待ちきれなくて
それから少し遅めの夕食が振る舞われ、入浴を済ませる。少しだけ冷えた白飯はむしろ米の甘みが引き立つようで驚き、おかずに添えられた煮物は薄口で上品ながらも物足りなさを感じなかった。そして、そう、霞さんの味がした。
広い檜風呂に圧倒されながら、とりあえず体を綺麗に洗い、風呂桶に飛び込んだら若者としてどうなんだというくらいに変な声が出た。
「何か困ったことがあったらいつでも言ってください」
そして風呂から上がり、脱衣場で着替えをしているとその外から、心なしか少し砕けた口調で静香さんが声を掛けてきた。そういえば着替えはどうしたものかと思っていたがいつの間にか俺の服は回収され、代わりに真新しい感触の下着と薄い生地の和服が置いてあった。
「ええっと…それじゃあさっそくで悪いんですが着るのを手伝ってもらえますか」
「む、なるほど。そこからですか…入ってもよろしいですか?」
どうぞ、と返事をすると恐る恐る静香さんが入ってくる。
「苦しくはありませんか?」
言葉をかけながら丁寧に、帯を絞めてくださる。一人でやるのは…少なくともまだ難しそうだ。
「…窮屈というのであれば洋服を買いに行ってもいいのですが」
俺の困惑を感じ取ったのか静香さんが提案してくる。
「いえ。毎回毎回、静香さんに迷惑をかけるわけにもいかないと思うので」
「お気になさらず。それに、そもそも着替えに関しては私が手伝うのも今回くらいのものだと思いますし」
そうでしょう?と当然のように言う。
「今日は流石に遅いですし、お互い、時間が必要と思いますから、明日、改めて霞様とお話し下さい」
まあ飛び出してきたはいいものの、学園なんかもあるしのんびりしているわけにもいかないしな。
客間に案内され、とりあえず人心地着いたので携帯を手に取り、自宅に電話した。
『はぁ!? 何言ってんのバカ兄貴! さっさと霞さんつれて戻ってきなさい!』
怒鳴られた。電話越しでも強烈な声はさぞあちらでは響くことであろう。
『ホントに…だいじょぶなのね?』
幾分か話をした後、落ち着いたような、落ち込んだような声で尋ねる。あっちからすれば、こちらの状況が分からない以上、嘘を吐いていたりまたは吐かされてはいないか、と人一倍、明日香や他の皆の分まで背負い込んでいるのだろう。だから、皆、冷静になれる。
『まあ上手くやることだな』
明日香は、故に悠然と構え、言葉を伝える。
『強いて望みを言うのであれば…帰って来い。くれぐれも流されぬよう、お前はお前の望みを果たせ。それが恐らく、霞にとっても…』
言いかけ、いや…と言葉を切る。
『それではな』
『ふぇ!? そんな、まだわた…』
『ぁ…』
切り際に華凜ちゃんの声と、『しまった』という感じの明日香の呟きが聞こえた様な気がする。掛け直そうか、と思ったその時、
「んんー…? おかしいですわぁ。お客さまがくるぅなんて聞いてないのに」
外から、そんな間延びしたような声が聞こえる。
「は!? まさか泥棒ですか!? 霞お姉さまがせっかく帰ってきましたのに。まさか狙いは霞お姉さま!? 恋泥棒というやつですのね!?」
お姉さま?
「おあいにく様ですわ! 霞お姉さまにはすでに心に決めたお方がぁ!」
バァン! と戸を開けて入ってきたのは、霞さんによく顔立ちが似た女の子だった。しかし、その表情は明るく快活とし、服装は…ゴスロリというやつだったか? フリフリで洋風な感じでこの家とはミスマッチ…のようでいてどこか和洋折衷的というか妙に雰囲気に合っている。あとこの子にも似合う。
「あーええっと…」
そう言えば、霞さんには妹さんがいる、とそう言っていた。言うまでも無くそうなのだろう、と言葉を探っていると
「ぁ…ぁぁ…」
妹さん(仮)は、俺を指差し、わなわなと震えながら
「秋月真一さん!?」
俺の名を叫ぶのであった。
「失礼しました。わたくし、橘詩織と申します」
ぺこりとスカートをつまみ上げてお辞儀をする。いやそれ多分違うと思う。
「いいのです!」
ぷぅっと頬を膨らませる。華凜ちゃんよりかは年が上の様ではあるがまだ幼さの抜けきらない少女であった。
「はぁ…やはりお姉さまたちのような淑女には程遠いようですわぁ…何が悪いのでしょう? これでもお姉さまたちと一緒に買った少女漫画でお勉強しているのですが」
「まあ年を取ると落ち着きも身に着くものだがそれもいいもんばかりではないと思うぞ」
愛希の姿を思い浮かべながら言う。感情が弾けるように元気な様子は正直に言うと疲れるが、見ていて心地がいいものだ。
けど、私はさ。触れ合って、ドキドキしたりさ。今のバカ兄貴との関係とはきっと何もかもが違うそんな何かが、今は欲しい。後退したっていい。気まずくなったっていい。ただ…今のままじゃダメって
結局、応えられはしなかったが愛希の言ったことは、眩しくて尊いと俺は思った。だから、目の前の…詩織ちゃんが落ち込んでいるのならば持ち直して欲しい、とそう思う。
「どうしても霞さんたちの様になりたい、というのであれば簡単さ。霞さん達の真似でもすればいい。けど、それは違うんだろう?」
「そう、そうですわ。たしかにお姉さまたちはキレイで、憧れで、でも…」
「ならそれでいいともさ」
頭を撫でる。
「…お姉さまたちとおなじようなことを言うのですね」
振り払うことも無く、不思議そうな顔をして、漏らした。
「なるほどさすが霞お姉さまの婚約者です。ほめてしんぜます」
思いがけず認められてしまった。
「さて、そういえば何で俺のことを?」
「霞お姉さまから写真をメールで送ってもらったりしたのです」
なるほど。霞さんに俺の知らない一面があるのは百も承知ではあるが、本当に姉妹仲はいいようで安心した。
「…霞お姉さまは、わたくしのことについて何か言っていませんでしたか?」
一転、不安そうに尋ねる。
「わたくし、赤面ものですが幼いころから手間ばかりかける子であったらしく思い出せるだけでもお姉さまたちに迷惑ばかりかけて…!」
ぶるぶるとそれこそ顔を真っ赤にして首を振る。
「大丈夫だよ。霞さんは愚痴漏らすような人じゃないけど、きっと詩織ちゃんのこと大好きだ」
笑いかけながら、言う。
確かに、霞さん自身、詩織ちゃんと、未だ見ぬお姉さんと色々あったのは事実だろう。
けれど、疎ましく思っていたとはけして言わなかったし、華凜ちゃんと接していた時も詩織ちゃんのような妹がいたから、上手くいっていた面もあるだろう。
「真一さん…その、真一お兄さま、と。呼んでもよろしいでしょうか?」
もじもじと指を弄りながら、言う。そんなもの答えは決まっている。
「ああ。存分に呼んでくれ。お兄さまでも呼び捨てでもどんな呼び方でも構わんともさ」
「真一お兄さま!」
首に抱きつき、胸に顔を寄せるのを抱き留める。
「そういえば真一お兄さまは何でここに? 嬉しくて考えるに及んでいませんでしたがひょっとして霞お姉さまが突然帰ってきたのは…」
さて、どう答えたものだろうか、と考える間もなく
「逃避行ですね!?」
「いやちが…」
「あぁ! 引き裂かれる二人! 乗り込んでくる元婚約者、教会に乗り込んで『その結婚ちょっと待った!』ってやつですのね」
「元じゃない元じゃない」
「分かっていますわ! あぁ…囚われの身で真一お兄さまだけを想う霞お姉さま…!」
気付いているのだろうか。それだと黒幕は直仁さんたち橘家なのだが。
あぁダメだ。言い方悪くなるがこの子、面倒くさい子だ。…人のことを言えた義理ではないが。
「こうしてはいられません! ちょっとだけ待っていてください」
そう言い残し、どたどたと廊下を駆けていく詩織ちゃん。いや、さっきの泥棒(勘違い)に対する対応もそうだが、警戒心が無さすぎる…うん。別の機会にでも友助辺りを交えて教えるのもいいのかもな。
それから暫く、帰ってこない詩織ちゃんを待つのをそろそろ諦め、畳の上に敷かれた布団に入る。
その時、月明かりに照らされた障子に、人影が透けているのが見えた。しばしば、障子が揺れる。迷うように。
まさか、と思う。気配を感じた。ゆっくりと、待ちわびるように心臓が鼓動を早め
「こ…こんばんは…真一さん」
恥ずかしそうに、霞さんが姿を現した。




