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20:00。
僕は源介とリリィと、ススキノのオーセンティックな老舗バー『島崎』に来ていた。
店内は白熱灯の丸く穏やかな明かりに照らされ、真空管アンプか奏でる静かなビバップが、大人の落ち着いた雰囲気を作り出している。僕達はボックス席を希望した。壁に飾られた古い花柄のタペストリーと、年季の入ったチーク材のテーブルが僕達を迎えてくれた。
僕達はベルギーのトラピストビールである、青いラベルのシメイブルーでお疲れ様の乾杯をした。僕とリリィはグラスに注ぎ、源介はチャームのカシューナッツを一口かじってから、330ml瓶をそのままラッパ飲みした。
グラスに注がれたシメイブルーは、国産のビールと違ってやや茶色い。泡が予想以上に多く立つ。一口飲んでみると、チョコレートのような甘さが感じられるにも関わらず、同時に苦味も非常に強い。それでいてさらりとしたみずみずしさもあり、何とも不思議な感覚だ。麦の濃厚な香りが鼻を抜けた瞬間に、早くも軽い酔いの兆しを感じて、急いで瓶のラベルを確認する。何と、ビールなのにアルコールが九パーセントもある。
「オト、ゆっくり飲めよ」
源介が、うろたえる僕を見て笑ってそう言った。気をつけないと、すぐに酔っ払ってしまいそうだ。
「たまに飲むとおいしいよね〜。でも、あたしはサッポロの方がいいや」
「俺も夏ならサッポロのクラシックか、キリンのラガーがいいけどな」
サッポロのクラシックは、北海道限定のビールだ。黒ラベルよりも口当たりが爽やかで、飲みやすい印象がある。僕はあまりビールは飲まない方だが、飲むならサッポロのラガーが好みだ。ラガーと言えばキリンのイメージがあるが、サッポロにもラガーはある。赤い星のラベルが目印のビールなのだが、なかなか売っていない。このバーにも置いていないようだ。
ビールは、ジョッキで飲むのは好きではない。途中でぬるくなるし、量が多過ぎて腹が膨れてしまう。瓶から冷えた小さなグラスに注いで飲むのが、贅沢な感じがして好きだ。
「オト、お疲れさんだったな。よくやった」
源介が、僕が急いで作った仮の調査報告書を見ながらそう言ってくれた。今日は早朝からハルのコーカク、バカ共の撃退、変質者の襲撃、そして不思議な超能力と色々あり過ぎたせいで、クタクタに疲れていた。
「初日でツラ割れちゃうとか、ショックです」
「仕方ないじゃん。あんたにしては良い判断。ナンパから助けなかったら、もしかしたらハルちゃん今頃は危ない目にあってたかもだし。仲良くなって、情報もたくさん引き出してくれたし」
リリィも、僕の判断を認めてくれた。
「森本さんにも、さっき電話で簡単に状況は報告した。かなりガッカリしてた。で、森本さんからの頼みなんだが、ハルお嬢様の夜のバイトを、早速辞めさせて欲しいってんだな」
僕達が受注した京子からの依頼には、ハルの非行を阻止するということも含まれている。
「もちろんそういう契約でしたが、それは親である京子さんが本当はやるべきなんじゃないですかね……」
僕はつい愚痴ってしまった。京子は、ハルに対して甘いのではないか。かわいい孫娘から嫌われてしまうのではないかと、強く言うべきことを言えずにいるのではないか。我が子の学問以外の人間としての教育を、金を払って他人に任せるなんて、どうなんだろう。
「確かにそうだが、そうすると、森本さんが探偵を雇って調べてたことがハルお嬢様にバレちゃうからな」
「それはそうですけど……」
「それでだ。おまえの調査によると、ハルお嬢様は評判の良い我が社に仕事を頼みたくて、それで頑張ってお小遣いを貯めようとして、背伸びしてニュークラなんかで働き出したわけだな?」
「そう言ってました」
「じゃあ、オト。おまえ、浜田探偵事務所の調査員やってるってバラしちまえ。そんで、ハルお嬢様の依頼を受けろ」
「はぁ?何言い出すんですか!?」
「無償で君の依頼を受けてあげると、ハルお嬢様にそう言え。ヒーローのようにな。その代わり、水商売のバイトは辞めて、しっかり学校に通うと約束させろ」
なるほど。京子の依頼を完遂させる為に、ハルの依頼を受ける、と言うことか。
「ハルお嬢様の素行調査もできて、非行も止めることができる。一石二鳥だろ」
良い考えだが、果たして彼女は素直にこの交換条件を飲むだろうか。
「まぁ、わかりました。うまくやってみます。それと、報告書には書いてないことがあるんです。書けないって言うか……」
「何だ?」
「今から話すことは、源介さんとリリィさんだから話します。京子さんには、恐らく話せないこと。話したところで、信じてもらえないと思うことです」
僕は、ハルの持つ不思議な超能力のことを話した。源介もリリィも、最初は笑っていたが、僕が大真面目に話す様子と、話のリアルさから考えて、理解したらしい。
「まぁ、去年の俺達のことを考えたら、別に驚かねえな。いや驚くけど。そういう人もいるんだなって感じだな。有り得ないこととは、思わない」
「すごいね。手を触れないで、男の子を元気にできちゃうなんて」
「風俗で働いたら、すげぇ稼げそうだな。いや冗談だけどよ」
「そんな平和なもんじゃないですよ、あの能力は。あの子は、あの能力を使って悪さをすることもできてしまう。いずれトラブルを引き起こしてしまいそうで、心配です」
「そんな危ねえのか。森本さんは、知ってるのかな。まあ、こんな話、知ってましたか?なんて聞けねえな」
京子は、ハルの超能力について知っているのだろうか。
「ところで、後半の、ハルお嬢様のご学友が襲われた件。大丈夫だったのか?」
「被害にあった女の子は幸いケガもなく、ハルちゃんと無事に帰って行きました。びっくりしましたけどね」
「最近、市内のあっちこっちで起きてるらしいな。パンツ強盗。追い剥ぎって呼ばれてんだっけか」
「パンツだけ盗むとか、マジで変態だよね。キモい!」
そう言うリリィは、普段どんなパンツを履いているのだろうか。女性物なのか、男性物なのか。女性物だとしたら、はみ出すのではないか。妄想が暴走する。僕はシメイブルーを一気にあおり、冷静になろうと努力した。
「パンツなんて集めて、どうするんでしょうね?」
「純粋に変態なら、それをコレクションして飾って眺めたり、臭いを嗅いでみたり、口に含んで舌の上で転がしてみたりするんだろうけどな」
「ソムリエかよ」
リリィは身震いしながら突っ込んだ。
「ソムリエならわかる。いや嘘だわかんねえけど。本当にパンツが好きなんだろう。そうじゃなくて、商品として売ってることも考えられるな」
顔を歪めた僕とリリィに向かって、源介は続けた。
「昔流行ったブルセラショップとか聞いたことがあるだろ。女子高生の使用済みの下着とかをキモい男に売るんだ。今でも、札幌にも水面下で商売してるところはある」
何となくそういう店が世の中に存在することは知っていたが、札幌にも現存していることは知らなかった。
それにしても、色んな性癖があるにせよ、汚れた下着に執着する気持ちは、僕にはあまり理解できない。
源介はブルセラ業界について語ってくれた。
ブルセラとは、ブルマとセーラー服から文字を取ったスラングである。ブルセラショップと聞けば、お小遣いを欲しがる女子高生から制服や下着を買い付け、それを店頭で変態男に利益を乗せて販売するものだとイメージしたが、最近は実はもっと複雑らしい。
例えば、店頭で「女子高生の使用済み」と銘打ってパンツを販売したとしても、本当に女子高生が履いていたものなのか、証明することは難しい。もしかしたら、安い新品の下着を大量に買って来て、流れ作業のように脂ぎったオッサンが履いては脱ぎを繰り返し、生々しい臭いをつけて量産している危険性もあるわけだ。
そんな詐欺を警戒したユーザーは、リアリティを強く求めるようになる。そこで、『生脱ぎ』というスタイルの需要が一気に高まった。ユーザーの目の前で、女子高生に下着を脱いで手渡してもらい、直接対価を支払う商法だ。これならば、ユーザーは正真正銘の使用済みを手に入れることができる。使用していた主の顔も直に確認できることは、より強い興奮を得ることにも繋がるだろう。
だがそれでは、個人間のやり取りになってしまい、ショップの存在意義がなくなってしまう。では、ショップは何をするのか。ユーザーと女子高生との商談の場を斡旋する、ブローカーの役割を果たすのだ。女子高生がユーザーから得た下着の代金の何割かを、ショップはマージンとして受け取る。この業態であれば、わざわざ店舗を構えたり、在庫を抱えたりする必要もないので、商売のリスクも少ない。
「はぁ〜……」
「うへ〜……」
僕は、妙に関心してしまった。リリィは呆れている。
「で、だ。オト、おまえなら、笑顔で脱いで手渡されたパンツと、泣きながら剥ぎ取られたパンツ、どっちに興奮する?どちらも超絶かわいい女子高生、脱ぎたてホヤホヤの新鮮なパンツだ」
この男は何を言い出すのか。リリィが眉をひそめた。
「どっちも嫌です!!」
「いいから考えろ!仮におまえがパンツソムリエだったとしたらだ!」
仕方なく真剣に考える。どっちだ?
「えーと。難しいですが。笑顔で脱いでくれる人だったら、何というか、苦労がない感じがします。後者ですかね」
「オト、キモい!!」
リリィが軽蔑した。
「違いますって!強いて選ぶなら、です!」
「そう言うことだ。嫌がる女から強奪された下着。それには、一部のコアな需要があるんだ」
「追い剥ぎは、その需要に応える商品を得る為に、犯行を繰り返しているってことですか?」
「まぁ、俺の思い付いた仮説だけどな」
もし源介の推理が当たっていたとしたら、キヨミのパンツは今頃、商品としてどこかで取り引きされている、と言うことになる。
ハルがそのことを知ったら、ますます憤るだろう。無理だと思うが、ハルは正義感を燃やし、追い剥ぎを捕まえたがっていた。このことは、ハルには話さない方が良さそうだ。余計に彼女を突き動かす燃料になりかねない。