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「ちょっと、ハル!起きなよ!」


 キヨミは、心配して小声で言った。しかし、まだ一限目であるというのに、左隣の席のハルは、だらしなく机に突っ伏したまま、静かに寝息を立てている。キヨミは大きく溜息をついて、黒板に向き直った。いつものことなのだ。


 札幌市北区と、そのさらに北にある石狩(いしかり)市との境目にある、私立北壟(ほくろう)高等学校。

 北海道内では有数の進学校に分類される男女共学のこの学校は、他校と比べ非常に校則が厳しいことで有名である。頭髪を染めたり、制服を着崩している生徒はまずいない。女子生徒のスカートの丈も、膝下を徹底されていた。

 しかし、それはあくまで校内だけの縛りであって、いざ学校の敷地を出てしまえば、生徒指導の目も届かなくなる。どの生徒もやはり今時の子であるので、下校時はズボンを腰で履いてみたり、スカートを折ってみたり、そのまま市内中心部(まち)へ遊びに行くとなれば、簡単に洗い落とせるヘアカラースプレーで髪を明るくしてみたり、ピアスを付けてみたり、ささやかなお洒落を楽しむのだった。


 その環境の中、ただ一人だけブロンドのショートボブで、堂々と一限目から居眠りをしている森本春(もりもとはる)は、この教室内で誰よりも目立っている。そんなハルを横目で見ては、やはりキヨミは授業に集中できずハラハラした。

 しかし、熟年の数学教師は居眠りしているハルを無視し、淡々と授業を進めている。叱責する労力が勿体ないとわかっているのだろう。また、ハル一人を叱責する為に授業を中断することは、他の真面目な生徒に迷惑がかかる。面倒事を避けたがる、事なかれ主義の教師だ。

 キヨミは、教師の様子を見て少しホッとした。これがもし「ONE FOR ALL, ALL FOR ONE」とか言う昭和のラグビー部顧問だったりしたら、今頃は大変なことになっていただろう。


 ハルは夢でも見ているのか、その長いまつ毛が、時たまピクピクと動く。天使のような寝顔とはこのことだ。透き通るような白い肌で、頬にうっすらとそばかすがある。

 キヨミは、自分もこんなにかわいければどんなに人生が楽しいだろうかと、今までに何度もハルの容姿を羨んだのだった。


 12月中旬、今朝の札幌の気温はマイナス4度。窓側最後尾のハルの席のすぐ横には、教室を暖める為の大きなパネルヒーターがある。ポカポカとした暖気が直接当たる特等席だ。

 そしてハルの自宅は東区にあり、この学校は北区の外れにある。雪がない季節であれば自転車で片道30分程度で通うことができるが、冬は東区の自宅からバスを二本乗り継いで登校しなくてはならない。朝食をしっかり取り、今時の女子高生として必要最低限の身だしなみを整えて出かけるとなれば、朝は五時半に起きなくてはならないのだ。

 極楽のような暖気と寝不足とで、強烈な睡魔に屈服してしまうことは、しかたがないことなのかも知れない。そうは言っても、他の同じような境遇の生徒は、頑張って授業を受けている。座席の位置や個人の生活環境は、授業中の居眠りの言い訳にはならないことを、ハル自身もわかっているはずだった。


 抑揚もなく淡々と続く教師の声を、突然「ガタガタッ!」という大きな音が遮る。教室中の生徒が、驚いて一斉に振り返った。ハルは、椅子から転げ落ちた衝撃で慌てて目を覚まし、飛び上がって左右を見回した。



 沈黙の後、一瞬間をおいてから、教室内にドッと爆笑の渦が巻き起こった。



 寝ぼけていたハルは、自身に注がれた視線と嘲笑を受けて、状況を理解し、たちまち不機嫌な表情を見せた。ふて腐れ、乱暴に椅子に座り直し、窓の外を睨みつけた。


「はいはい!皆静かに!こっち見て!集中して~!」


 教師の一声で、余韻をわずかに残しながらも、生徒達はまた黒板に向き直り、授業は再開された。


 窓に映ったハルのパッチリとした大きな瞳の色は、今のこの晴天の空と同じ程までとは言えないが、微かに青かった。ハルは確かに札付きの問題児ではあったが、そのブロンドの髪色と青い瞳の色は、決して染めたり、カラーコンタクトを付けたりしているからではない。生まれつきのものなのだ。教師達や生徒達も、そのことについては把握している。


「ハル……大丈夫?」


 キヨミの心配した声にも上の空の様子で、ハルは窓に映った自分の顔を見て、頬杖をつきながらじっと考え込んでいる。


 ハルは、保育園や小学校までは、この見た目の特徴のせいで随分といじめられた。中学校では逆に突然ちやほやされ、困惑した。そして高校二年になった今、周りは、腫れ物に触るかのように、不自然な程に何も言わなくなった。これが、特異な存在へ対する、大人の反応なのだろうか。それでいて、男子生徒達からの猛烈なアタックはひっきりなしに続くのだ。

 ハルは、そのどの反応もが不快で、嫌だった。この先、周りからの自分への反応は、年を重ねるにつれて、どのように変わっていくのかが不安だった。



 ──ないものねだりだって、わかってるけどさ──



 物思いにふけっていたハルは、日直の威勢の良い「起立!礼!」の号令で我に返り、ワンテンポ遅れて、面倒くさそうに起立と礼を同時に片付けて、また着席した。


「ハル、全然寝てないの?」


 キヨミは、ハルが心を許せる数少ない友人だ。


「あ、ごめんごめん。昨日ちょっと遅かったからさ」


 そう言いながら、ハルは気だるくゆっくり伸びをしながら、涙目で大きなあくびをした。


「えっ!ちょっと!酒臭いよっ!?ハル!?お酒飲んでたの!?」


 キヨミは、驚きながらも、必死に小声にしようと努力した。


「あっ、やっぱり?ごっめーん。ちょっと朝まで、ね」


「……あんた、まさか、ススキノ?本当にやってんの!?」


「ちょっとだけ。アルバイト。週一くらいだからさ、大丈夫」


「そういう問題じゃないでしょ!学校にバレたらどうすんの!?次何かあったら退学(クビ)でしょ!?」


 ハルは、真剣に怒ってくれる親友の言葉に少しだけ胸を痛めながらも、笑ってごまかそうとしている。


「あんたがススキノのニュークラで働いてるって、もう結構噂になってるよ!」


「何で噂になっちゃうのかな~。あたし、誰にも言ってなかったのに」


「ちょっと!ハル!ススキノだよ!そんな所行くのやめなよ!!」


 札幌市中央区にある、飲食店やクラブ、風俗店が節操なくひしめき合う、北日本一の歓楽街、ススキノ。新宿歌舞伎町、博多の中洲(なかす)と合わせて、日本三大歓楽街に数えられる。

 酒と色気の誘惑に塗れた眠らないこの街は、当然、高校生が近寄ってはいけない街とされている。近寄ったところで、背伸びをして意を決し飛び込んだバーで、小一時間飲めないお酒を無理して飲んだとしても、チャージ料とドリンク二、三杯で2,000から3,000円、社会勉強と称して遥かに年上のお兄さんやお姉さんが接客してくれる店に突入しようものなら、小一時間で5,000から10,000円、果ては思春期のはち切れんばかりの性欲を爆散させようと射精産業の世話になるとすれば10,000から20,000円と、高校生のお小遣いやバイト代ではどうにもしようがない。それ故に、ススキノをうろつく高校生など、ほとんどいないのだ。


 ニュークラとはススキノ独自の呼称であり、いわゆるキャバクラのことである。キャストと呼ばれるホステスが、卓に着いて男性客の話し相手になり、水割りを作り接客する。体に触れさせたりする性的なスキンシップサービスはない。


「ごめん、キヨミさ。あたし、今日はこれでフケるわ」


「は?ちょっと!ハル!!」


 ダークグリーンのブレザーと赤チェックのスカート。その制服の上に、ハルは急いでグレーのピーコートを羽織り、ベージュ地に赤、白、黒のチェックのマフラーを首に一周させ、教室の二重の窓ガラスを勢い良く開けた。冷たい氷点下の空気が、一気に教室内へ流れ込んでくる。


「ハル!危ないでしょ!ちょっと!!」


 この教室は、二階だ。ハルは上靴を脱いでビニール袋で包み、学生鞄(ガクバン)に突っ込んだ。そして、下駄箱にはしまわずに教室内まで持ち込み、新聞紙の上に置いてヒーターで乾かしていた、茶色のムートンブーツを履いて、窓から身を乗り出し、跳んだ。

 校庭の、一階屋根の高さ程度まで高く積もった雪山に、ハルの167cmのスラリとしたモデルのようなプロポーションの体が、ズボッと音を立てて突き刺さる。パウダースノーの雪煙が舞い上がり、日光に反射してキラキラと輝いた。


「も~!ハルってば!戻って来なさいよ!」


 雪山から飛び出したハルは体中の雪を払いながら、教室から顔を出しているキヨミに向かっていらずらっぽく舌を出して、片手で「ごめんね」の仕草をする。そして白い息を吐きながら、校門へ向かって走り出したのだった。

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