1.発症
まどろみの中、微かな声が耳に響く。
『おき…くだ…………いさ……』
暗闇の中に薄ぼんやりとした光が見え、そこから彼を呼ぶ声が、確かに聞こえた。聞こえているはずなのに、何故かその声は途切れ途切れで、正確に聞きとる事が出来ない。
『おき…ください…にい…ん!』
相対する闇と光……空間に存在するのは、彼と彼に呼び掛けるその声だけ…
『おきてください……にいさん!!』
埋没していた意識が徐々に覚醒し始める。
(んっ……ぅん?………えっ?……だ、誰?)
『良かった……やっと兄さんに届きました……』
しっかりと目を凝らすと、光の中に語りかけてくる者の姿をようやく視認する事が出来た。
一瞬だけ安堵感を少女は見せたが…その幼く感じられる双瞳に大粒の涙を浮かべ、彼へと悲哀を帯びた視線を向ける。
段々と意識が安定し、どうしてこの子は涙を流しているのだろう?……と湧き上がってくる疑問に首を傾げてしまう。
(それに兄さん……今、僕の事を兄さんと呼んだのか?)
焦る必要はない、そう、焦る必要はない……これは夢に違いないと思ってはいても、心の奥底では何故か押し寄せてくる違和感と焦燥感に駆られ、少女に話しかけようとした。
(初めましてだよね……キミと僕はどこかで会った事があるの?)
同い年くらいの少女の反応は、無反応に近かった。そう、それもそのはず……
(っっ!?声が届いていない!?いや、違う、声になっていない!?)
彼の焦りを知ってか、知らずか、少女はそれを遮るように会話を続ける。
『申し訳ありません、兄さん……今回だけは何とかしようと思っていたのですが、やはり私の力では、この病症に抗うことすらできなかったようです』
『本来、私がこの様な形であなたの前に出てくる事は、決して許されてはいません……恐らく、この記憶は強制的に消去されてしまいます』
(病症とか消去って……君は一体何を言っているの!?)
やはり、少年の声は少女には決して届かない。この場において、今の彼に発言権はないのだ。
(それに僕が家族と呼べる人は、父、母、そして兄が二人、僕を含めて5人しかいない)
(……妹はいない。親戚にも兄と慕う同い年くらいの少女がいたなんていうそんな都合のいい記憶もない)
少年がただ思い出せないだけかもしれないが……
張り裂けそうな表情を浮かべ、溜めていた涙を止めることが出来ずにいた。
だが、よくよく見てみると少女の面影は、どこかで見たことのあるような顔をしていた。決して見覚えがあるわけではない。
何度も何度も反芻し、いくら記憶を辿ってみても、少年の記憶の人々の中に同じ年齢位のこんな子がいた覚えはない。
(デジャブ……いや、そうじゃない。そうじゃないんだ!!そう、誰かに……誰かに似ているんだ……でも、誰に似ているっていうんだ?)
思考の迷路を彷徨っているうちに、力の無さは十分に嘆いたとばかりに、流れる涙を力強く拭い、少女がまた口を開く。
『現実世界ではすでに症状が出始めています。命を取られる危険性はないでしょうが、目を覚ますと、眼球を焼かれ……アイスピックで貫かれる様な激痛が兄さんを襲っていることでしょう』
(そんなに不味い状況に陥っているのか……とにかく情報が少なすぎる。夢にしては明らかに鮮明すぎる。もしかして現実なのか……)
『……もう時間がありません……兄さん、どうか自我を失わずに………』
少女の姿が少しずつ掠れ、少年の視界から霧散していく。
(症状が出始めているって!!待って!!)
拭いきれない焦燥感に、少女へもう一度声を掛けた。決して届くはずのない声を……
(ちょっと待って!!聞きたいことがあるんだ!!君は…………)
心の内を想いだけが駆け巡る。やはり、少女には声が届かず、その姿は完全に闇の中へと消えていき、暗闇から強制的に意識を現実へと引き戻される。
5月15日 午前0時05分 自室
「うっ…あ………」
焼け爛れるような臭いが部屋中に充満していた。両眼を抑えるように顔に両手を当てているが、その効果は全くない。
「がっ!!あぁ〜ぁあぁ〜っ!!」
別に少年は、薬品をかけられたわけでも、実際に部屋が燃えているわけでもない。
少年を薄赤いぼんやりとした灼熱の紅いオーラの様なものが他者を近づけまいとするように包み込んでいた。
異質……普通では考えられないこの現象に気付いた者がいた事は少年にとって、幸か不幸かは定かではない。
息子の発狂を耳にした両親が部屋に進入すると、嗅いだことのない異臭が鼻を突く。
『うっ!!この臭いは!?……秀一!?秀一!!大丈夫か!?熱っ!!……おいっ!しっかりしろ!』
異臭よりも自身が背負った火傷よりも自分の息子に起きている事象を打開する事の方が最優先だった。
「がっ!!……あ゛ーーーーーーーーーーっ!!」
激痛にのた打ち回る息子を見るのは初めてだった。触れるのが困難なくらい少年の体温は上昇していた。
『しゅうっ!しゅうーーーーっ!!!』
母の絶叫が部屋に響き渡る。少年の身体を押さえつけるだけでも一苦労だ。
燃えているわけでもない部屋のただならぬ異常に少年の両親はある決心をした。
いや、決意せざるおえないと言うのが正しいだろう。
そう、ただ単に、救急車を呼ぶという行為ではない。
本当にこの日でなければ……そうこの日でなければ、俗に言うただの119番通報だけで済んだ話だったかもしれない……
両親は沸騰する頭を何とか心を抑えつけ、緊急車両を要請する。そう、緊急を要するという事実だけが、彼らの脳をなんとか正常に機能させていた。
少しでも状況が違っていれば、彼らは茫然自失の状態になっていた事は火を見るより明らかだ。
『母さん!とにかく、救急車だ。はやく!!』
『えっ……えぇ!わかったわ!!』
意識が遠くなる、微かに聞こえていた父の声も、母の声もさらに遠く離れていく。
「うっ……かはっ……」
夢の中で少女が言っていた通り、焼き鏝を当てられているような眼球・脳髄の激痛と鼻を刺激する得も言われぬ異臭から逃避するように、秀一の意識は遠退いていった。
01時00分
『さてと、君塚くん、親御さんを呼んできてくれるかい?』
『わかりました…』
深夜の病院だが、流石、救命救急の専門機関といったところだろうか…喧騒に包まれている。
そう、ここは国立総合病院。
本日の当番院という訳ではなく、この県で唯一夜間の受付を毎日行っている機関だ。交代制で働く看護師達が、日中と同じように忙しなく動き回っている。
少年と同じような症例の者達を受け入れる為に作られた専門病院と言っても過言ではない。その為、県外から来館する者も稀にある。
8階建ての白を基調とした建物。東西に分かれており、1000床以上の患者を抱える事が出来る大病院だ。最先端医療のエキスパートを揃えていると言っても遜色はない
彼の両親は、その1Fの救急搬送用の夜間通用口を入って、今、現在1Fの待合室で、今か今かと、看護師に呼ばれるのを待っていた。
絶望に打ち拉がれるように首を垂れているとすぐそばまで接近してきた看護師に声を掛けられる。
速すぎる応対に二人は完全に不意をつかれた。
『雪村秀一様のご家族の方でよろしいでしょうか?……』
『……はっ、はい、そうです』頷き、返答を返すがその声に覇気はない。
『……大変お待たせいたしました。第三診察室までお越し頂けますか?』
否、全く待たされてなどいない。唐突に呼ばれたことに正直驚いていた。
周りを見渡せば、まだ多くの人が、順番を待っていて、自分たちよりも前に待っている人が大勢いて、呼ばれるのは、もう少し後になるのではないかと思い込んでいたからだ。
何故なら、この病院に到着してから5分と時間は経過していない。
緊急でない限り、整理券順に番号で呼ばれるのが、通例なのにもかかわらず、看護師の方から、両親のすぐ傍まで接近して声を掛けてきたのだから仕方ない。
緊急手術等も行われる夜間の病院で、この対応は明らかに早すぎた。
だが、クレームをつける者などこの場所には誰一人としていない。つける権利を持つ者など存在しない。
無言のまま頷き立ち上がる二人、嫌な予感は的中していた……そう、今日は秀一の誕生日…
日付も変わり、今日の夜には、13歳の誕生日を祝うはずだったのに……
エレベーターに乗り、地下へと向かう。
普通なら何故地下なのだろうか?と違和感を持った事だろう。今の彼らにそんな余裕はない。
そんな事は、決して許されない…
地下3階でエレベーターを降り、半ば茫然自失の状態で、看護師の後をついていく。それはさながら、断罪される為に処刑所へと向かう死刑囚の如く……
『どうぞ、お入りください』
振り返り話し掛けてきた看護師は、まだ20代前半~後半ぐらいだろうか……どこか優しく、そして力強い雰囲気で声をかけてきた。
秀一本人はいない診察室へ、両親は入った。
『お待たせしました。どうぞ、お掛けください。少し長い話になりますが、大丈夫ですか?』
医者は、30代前半~後半、眼鏡を掛け、手慣れた様子でカルテを見やり、夫婦に話しかけるその風貌はかなり落ち着いていた。
沢山の患者を見てきたのだろうか?熟練のオーラが感じられる。ネームプレートには特別診療総合科・一条とあった。
両親は小さく頷きながらも、それでもこれは嘘だと信じたくて…自分が思っている事は勘違いなのだと視野狭窄に陥りながらも、なんとか口を開く。
『あ、あの、一条先生……息子の容体は……秀一は、大丈夫……なんでしょうか!?』
と医師に対して、分かり切った質問をぶつけてしまった。
『御二方とも……落ち着いて聞いてください』
『…………非常に残念ですが、お子さんは、もう二度と御自宅へ戻ることは不可能です』
聞きたくなかった、耳を疑う様な言葉が医師の口から紡がれた。出来る事なら、この耳をそぎ落としてしまいたいと思うほど……
いや、ただ、恐怖に耳を塞ぎ、聞きたくなかっただけ、心の奥底では分かっていた事だった。
『……それは、病を患ったということですか?……自宅に戻れないってことは、普通の病気では……ないんですね』
それでもまだ、何かの間違いだったと、質問の上書きをする。
一条はほんの少し目を背け、話しにくそうにしていた。視線を戻し、両親を眼前に捉え、本当は開きたくもない口を開ける。
『…………そのとおりです……日本人であれば、どんな人でも患う可能性があるモノです』
『仰りたい事は、多々あるでしょうが、まずはこちらに目を通していただき、記入をお願いします』
『記入しない場合、国家反逆罪が適用されます。病院側には強制執行権がありますので、自宅に帰すことは事実上不可能です』
医師は、より神妙な面持ちで言い放った。
『それにもし、コレを放置にした場合、彼の命と精神及び世界平和の保証はできません』
(世界か………)
両親は医師から今後の息子の扱いについて聞きながら、息子に起きた昔の出来事を思い出していた。
この感覚は走馬灯に近い感覚だろう。
秀一は自分のことを多く語るような人間ではなかった。
学校で何があったとか、友達とどんな遊びをしたとか、自分の趣味の話とか、その他諸々の彼自身に関わる話をあまり聞いたことがなかった。
両親は、秀一のあの明るい笑顔に安心し、完全に騙されていたのだ。だから、こんな病にかかるなんて思いもしなかった。
秀一は家族に対して、自分自身を偽装していたのだ。だからこそ、両親がそんな彼の心中を気が付けるはずもない。
両親は思い出す。
昔、一度だけ彼が悩み苦しんでいたことを……
両親は心配になり、すぐに学校側へと連絡を取った。
学校側からの返答は、調査をして返答します……とのことだった。だが、学校側はその起こってしまった事象の全てを隠蔽したのである。
しかし、そのあとすぐに彼が明るい表情になっていたので、本人が気にしていないのであれば、わざわざ傷口を抉り、塩を塗る様な真似をすることもないか、と思い直し記憶からは消え去ってしまい、学校側への確認を怠ったのである。
本来であれば、彼の傍で彼の苦痛を聞き、解決は出来なかったとしても、少年の傍にいるべきだった。
ここにいる彼が何に嘆き、苦しみ、絶望していたかを問いただすべきだったのだ。
そうすれば、彼を地獄の淵に立たすことはなく、この悲劇は回避された可能性がある。
しかし、今となっては、もう後の祭りである。発症してしまったが、最後……もう元には二度と戻れない。
医師の言うとおり、秀一は絶対に両親のもとへ、帰ることは出来ないであろう。
『……では、手続きは以上です。早急に措置が必要ですので、明朝には、彼はこの病院からとある場所へと向かい出発します。今、この時が、お子さんとの最後の面会となります……』
『恐らく、すぐに目覚めることはないでしょう。起きた時に、何か伝えておかなければならないことがあればお伝えしますが……いかがなさいますか?』
『………いえ、伝えられることは特にありません………息子をよろしくお願いします』
表面上冷静さの仮面はかぶっていても、それは見せかけにすぎない。何かを口にしていい理由がないと思えたから、自然に言葉が出てしまっていた。
それに伝えたいことが幾らあっても、ソレを上手くまとめることが出来るほど心の中は、冷静ではいられない。
両親は深々と頭を下げた……下げるしかなかった。出来ることなら、最後なんて思いたくもない。
頭だって本当は下げたくなんかない。けれど、二人では、どうする事も出来ないところまで来てしまっていた……
もう遅過ぎたのだ……そう、何もかもが手遅れだった。
声を押し殺し、妻の目尻に涙が伝う。だが、両親は少年を絶望の淵から救いあげる事はもう叶わない。
『……うっ……くぅっ……あ、あなた……っ!』
最後…そう本当に、最後なのだ。
『すまない……秀一……』
先ほどの喧騒とは打って変わって、静寂の中にカツカツカツと靴音だけが無常に響き渡る。
案内された場所は、一般の病棟ではなかった……全面鏡張りの室内に、息子の体は拘束具のようなもので、ベッドに完全に磔にされている状態だった。
『なっ!?』ここまでの状況だったのかと目を疑ってしまう。
『拘束を解いては……もらえませんか?』と近くにいる看護師に懇願した。
『申し訳ありませんが、それは出来ません。安定期に入ったことが確認されるまで、この状態で維持しなければ、下手をすると、周囲の人間が巻き添えを喰らい、死者が出る可能性があります』
『……そ、そうですか、無理を言いました』と苦虫を潰したような顔をしてしまう。
だが、意外にも両親は、秀一が拘束されている部屋への侵入を許された。
何でも拘束具があれば、100%ではないが、暴走を食い止めることが出来る為らしかった。
『触れても、大丈夫ですか?』
一条は無言のままその言葉に深く頷いた。
秀一の身体の体温はあの焼けるほど熱かった状態から落ち着きを取り戻し、容易に触れることが出来るようになっていた。
母が手をとり、父が頭に手を置いた。
二人は苦悶の表情を浮かべ、何か言葉をかけてあげたいのに、何も語り掛けてあげることが出来ずにいた。
……何も言えなかった、何も……悲痛な胸の内に秘めた慟哭が届く事はなく、只々涙だけが溢れてきた。
非常に危険との話で拘束されてはいるが、静かな寝息を立てて、先程の出来事が何も無かったかのようにも見える自分の息子ににもう会うことはできないのか?
そして、自分達大人は………この子に対して何もしてあげることが出来ないのか?
無情にも、時間だけが過ぎ、別れが刻一刻と近づいていった。
この後、少年と両親が会話を交わす事は決してなく、タイムリミットが近づき、無言の別れとなった。
2015年11月25日 編集完了
ここまで大幅に改編するつもりはなかったのですが、1000文字近く追加する事になってしまいました。
どこを編集したのかと問われるとほぼ全体です……
誠に申し訳ありません。今一度読んでいただければ幸いです。