第1話
波の音で意識が水の底から引き上げられる。眼を開くと雲ひとつ無い空の奥から、太陽の光が眼球を突き刺してきた。痛みすら感じる眩しさに耐えられず、目を細め手をかざして、水を吸った服で重くなった体をゆっくりと、起こす。
痛む頭を抑えて、ここはどこだろうかと脳内のGPSを起動する。しかし頭の中の地球儀は、太平洋の中心の何もない場所にピンが立つだけで、現在地を教えてくれることはなかった。ならば、何か位置を知る手がかりでも無いかとあたりを見渡す。
ゴミ一つ落ちていない真っ白な砂浜がとても長く続いて。正面を見れば海底が透けて見えるほど青い海が地平線まで続き。上を見れば宇宙の果てまで見渡せそうなほど澄んだ、雲ひとつ無い青空。後ろを向けば緑の美しい平らな野原。そして私を観察するように囲む、裸の少女が幾人か。
なるほど。ここは天国か。
一瞬だけ、そう思った。確かイスラム教における天国では、決して酔う事のない酒と好みの肉、いくら採っても尽きることのない果実を与えられ、美しい処女達に囲まれて永遠の時を過ごすというが。果たして私は、その資格があったのだろうか? 有り得ない。私は敬虔なムスリムでもなければ偉大な事を成し遂げた聖人でもない。悟りを開いた者でもない。宗教的な物言いをすれば、俗世に塗れ、欲に溺れた言わば俗物。日々上司に怒鳴られながら仕事をし、給金をもらい日々の糧を買い、酒と肉を食らい、休日は一日を寝て過ごす。極めて怠惰かつ一般的な社会人だった。そんな私が天国に居るなど。
では、この状況は何なのか。水を吸って重くなった服、張り付いた砂の不快感、乾いていく塩の香り。美しい風景と、美しい少女たち。少なくとも私が知識として知っている地獄ではない。地獄はもっと苦しく、醜く、恐ろしい所だ。そして天国でも地獄でもないとなれば、消去法でここは現実。生者の世界ということになる。顔の向きを上から下に。視線を空から地上の少女たちに戻す。
裸のまま、本来ならば衣服で秘され。そうでないとしても他人には見られるべきではない秘すべき場所を隠そうともせず、生まれたままの姿で向けられる、穢れを知らない無垢な視線。耐えられず、思わず目を背ける。しかし、逸らしたその先にも無垢な目が。彼女らを視界に入れないことは、諦めた。ここが英語圏であることを祈って。祈りを吐き出すように、言葉を吐く。ここはどこだ、と。やはり返事はない。端から希望など持っていなかったが、それでも気を落とさずにいられない。
久々に得られた長期休暇で調子に乗って、旅行へ出ようとなどと思い立つのではなかった。いつも通り家で寢るか、酒を飲むかしていれば、こんなことには。
後悔に目を伏せていると、不意に手を引かれる。華奢な見た目からは想像できない力強さと、意識が戻ったばかりで未だ覚束ない足取り。それに加え、足元は砂浜。驚くほど簡単にバランスを崩して無様に顔から地面に倒れ、今度は水ではなく砂に溺れる。
すぐに起き上がり、口に入った砂を吐き出して、顔についた砂を払い落とす。少女たちの心配するような目線を受け、大丈夫だと笑顔を返す。それからまた手を引かれるままに、少女に野原の方へと連れられる。しばらく歩く内に、状況は飲み込めないが少しずつ落ち着いてきた。そしてこの島の自然に僅かな違和感を抱き、観察してみる。
遠くに見える山はともかく、辺りの野原はやけに起伏に乏しく、稀に遠くへ地面から突き出た岩が見える癖に、裸足で踏みしめる柔らかな土には小石さえなく。パズルのピースから絵の全体像を想像するように、この島が自然に出来た物でない可能性を思いつく。今のところ目にした「人間」が低年齢の少女ばかりというのも、そういう目的のために作られた島であれば納得がいく。
運悪く新品の個人用飛翔機が太平洋のど真ん中で故障して墜落して、運良く死を免れたと思ったら、実はやはり運が悪かったらしい。
「ー! ー!!」
遠くを指差し、何かを伝えようと声を上げる少女。仕事で自動翻訳機片手に西へ東へと駆け回っていたが、それがなければ平凡な学歴しか持たない私に挨拶以外の異国の言葉を理解できるはずもない。
だがジェスチャーでなんとなく「あっちを見ろ」と言われているのだろうと推察し、指差された方向を向いて、よく目を凝らす。直線距離にしていくらほどだろうか。ここから見ると極めて小さな、それこそ豆粒ほどのサイズの灰色の建築物らしいものがあった。遠くにあるからそう見えるだけで、近寄ればそれなりの大きさなのだろうが。
原始的な格好の少女たちに、近代的……と言っていいのかどうかはわからないが、とにかく人工的な建物と、今のところ見るのは少女のみ。この状況に、あまりいい予感はしない。少女性愛者ならば諸手を上げて喜ぶところなのだろうが、残念ながら私にはその気はないし、あったとしてもこの状況を楽しむ余裕まではない。
それからさらにしばらく、手を引かれるまま早足で歩く。時間にして大体十分程度。距離にして一キロかそこら。遠くに見えていた灰色の建築物はもう目の前にあり、彼女は目的とする場所に辿り着いたのか足を止め、今度は私の後ろにまわって背中を押す。私は碌に抵抗もせず、今度は押されるままに建物の中へと入る。悪い予感はどんどん増していくが、他に選択肢もない。
太陽光が降り注ぐ眩しいほど明るい外から、目にやさしい人工的な光で満たされた空間。その中身を見た瞬間に、あまりの衝撃で思考が消し飛び、立ちすくむ。一分間ほどの間を置いて、見覚えのある光景にここがどういう施設なのか、どういう島なのかを確信した。
「……ああ、神よ」
餌やり用の機械に、餌を求めて集る獣達。その獣が豚や牛、鶏などの家畜であれば、それは異常ではない。全く正常なことで、ショックを受けることもないだろう。だが今私の前にいる獣達は、本来ならば可愛らしい服を着て、皿に盛りつけられた料理をナイフとフォーク、あるいはスプーンでお上品に食べるのがお似合いのはずの少女たち。そうでなくとも、パンを食べるのならば手で持って食べるのも良しだろう。だがそれらは機械から吐出される餌に一切の羞恥心を持たず、顔を突っ込んで家畜のように食らう。否、家畜のようにではない。家畜そのものだ。神より霊長に与えられた偉大なる道具、手を使わない時点で、猿にすら劣る。私はこれをヒトとは認識できない、脳が認識を拒否している。これはヒトの形をした獣だと、そう認識する。そうでもしなければ正気を保てない。
SF小説でもそうそう見ないような光景に衝撃を受け、目眩がしてきたので建物の外へ出て、壁に寄りかかって、地面に腰を落とす。
「……クソッタレ」
今まで多少だらけてはいたが、それでも普通に生きてきた。酒を飲んで、うまい飯を食って、そんな普通の生活が送ることができればそれでよかった。刺激なんてこれっぽっちも求めていなかった。ただ息抜きに、美しい景色を眺めて癒やされようと旅行に出ただけ。どんな人間でもその位思いつくだろう。それを思いついて、実行することのどこがいけなかったのか。咎められることなど何一つ無いはずだ。
自分の身に降りかかる理不尽を悲しみ、足を抱えてうずくまること数分。今の時代ではなかなか耳にすることのない、ヘリのローター音が聞こえてきた。空を見上げれば太陽が眩く輝き、海のような青いキャンパスを雲の白が彩る中、黒い粒が徐々に大きく、近寄ってくる。どうやら牧場の主か、その使者が自分の持つ家畜に近寄る獣を見つけて様子を見に来たようだ。せめて牧場の主が、二重の意味で話の通じる人間であることを願うが、こんな異常な環境の主がマトモであるはずがない。虎の子が居る穴の主が虎でないことを期待するのと同じく、そんな願いを抱くのは愚かでしか無い。
ヘリが徐々に高度を下げて、暴風をまき散らしながら降りてくる。風で舞い上げられた砂や草から顔を守るために、手で顔を覆い。わずかに開いた指の隙間から着陸するヘリを観察する。果たして、何を持って降りてくるのか。獣を狩るならライフルか散弾銃が妥当な所。話も聞かずに機関銃で蜂の巣にされるのなら、それもまた良し。こんな現世の地獄に居るくらいなら、本物の地獄へ送られるほうがまだショックが小さい。
自棄になった思考をしていると、ヘリの足が完全に地面について、風も少しずつ和らぎだす。隙間から覗く景色の中でドアが開く。一体どんな凶悪な人相の人間が出てくるのかと、待ちわびる。
「なあテッド、こいつはお客さんに見えるかい?」
ヘリのローターが風を切る騒音の中張り上げられた、聞き覚えのある言語。その言葉を話すのはどこかで見たことのあるような顔をした色男だった。
「水着を買う金もないような貧乏人がこの島に遊びに来るかよ」
「全くだ! それじゃこの貧相なオッサンは、近所で墜落した飛翔機のパイロットってことだな。よりによってこんな島にたどり着くなんて、運がいいんだか悪いんだか」
ライフル銃を持った二人の男が、私を嘲りながらこちらに近寄ってくる。どうやらすぐに撃ち殺されるということはないようだ。ひとまずは命が助かったことに安堵し、胸を撫で下ろす。
「立て」
銃は向けられないが、銃を持っている相手に反対するつもりはない。そうでなくとも、今は疲れきっていて反対する気力など残っているはずがない。
「乗れ」
言われるままに、強風に逆らって風の発生源へと歩いて、段差を上ってヘリに乗り込む。その後すぐに銃を持った二人組も乗り込んで機体が上昇を始める。一体私はこの地獄からどこへ連れて行かれるのだろう。
そんなのは決まっている。地球の中をどれほど移動したとしてもそこは地球なように、地獄の中をどれほど移動したとしても、そこは地獄だ。