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16:00。
僕は横山音栄、27歳。通称『オト』。
札幌市中央区、ススキノのすぐ北東に位置する北海道最古のアーケード商店街、狸小路の外れにある、浜田探偵事務所で調査員をしている。と言っても、昨年の夏くらいからここで働き始めたので、探偵としての経験はまだ浅い。それ以前は、大学を中退してからずっとニートをしていた。
ニート時代は太っていたが、昨年から習い初めたキックボクシングのおかげなのか、最近はようやく標準体型までシェイプアップされてきた。
別にウチは髪型も服装も自由なのだが、今月に入ってからは、僕はスーツで事務所に出勤している。その理由は三つある。
一つ目は、ニート時代には無縁だったスーツを着てネクタイをすることで、過去の自分と決別できるような、そんな気持ちの切り替えのスイッチと言えばよいのか、儀式と言えばよいのか。とにかく、勇ましく変われる気がするのである。
二つ目は、ダイエットが成功した暁には、その証としてではないが、どうしても細身のスーツを着て歩いて見たかったのだ。全国チェーンのツープライススーツショップで買った、三万円ちょっとの安いぶら下がりスリーピース・スーツではあるが、『スキニーモデル』と呼ばれる極端なまでに細いシルエットの製品で、これを着ることが出来たのが嬉しかった。
そして、三つ目の理由。
「だぁぁぁ!ウゼェ!腹立つ!」
「やったー!七連勝!」
事務所内の応接スペースにある42型テレビの前で、我が探偵事務所の所長、浜田源介がゲーム機のコントローラーを放り投げる。その横で、僕の先輩調査員でありキックボクシングの師匠でもあるリリィが、満面の笑みを浮かべている。二人が熱中しているのは、任天堂の人気ゲームキャラクター達が大乱闘を繰り広げる、対戦型ゲームらしい。
「リリィ!頼む。もう一回!」
「あんたそれ何回言うのさ。もう十分でしょ!約束の樋口一葉よこせ!」
源介は、シルバーアッシュのショートウルフに、黒のライダースジャケット、古着のTシャツ、ダメージジーンズ。体中にゴツいシルバーアクセサリーを多数身に付けている。
リリィは、艶のある黒ストレートロングの髪をアップスタイルにし、前髪は正面部分を真一文字に切り揃え、両サイドは顎下程まで伸ばしている。ピンクのニットに、デニムのサスペンダー付きハイウエストパンツという格好だ。
この二人は、僕と同い年である。
「の、野口なら!」
「ふざけんな!セコい!自分から樋口賭けるって言ったんでしょ!男なら約束守んなさいよ!」
僕がスーツを着ようと思った三つ目の理由だが、誰か一人くらいスーツを着ていなくては、ここは探偵事務所としての体裁を保てないのではないかと、いよいよ心配になってきたからである。
「あの、時間。そろそろ面談ですよ。予約。もうゲーム片付けましょうよ……」
僕は、ため息混じりにそう言った。
「うぉっ!マジか?もうそんな時間?」
「おい!逃げんなよ!面談の後で払ってもらうからね!」
源介とリリィは慌ててゲーム機を片付け始める。僕はキッチンに向かい、コーヒーメーカーに来客用のマンデリンをセットした。
源介は、トレードマークのライダースジャケットから、世間では革ジャンの源介、略して『革ゲン』と呼ばれている。
見た目は誰がどう見てもカタギではないのだが、ああ見えて実は頭がキレる。20代前半の若さで私立探偵として起業し、正規の探偵業の他にも頼まれれば様々な仕事をこなし、札幌の何でも屋、便利屋としてこの事務所を繁盛させている。時には法的にグレー、極稀に報酬次第ではブラックなこともやりかねない。
リリィは、街を歩けば誰もが目を奪われる程の美人だが、実は男である。もちろん本名ではない。控えめだがちゃんと胸もあり、ややハスキーな程度の魅力的な女性の声で話す。正確には、『インターセックス』と呼ばれる男性と女性、両方の特性を持つ第三の性別であるらしく、このことはデリケートな話であるので、詳しいことは僕もまだあまり聞けていない。見た目からは想像出来ないが、キックボクシングの達人であり、僕は週に二度、彼女からキックボクシングを教わっている。
この事務所は、古い資材倉庫をリノベーションした建物で、シャッターがあった部分がガラス扉の入り口になっている。入り口から応接スペースまではコンクリートの土間なので、来客は靴を脱がずにそのまま入って来れる作りになっている。
ガラス扉ごしに年配の女性が、コートについた雪を払いながら近付いて来るのが見える。今日の予約の客に違いない。
「ごめんください……まぁ!」
女性はガラス扉を引いて中に入って来ると、驚いた笑顔で事務所内を見回した。源介が趣味で集めて来たサブカル志向な雑貨やインテリア達が、探偵事務所らしからぬ雰囲気を醸し出しているからだろう。
「いらっしゃいませ。お待ちしておりました。上着をお預かりします。どうぞこちらへ」
出迎えたリリィが女性を応接スペースに案内し、ソファーをすすめた。もう仕事モードに切り替わっている。
「失礼します」
僕は、コーヒーカップを女性の前に、音を立てないように、そしてこぼさないように、慎重に置いた。
「ありがと、何だか賑やかで素敵な所ね」
老婆と呼ぶのは失礼な気がする。若々しさを保っているが、年齢は70代くらいだろうか。身に付けている衣服やアクセサリーは、決して派手派手しくはないが、相応に高価なもののように見える。顔は、堀りが深く鼻も高い。瞳が少し茶色だ。ハーフなのだろうか。栗色の髪も、染めているのではなく、もしかしたら地毛なのかも知れない。気品のある貴婦人と言った感じだ。
「賑やかさが売りですから。寒くありませんか?」
こういう社交辞令の応答であったり、気遣いであったり、僕はニート時代に比べて、幾分マシに話せるようになったと思う。
「暖かいわ。この古い形の灯油ストーブも、懐かしいわね」
「森本さん、いらっしゃいませ。お待たせいたしました。先日お電話いただいた、浜田です。今日はよろしくお願いいたします」
源介は、女性と向かいあってソファーに腰を下ろした。僕とリリィも、テーブル横のソファーに座った。
「森本京子と申します。革ゲンさんね。お噂はよく伺ってます。お会いできて光栄だわ。こちらこそ、どうかよろしくお願いしますね」
自分より遥かに年下で、ビジネス要素の欠片も見えない源介に対して、笑顔で「光栄です」と敬意を払えるこの森本京子という女性は、とても好感が持てる。絶対に育ちの良い人だ。どこかの社長夫人とかだったりするのだろうか。
「それで、森本さん。今回のご依頼ですが。お孫さんの、素行調査でしたね。詳しくお聞かせ願えますか?」
素行調査と聞いて、僕の胸は高鳴った。
素行調査では、必ず行動確認、略してコーカクが行われる。つまり、尾行のことだ。対象者を尾行し、期間内の行動を詳しく調べ、依頼人へ報告する。当然、浮気調査などでも同じように行われる。僕は、コーカクが一番好きな仕事なのだ。
しかし、まだ僕がやらせてもらえると決まったわけではない。調査員の誰を起用するかは、源介の裁量による。案件の難易度や、調査員の向き不向き、スケジュール、依頼の消化状況などで判断される。調査員は僕とリリィの他にも数名いる。
「私の高校生の孫娘を数日間、見張って欲しいの。そして、何をしているのかを教えてちょうだい。万が一、孫が危ないことをしていたら、やめさせても欲しいわね」
「行動をただ見ているだけでなく、危険なことをしているようなら、それを阻止するってことですね。学生の非行と言えば、え〜と、ないとは思いますが、ま、例えばですけど。万引きとか、飲酒喫煙……」
源介は、京子に気を使って言葉を選んでいる。万引きや未成年の飲酒喫煙など、確かに犯罪ではあるが、かわいいものである。本音は、女子高生なら、売春やドラッグと言いたいだろう。昨年、とある事件に巻き込まれた時は、高校生とドラッグのオンパレードで辟易した。
「そうそう、そういうことね。悪い仲間と集まってとか、ねぇ」
「まぁ、例えばの話ですから。お孫さんは、何年生ですか?お写真とかは?」
「孫娘はね、今年で17、二年生ね。名前は、ハルってのよ。字は季節の春、一文字ね。生まれつき、髪と目の色が変わってるの」
京子は、そう言いながら、手帳に挟んであった孫娘の写真を見せてくれた。
「へぇー!」
「えっ、すっごい綺麗」
源介が、本気で驚いた。リリィも目を丸くして覗き込んでいる。
「見ての通り、目立つ子なのよ。だから、他の人よりは、探偵さんとしても調べやすいかも知れないわ」
写真は、椅子に座った京子の隣にハルが制服を着て立っている、フォトスタジオで撮影されたと思われる写真だった。何かの記念撮影だろうか。
ブロンドの直毛ショートボブに、写真でもわかる鮮やかな碧眼。最初はコスプレか何かかと錯覚しそうになったが、よく見ると、その髪と目の色は極自然なものであるとわかる。しかし目鼻立ちは、京子のように欧米的ではなく、今時の日本人の美少女と言った感じだ。体型は、顔が小さく足が長く、モデルのように整っている。座った京子と比較すると、もしかしたら170cm近くあるかも知れない。
この子をコーカクしようと言うのか。僕は、このハルの不思議で個性的な容姿を見て、一体どんな子なのか気になり始めた。