えてから話せばよかった。反省しよう。
「もう一度聞くわ。何を話してくれるの」
「そう言われても、何を話したものか」
今日あったことといえば、気の狂った連中の相手をして疲れた位。そのくせ社会的地位は揃って高いから、前の生活の名残で変に気を使わされるせいで、余計に疲れた。
そんな客の中でも特に印象に残るのが、あの女優。取るに足らないはずの私を目にかけ、わざわざ休憩中に声をかけてきた。それは私が以前は彼女のファンだった事を除いても、印象を残すには十分過ぎる。
「使えない男ね」
「いや。一つだけ。多分あまりおもしろくないと思うが、話せるような事がある」
話したとして、エンジェルを満足させられるような話かどうか。きっと無理だ。当事者にとっては驚くべき出来事であっても、第三者にとってはつまらない話。それでも何も喋らないよりかはマシだろう。
ギブアンドテイク。外の常識を持った人間と接することで正気を保つ。その対価に、彼女の要望に応える。罪滅ぼしの意味もあるが。
「話しなさい」
話す前に、カップに水を注いで一口煽り、口の中を湿らせる。そう長い話にはならない。短くまとめれば二、三言で終わるような中身だ。改めて振り返れば、とてもつまらない。それでも彼女が聞きたいというのなら、話さねばならない。
「客の中に、前はファンだった女優が居た」
「それで?」
「接客中は他のイカれた連中と同じように見えるように演技してたんだが。勿論失礼のない程度にな。その演技を見破ったその女優が、休憩時間中にわざわざ店の裏に来て、話しかけてきた」
そこで一度言葉を切って、エンジェルの反応を見てみる。ただ聞いているだけで、楽しんでいるようには見えない。やはりつまらない話だったか。
「それだけ?」
「それから少しだけ話しをして、何故か演技の指導をしてくれるという話になった」
「受けたの?」
「いや。受けなかった」
「どうして」
「今のところ、騙さなきゃならない相手は騙せているからこれ以上演技の技術は必要ない。相手が演技指導を餌に私を食おうとしていると思ったから。狂人に付き合って、こっちまで頭がおかしくなるのは避けたかったから。理由はこの三つだ」
極めてマトモな理由だと思うが、彼女はどう思うだろう。先程から変わらない表情を見れば、簡単に察することができる。
「はぁ……」
ため息。
「本当、つまらないわ」
「だから前置きをしただろう。面白くないと」
「そういう前振りをされるほど、期待するものよ」
こんな私に何を期待するのやら。平均的な人生から不運の底に転げ落ちただけの男に。
「でも暇つぶしにはなったわ。だから許してあげる」
「それはどうも」
どうやら許してもらえたらしいので、ソファから枕を持ったまま立ち上がり、彼女の座るベッドに近寄る。私の動きを警戒して見つめる彼女を横目に、投げつけられた枕を元あった場所に戻す。
「そろそろ夕食の時間だ。行こう」
連れて行こうと手を差し伸べても、やはり合いの手は出されない。苦笑いしながら手を引っ込め、先に部屋から出ていく。その後を追って彼女もカードキーを持って部屋から出てくる。
「また案内が必要かしら」
「さすがに朝行ったばかりだ。忘れちゃいない」
私がそう言っても、彼女は華奢な足。大人に比べれば狭い歩幅を早足で動かし、私の先を歩く。その後ろを、私はいつもより歩幅を狭めて。さらにいつもよりも少し遅めのペースでついていく。それでようやく付かず離れずだ。朝と同じように、彼女が前で私が後ろ。その立ち位置で、一定の距離を保ちながら食堂へと歩いて行く。