風鳴き珍道中
背中に圧力を感じると身体がぐらりと揺れた。
目の前には階段。
落ちる。
あぁ。骨が折れたらどうしよう。痛いだろうな。と思った。
階下が歪み、地の底に吸い込まれるような錯覚。
遠くで叫び声が聞こえてきた。
──────────
夏が終わる。
木陰に吹く風が少し冷たく感じ、そう思った。
朝、学校に行くのが面倒くさくなったので、近所にある神社の濡れ縁でうたた寝をしていた。
しかし、いつの間にか昼になっている。
本格的に眠っていたのだ。
寝転がったまま、腕時計を見た。
今から学校へ行っても遅刻理由を言うのが面倒なだけだ。
だから、そのまま帰宅しようと上体を起こした岡田仁市は驚く。
小さな男の子が肘を付いて寝転がり、こちらに顔を向けていた。
しかも鼻の穴に指を入れ、白眼をむいている。
所謂、変顔。
これは夢ではない。
さらりと風が流れる。
「な、なんだよ」
仁市の様子を見た男の子は逃げようともせず驚いた表情を見せる。
二人は暫く互いを見ていた。
端から見れば異様な光景かもしれない。
「なんだよ、お前」と仁市が男の子を睨む。
その目付きに男の子は今にも泣き出しそうな表情に変わる。
頬はひきつり、大きな両目には涙が溢れそうだ。
─おいおい、参ったな。泣くのかよ。勘弁してくれ。
仁市は子供が苦手だった。
言葉は通じないし、引っ張りまわされる。
都合が悪くなれば泣き、意味の分からない所で笑いの壺にはまる。
ちょこまかと動き回り、落ち着きがない。
仁市にとって子供とは異世界の生物と同じくらいに理解ができない存在なのだ。
分かりあえない。
「ご、ごめんなさい」と小さく頭を下げる男の子。
仁市が小さく息を吐くと、男の子が頭を上げた。
「俺に何か用?」
俯く男の子。
「何かあるから横にいるんだろ?」
口を開かず俯いたままの男の子に苛立ち、あからさまな溜め息を聞かせた。
頭をぽりぽりとかく。
「迷子?──この神社、神主居ないみたいだし誰も手入れしてないからぼろぼろだ。滅多に人なんて来ないのに」
これが精一杯の仁市の助け船だったのに男の子は答えない。
仁市は枕にしていた鞄を掴んで立ち上がった。
「何も言わないなら帰るぜ」と男の子に背中を見せた時だった。
「あの──」
無視しようと思ったが、それはさすがに駄目だろうと思い振り返る。
「おじさんは─」
「おじさんだぁ?」
男の子は「ひっ」と息を飲んだ。
「俺は高校生だ。どこからどう見てもそうだろ?制服着てんだから」
─お兄さんだろ、普通は。ガキめ。
「だって─頭。髪の毛が白いから」
「ん?─あぁ」と自らの髪を摘まむ。
「染めてるんだよ。銀色に。白じゃない」
「ごめんなさい」
「で、何?」
男の子は立ち上がった。
「ぼ、僕は立花圭吾です。小学二年生です」
「だから何?」
圭吾はとことこと仁市の足元に駆け寄ると仁市を見上げる。
その大きな目から涙がつぅっと落ちた。
風が木々を揺らし心地よい音が流れる。
「お兄ちゃん」
さわさわ、さらさら。
「僕を誘拐してください」
どこかから子供の泣き声が聞こえてきた。
身体は小さいのにあんなにも泣き声が大きいのは、親がすぐに気が付けるようにだろうか。
子供の助けに親がすぐに反応できるように。
「なんだって?」
「僕を誘拐してください」
これだから子供は嫌なのだ。
意味が分からない。
「お前、誘拐って言葉の意味を分かって言ってるのか?」
圭吾は頬を膨らます。
「おい」
「拐うんでしょ?」
「そうだ。相手を騙して無理矢理連れ去るんだ。俺とお前はどうだ?俺はお前を騙してるか?無理矢理連れ去ろうとしてるか?そもそも『誘拐してくれ』『あぁいいよ』なんて話聞いた事がない」
黙る圭吾。
「俺を犯罪者にしてどうするつもりだ?」
「お兄ちゃんは悪い人じゃないよ」
─あ、そう。そりゃどうも。子どもに言われて嬉しいわ。なんて思うかよ。
「じゃあな。気を付けて帰れよ」と圭吾に背を向けたが、とことこと仁市の前に立ち塞がった。
「なんだよ」
圭吾は頬を膨らましたままだ。
─今までそうやって膨れていれば許されると思って生きてきたんだろうが、俺には通用しないぜ。
「僕、一人ぼっちなんだ」
─あ、そう。
「お父さんとお母さんが出掛けてて、一人ぼっちなんだ。──お兄ちゃん、僕と遊んで」
もちろん、答えは。
「絶対に嫌だ」
そう言って歩き出すが行く手を阻む圭吾。
「お願い!」
「嫌だ」
「お願い!お願い!お願い!」
「嫌だ!嫌だ!嫌だ!」
「けち!けち!けち!」
「けちで結構!けちで結構!けちで結構!」
「うー!」と地団駄を踏む圭吾。
体重が軽いせいで板を踏んでも音が出ず迫力がない。
「お願いぃぃぃ!」
「友達に頼め!」
「嫌だ!」
「頼め!」
「嫌だ!」
「頼め!頼め!頼め!」
「嫌だ!嫌だ!嫌だ!」
─あほらしい。
そう思って圭吾の横を通り過ぎる。
「お兄ちゃぁぁん」と言いながらついてくる。
「ついてくるなよ」
「嫌だ!一人は嫌だ!」
「俺は一人が好きだ!意見が合わないな!さようなら」
「お兄ちゃぁぁん!」と叫ぶ圭吾。
このままじゃ近所の住民に不審に思われる。
「僕を助けてよぅ!嫌だよぅ!」と大声で泣き叫ぶ。
─余計な単語を含ませるんじゃないよ。余計に不審に思われるだろうが!
「うるさいっ!」
圭吾は口をへの字に曲げる。
頬には涙が流れている。
「家に帰れよ」
「一人は──嫌だ」
今度は俯いて服の端をぎゅっと握る。
小さく丸い両頬の間から尖った唇が見える。
幼いな、と思った。
─まったく、もう。
「家はどこだ?」
首を振る圭吾。
小さく息を吐いて視線を相手に合わせるようにして屈む。
「一緒に帰ってやるから教えてくれ」
口がへの字だ。
「お前、小学二年生なんだろ?そんな事で泣いてたら女子に笑われるぞ」
その言葉が効いたのか、圭吾は袖で涙を拭いた。
そこで気が付く。
「お前、学校は?」
「今日は休んだ」
「休んだって、体調が悪いのか?」
「─うん。まぁそんなところかな」
「なのに外でほっつき歩いているのか」
「ん、んー。お兄ちゃんこそ。学校は?」
「俺はね賢いの。学校でやること頭に全部入ってるの」
本当だ。
成績は学年トップだし、運動もできる。
文武両道。
学校に行かない理由はつまらないから。
友達もいないし。
「うっそだぁぁ!」と圭吾が楽しそうに笑う。
─切り換え早ぇな。
「笑ってろ、笑ってろ。じゃあ、家を教えろ送ってやるから」
「わかった!」と大声でそう言って右手をひょいっと挙げると仁市の腹が鳴った。
─うーん。腹が減った。
「お前、昼は食ったのか?」
一瞬首を横に振るが、直ぐに縦に振り「食べた」と笑う。
では、こいつを送り届けてから昼を食べに行こうと思い、圭吾を連れて鳥居を抜ける。
左右に道が分かれている。
「どっち?」と聞くと左を差して「こっち!」と笑う。
─なんでこんなに楽しそうなんだ。俺は全っ然っ楽しくないのに。
圭吾は「うにゃ~ん」とか「ネコネコ、チンドーチュー」とか聞いたこともない歌を口ずさんでいる。
「ねぇ、お兄ちゃん名前は?」と突然聞いてきた。
仁市は左を歩く圭吾をチラリと見た。
「仁市」
「じんいち?」
「そう。仁市だ」
「ん、んー。どう書くの?」
「そんなの聞いてどうするんだよ」
仁市の言葉を無視して続ける圭吾。
「えっとー。腎臓の腎と数字の一?」
─腎一。
「腎臓なんて言葉がよく思いつくな」
「違う?」
「違う」と仁市は携帯電話に名前を入力して見せてやる。
「あ、この字──」
圭吾は一瞬翳りを見せたが嬉しそうに「お兄ちゃんは優しいね」と笑う。
─な、なんだよ。
そう思ったが仁市は圭吾の表情の変化を見ていない事にする。
その後も圭吾は楽しそうに走り出したり笑ったり、さっきの聞いたこともない歌を口ずさんだりしていた。
「あ!仁市兄ちゃん!公園だよ!公園!」
真っ昼間の小さな公園には誰もいない。
遊具は鉄棒とシーソーだけだ。
「遊ぼうよ!」
「お前、体調が悪いんじゃないのか?」
「ん、んー」
「ん、んー。じゃねぇよ」
「じゃあさ、じゃあさ、鉄棒で逆上がりしてよ!」と圭吾は小さな足でぴょんぴょんと飛び跳ねる。
「じゃあさ、の意味が分からないぞ。あんな小さな鉄棒で逆上がりなんてしたら地面に頭を打つ」
「できないの?」と馬鹿にしたように首を傾け唇をすぼめる。
腹が立つ。
聞き捨てならん!
「見てろ」と鉄棒に向かい、くるりと回ってみせた。
「どうだ!」
─何てったって文武両道。岡田仁市だっ!ふんっ!
圭吾は「すっごーい!すっごーい!うっひょー!」と手をパチパチと叩き、飛び跳ねた。
方眉をひょいっと上げ、仁王立ちで圭吾を見下ろす。
「まさかお前、逆上がりできないのか?」
すると圭吾は俯いてつま先で砂をカリカリとかいた。
「ん、んー。でき──ない」
「だっせー」と笑ってやる。
「ダサくない!」
「だっせー!だっせー!」
「ダサくない!ダサくない!だってクラスの皆もできないもんっ!」
「ふふん。そんな中に埋もれて満足なのか?皆ができない中でお前一人ができれば格好いいぜ。俺が教えてやろうか?」
「い──いらないっ!」と唇をすぼめる。
「拗ねるなよ」
「いらないもんっ!それよりさ、シーソーだよ!シーソーしようよぅ」
「駄目だ。帰るぞ」
「しようよぅ。シーソーしようよ」と両手を飛行機の羽のように広げて仁市の周りをぐるぐると走る。
─なんだこのテンションの変わり方は。体調が悪いなんて嘘だな。
「行くぞ」
「どこに?ゲーセン?」
「帰るんだよ」
「うにゃ~ん」と圭吾は頬を膨らます。
「腹が減ってるんだよ。早いとこお前を送り届けてから昼を食べに行きたいんだ」
「じゃあさ、じゃあさ、シーソーしようよぅ!シーソーしたら帰るから!ねっねっ!」
「我が儘言うな」
「けち!」
「けちで結構。じゃあ待っててやるから一人でやってこい」
「一人じゃでーきーなーいー!」
「なら諦めろ」と圭吾に背を向けて歩きだす。
「一回だけー!」
「体調が良くなったら友達とやればいいじゃないか」
ここで折れればこの先もこいつは調子に乗る。
それだけは避けなければいけないのだ。
黙ってそのまま歩きだすとさっきまで騒がしかった背後が静かになった。
気になって振り返ると俯いた圭吾が後をついてくる。
─よし、よし。諦めたな。ふふふ。子供の世話なんてしてられねぇよ。
公園から出て目の前をとぼとぼと歩く圭吾の歩幅に合わせる。
仁市の一歩は圭吾の二歩だ。
「おい」
話し掛けようとするが振り向かない。
ふて腐れているのだろう。
「おい」
─俺を無視するなんて百年早い。
「圭吾」
そう言うと嬉しそうに振り向く。
─なんだよ。名前を呼んで欲しかったのか。
しかし─
「さっきと同じ道だけど」
圭吾はわざとらしく驚いてみせる。
「わぁお!」
腹立たしい。
何なのだこいつは。
「いいかげんにしろよ」と凄む。
「調子に乗るな」
「ご、ごめんなさい」
「もういい。お前一人で帰れ。それなら好きな所に寄り道できるだろ。俺は一人で昼飯だ。お互い幸せだ」
ハッピーだ。
すると圭吾の両目から涙が溢れだし、あっという間に頬に伝う。
─はっはー!もうその手には乗らないぞ。泣き落としはきかん!
「じゃあな」と圭吾に背を向けて歩き出す。
少しきつく言い過ぎたかなと思ったが仕方がない。
どうするのだろうと気にはなったが、振り向いて顔を合わせてしまえば嬉しそうについて来そうな気がしたので曲がり角を折れるまで歩き続けた。
そして、建物の角から圭吾の様子を見た。
いない。
帰ったのか。
そりゃそうか。
さて、昼でも食べに行こうと歩き出すと目の前に圭吾がいた。
「ぬはっ!お、お前!か、帰ったんじゃないのか!」
─び、ビビらずんじゃないよ!
「お兄ちゃんこれから何処に行くの?」
「昼飯だって言ってるだろ」
驚いていない風を装う。
「僕、ついて行く。もう、遊んでなんて言わない。お兄ちゃんの行くところに僕も行く」
─どんだけ一人が嫌なんだよ。
仁市は少しだけ圭吾の事が気になった。
どうしたものかと頭を捻ると、圭吾はこちらをじっと見つめる。
痛い。
重い。
「──わかったよ。そんなに見るな。穴が空く」
圭吾は「ビーーム!」と嬉しそうに両手を前につき出し「ひゃっほー!ネコネコ!」と飛び跳ねる。
本っ当に切り換えが早い。
仕方なく入店したさして美味しくもない商店街のハンバーガーを頬張り圭吾と向かいかう。
圭吾の背は低いので立っているのか座っているのか分からない。
店内に客は二人の他にサラリーマンが二人だけだ。
昼は食べたと言っていたが、さすがに何も買ってやらないのは可哀想だと思ったので、一番小さなサイズのオレンジジュースを与え、ポテトを分けあうが、どちらにも口をつけない。
先程の勢いは何処へやら、無口になりじっとジュースを見ている。
「そんなに見ていたらオレンジジュースが恥ずかしがるぞ」
「うーん」と唸る。
「嫌いか?」
─まさか、百パーセントじゃないと飲まないとかふざけた事を言うんじゃないよな。
「うーん」
「ポテトも。食わないなら食うぜ」
「う、ん」
圭吾はもじもじとポテトを見つめる。
「もう、僕──お腹一杯なんだ」
「あ、そ」
仁市はプレートに乗った物を平らげ、オレンジジュースも一気に飲み干した。
残すのは嫌いだ。
「どうしたんだ。急に口数を減らして。眠いのか?」
「う、うー」
なんだかんだ言っても子供なのだ。
「そうじゃないよ」と次は周りを気にし始める。
それにつられて周囲を見てみたが特に何も変わった事はない。
─変なヤツ。
圭吾が早く店を出たがるので仕方なく腰を上げた。
他の客たちが学生服を着た仁市に不思議な視線を飛ばしてくるが無視をする。
人気のない外へ出るとさっきとは別人のように圭吾が飛び跳ねる。
「ひゃっほー!ねぇ!何処行くの?」
「さぁな」
「ねぇ!ゲーセンいこうよ!」
「馬鹿かお前。俺もお前もまだ学生だ。こんな時間にゲーセンなんて寄れば即補導だ」
ちぇっと下唇を出す圭吾。
「お兄ちゃんがゲームしてるのを見てるだけでいいんだよ」
「そんなので満足なのか?やりたい~!ん、んー!とか言うんだろう」
圭吾のものまねを挟み込むと不満そうに頬を膨らます。
「僕そんなに気持ち悪くない!」
「お前こんなんだぜ。ん、んー」
顎を出す。
実際、圭吾の顎は出ていないが。
「違う!」
「そうだ。ん、んー!ひゃっほー!」
両手を上げる。
「違う!違う!違う!」と足をばたつかせる。
「こんなんだ、こんなんだ、こんなんだ!」と足をばたつかせる。
「じゃあ、お兄ちゃんはこんなんだ!」と言って圭吾は仁王立ちをして地面を睨んだ。
「なんだそれ」
「お兄ちゃんはずっと怒ってる」
睨み方がよく分からないのか眉をくねくねと動かし、唇をもごもごさせる。
目は時折白目になる。
「全然怖くねぇし。それ、睨んでるつもりか?」
返事をせずに仁市の真似をし続ける圭吾に背を向ける。
「もう満足か?行くぞ」
「ねぇ、何処行くの?」
「ゲーセンと公園以外の場所」
「えぇ~!」とわざとらしいくらいに肩を落とす。
仁市には行くあてがなかった。
圭吾の家が何処にあるのか知らないが、あまり遠くへは行けない。
自宅に連れて行くわけにもいかないし。
来た道を引き返して歩き続ける間、圭吾はご機嫌にさっきの聞いたこともない歌を口ずさんでいた。
それを無視し続ける。
風が涼しくなってきたとは言え、長く歩けば汗ばむ。
先ほどオレンジジュースを飲まなかった圭吾は喉が渇いているかもしれない、と自販機の前で立ち止まる。
「喉渇いたろ?何か飲むか?」
「ううん。いーらないっ。ねぇ、ミニヨン行こうよ!」
ミニヨンとはこの周辺にある有名ショッピングセンターである。
食料品から雑貨までそこで買い揃える事ができ、映画館まである。
「さっきも言ったけど、そんな所に行けば補導される」と再びあてもなく歩き出す。
「あそこにさっ、ミキネコの特別コーナーがあるんだよ」
─何だよミキネコって。
「この前、お母さんと行ったらネコマタが居たんだ!写真撮ったんだ!見たい?」
─猫又?ショッピングセンターに妖怪か。何の話だよ。
「ねぇ、見たい?」
「見たくない」
「見たい?」
「見たくない」
「ねぇ、見た─」
「見たくない」
ちぇっと唇を尖らす圭吾。
「ねぇ、お兄ちゃん。何処へ行くの?」
「さぁな」
猫がいた。
「わぁ!ネコ!」
「あぁ、ネコ」
猫は迷惑そうにこちらをチラリと見て立ち上がるとお尻を向けて歩き出した。
「何処行くのかな?」
「さぁな」
「ついていこうよ!」
「好きにしろ。俺は遠慮する」
そう言って来た道を引き返すと圭吾は「お兄ちゃん!」と急いでついてくる。
適当に角を曲がると広い庭を持つ大きな邸宅があった。
そこにはドーベルマンが二匹放し飼いされており、高い塀があるとはいえ、その光景は恐ろしかった。
仁市の後ろを歩く圭吾がビクッとした瞬間、ドーベルマンが唸りだした。
門扉も閉まってるし、高い塀だってあるが剣幕が恐ろしい。
圭吾が怖がるのも無理はない。
「お、お兄ちゃん」
「大丈夫だ。此処までは来ない」
しかし、唸りながらそろりそろりと獲物を見つけた猟犬のような姿勢で近付いてくる。
その目は明らかに圭吾狙いだ。
「お、お兄ちゃん」
「目を合わせるな」
しかし、圭吾は堪らなくなって駆け出した。
その瞬間、低く獰猛な声で吠え始めた。
塀を隔てて追ってくる。
─うっひょー!さすが番犬! かっこいいなぁ!
「圭吾!待て!大丈夫だから!」
そう言ってもなかなか止まらないが小学二年生の足に負けるわけがない。
仁市は直ぐに追い付き圭吾と並走した。
「いやー、今日はジョギング日和だねぇ。──圭吾。もう、大丈夫だ。犬は追って来ない」
仁市は圭吾の前に回り込んで行く手を阻んだ。
「良いことを教えてやろう、圭吾」
息を切らした圭吾に視線を合わせる。
「動物の前では絶対に走るな。走れば必ず追ってくる。草食や肉食に関係無く追ってくるぞ。そして、攻撃される。動物界では背中を見せる奴は弱い奴だと判断されてやられる。あと、目は合わせるな。喧嘩を売っていると思われる。目をそらした瞬間、攻撃されるぞ。ああいう場合は、素知らぬ顔で通りすぎるのが一番だ。あんな高い塀があるんだ。いくら身体能力が高くても棒高跳びの選手くらいしか越せないよ」
「こ、怖かった──」
「あぁ、そうだな。俺も怖かったよ」
「お兄ちゃんも?」
「あぁ」
そう言って立ち上がると再び歩き出す。
こんな風に他人とまともに話をするのはいつぶりだろう。
─まぁ、これがまともと呼べるかは疑問だが。
学校へ行ってもいつも一人で過ごすので、長い間家族以外の人間と話をしていない。
クラス内での活動になると、渋々話し掛けてくるが、それも上部だけだ。
仁市は顔も声色も無愛想だが聞かれた事には素直に答える。
しかし周りはその無愛想に「こいつには何を言っても無駄だ」と諦める。
決定的な虐めがあるわけじゃない。
自分から距離を置き始めたら、その溝は瞬く間に底の見えない暗闇へと変貌した。
距離を置こうと思った時、仁市の心に何が起こったのかは分からない。
何を思ってそうしたのかが分からない。
少しの反抗がそうさせたのかもしれない。
自分はこいつらとは違うんだと少しでも主張したかったのだろうか。
「お兄ちゃん、ずるーい。さっきの神社だよ」
鳥居を見ながらふて腐れる圭吾の声で現実に戻る。
「此処なら誰も来ないし補導はされない」と再び濡れ縁に座りながら圭吾を見る。
「怖いワンちゃんもいないしな」と言うと圭吾が頬を膨らませた。
─こいつは何故学校へ行かないのだろうか。
「お前、体調が悪いなんて嘘だろう?」
つまらなさそうに俯きながら小さな円を書くように歩いていた圭吾は、仁市の言葉にあからさまに動揺をみせる。
まぁ、こいつなりに事情があるのだろうとそれ以上突っ込みはしなかった。
すると、暫くして圭吾が仁市の目をじっと見た。
「お兄ちゃんは頭がいいから学校へ行かないの?」
「そう─だ」
それだけではないが。
「僕、別に頭は良くないんだ。成績は普通。体育も音楽も普通だし。クラスで真ん中くらいかな」
「もっと賢くなりたいとは思わないのか?」
「─なりたい。だってお兄ちゃん格好いいもん」
「まぁな。俺は外見も中身も抜群に良いのさ」と冗談混じりで言ってみたが、圭吾は満足そうに頷いた。
何だか恥ずかしい。
照れを隠すように話続ける。
「俺だって何もしていない訳じゃない。勉強だって運動だって努力はしてる。何もしていないのにいきなり天才は生まれない。才能があればそれはぐんぐん伸びる」
「頭が良かったら学校へ行かなくてもいいの?──だったら僕、頭が良くなりたい」と圭吾が隣にちょこんと座る。
「そんなことはない。大人が仕事をするように、子供の仕事は学校へ行く事だ。頭が良かったら働かなくていいなんて事は通用しないだろう?」
「大人は皆仕事してるの?サボったりしないの?」
「そりゃサボったりするだろうさ。大人だって疲れたり嫌になったり挫けたりする。子供と同じくらい結構忙しいんだよ」
「そうなの?」と目をパチパチさせる。
「お前のお父さんもお母さんも、お前と同じように悩んだりしてるはずだ」
「僕、早く大人になりたいって思ってたんだけど。なんだか大変そうだね」
「そうだ。大人になると色々と大変なのだ」と偉そうに言ってみる。
「ねぇ、何で仕事をしなくちゃいけないの?」
「したくないならしなくてもいい。ただし、働かなければ金が入らない。お前の行きたがっているゲーセンに行っても遊べないぞ」
「僕達は学校へ行かなきゃいけないの?」
「そうだな。行きたくてもそうできない子供だっている。俺達は恵まれているんだ。だけど、圭吾。行きたくなけりゃ行かなくていい。学校へ行く事が大切なわけじゃない。何を得るかだよ。お前は将来何になりたい?」
「ん?」と頸を捻る。
「将来の夢だよ」
「ん、んー」ともじもじ。
「なんだよ。恥ずかしくて言えないか?まぁ、いい」
「──博士。僕、恐竜が好きだから、恐竜博士になりたい」
「そう。それはかっこいいな」
そう言うと圭吾は満足そうに笑う。
「でも─博士になるには学校に行かなきゃならないよね」と言って俯いた。
「学校が嫌いなのか?」
「嫌いじゃない。行きたいもん。今日だって本当は──」
言おうか言うまいか悩む圭吾を横目に見て仁市は言葉の続きを待った。
「─ぼ、僕。皆に嫌われてるんだ」と声を震わせる。
「お前なんて─嫌いだとか、喋るなとか、しん──死んじ」
「圭吾」
圭吾は口をへの字に曲げて泣くことを堪えようとしている。
─さっきまでは簡単に涙を流していたのに。
「ぼ、僕が学校に行ったら皆に迷惑がかかるんだよ」
「虐められてるんだな」
「たぶん」と圭吾はこくりと頷いた。
一人にはなりたくない、話だけでもしていたいと言ったりシーソーをしたがったのは遊ぶ相手がいないからだったのか。
─いずれも一人ではできない。酷い事を言ったな。
「僕、お兄ちゃんみたいにかっこ良くなりたい」
─馬鹿だなぁ。俺なんてちっとも。
「強そうだし。見た目は怖いけど友達を守ってあげてそうだもん」
─友達なんて、いないよ。
「何で僕は虐められるのか分からない。これって駄目なのかな?」
「駄目じゃないよ。理由は加害者に聞かないと分からない事もある」
「蚊が医者?」
「加害者。虐めているやつだ」
「─僕。前、篠田くんに聞いたんだ。何故こんなことするの?って。そしたら、五月蝿いっ!嫌いだからだって言って肩を叩かれた。それ以外に理由はないって。痛かったからもう聞いてない」
「虐めるのに理由がない訳じゃない。物事が起こるには必ず始まり─きっかけがある。お前の場合、その篠田って奴に何かした訳じゃなさそうだな。はっきりした原因があるなら篠田はその理由を言うはずだ」
「言わないかも」
「言わないなら、言わない理由がある。それは篠田自身に何か言えない理由があるのかもしれない」
「僕、篠田くんとあまり話をしてないんだけどな。悪口だって言った事ないし。嫌いだなんて思ってなかったのに」
「人は自身の理解や解明できる範疇にないものに対して恐怖や嫌悪を感じる」
「へ?」と圭吾が口をぽかんと開ける。
「自分の理解のできない事、自分が受け止められる範囲外の出来事に遭遇すると怖いとか嫌いだと思い拒絶する事があるって話だ。自分にとって負と─マイナスとなりそうなものを嫌うんだ。押さえ付けようとする」
圭吾がこちらを見つめる。
「ほら、意味の分からないものって自分にどんな影響を及ぼすか分からないだろ?無害かもしれないが、危害を加えるかもしれない。怖いだろ」
「怖い─」
「うーん。そうだなぁ。──箱」
「箱?」
「そう。箱だ。箱って言えばどんな物を思い出す?」
「えっと、何か物を入れるんだ。おもちゃ箱、筆箱、お弁当箱。あと──お菓子箱」
まだまだ上げてきそうなのでそれを止めるように言葉を発する。
「うん。そういった箱は中に何が入っているのか知れているよな。おもちゃ箱にはおもちゃ。筆箱には筆記用具。じゃあお菓子箱には?」
「お菓子」
「そうだ。それは圭吾にしか通じないルールだったりするもんだ。他の人が見てお弁当箱だと言う箱に筆記用具を入れてしまえばそれはもう筆箱になってしまう」
そう言うと圭吾が嬉しそうに笑った。
「変なの!あ、でもお母さんが近所のおばさんから貰ったクッキーの缶に封筒入れてたよ!」
「そう。そんな感じで自分のルールでクッキーの缶は小物入れにでも何にでもなる。他人がこれはクッキーの缶だからクッキーしか入っていないと言ってもね」
「クッキーの缶にご飯を入れればお弁当箱だ!」と笑う圭吾。
「そうだ。箱に蓋をしてしまえば何が入っているのか分からない。クッキー缶のはずなのに、クッキーが入っているとは思えないような重さだったらどう思う?すっごく重いんだ。一人じゃ持ちきれない程に」
「何が入ってるんだろうって思う」
「すると、音が聞こえる。カサカサとかゴソゴソとかカチカチって」
「開けたくない。何が入ってるのか分からないから怖いし。開けたら襲って来るかも」
「そう。クッキーが入っているはずなのに違うものが、何か分からない物が入っている。気味が悪い、怖いと思うわけだ。開けてみるまで何が入ってるのか分からない。それが恐怖に繋がるのさ。自分の理解できない物に怖いとか嫌いだと思う。自分に危害を加えるかもしれないって。相手にその気はなくても、自分にとってマイナスとなりそうなものを力や権力で押さえつける」
虐めだけではない。
社会で起きている企業戦争や昔からある奴隷や差別なんかもそうだ。
相手の知識や体力などの可能性に脅威を感じて押さえつけるのだ。
それだけが原因とはいかないが、そう言った恐怖心や嫉妬心が混じっていないとは言いきれない。
いつ自分が潰されるかと戦々恐々とし、攻撃的になる。
知らぬというのは恐ろしいものだと思う。
圭吾は理解できたのかできていないのか判じかねるような表情で「ふーん」と言った。
─時間が経てば分かるようになるさ。
「ねぇ、僕、どうすればいい?」
「どうって──」
─それが分かれば苦労はしない。
「んー。圭吾はどうしたい。篠田と仲良くしたいか?」
圭吾は即答する。
「無理だよ。僕はそんなにオヒヨトシじゃありません!」
「は?オヒ?」
「オヒヨトシだよ!お兄ちゃん知らないの?」
─それは、もしかして。
「お人好しの間違いだろう。そんな言葉をどこで覚えた?」
「近所のおばさんがよく言ってるんだ。浅田さんの奥さんはオヒヨトシしねぇ~って。意味はお母さんから聞いたんだ」
仁市が「お人好し」と言い直してわははと笑い、圭吾はんふふと笑う。
そしてふと真顔に戻る。
「僕、篠田くんとは仲良くなれない。それでいいのかな?先生は仲良くしろって言うけど。そんなの無理だよ。謝ってきても仲良くは出来ない。今は無理」
「それはそうだ。篠田は謝ろうとしているのか?」
「ん、んー。きっと近いうちに謝ってくるよ」
「今までよりももっと酷い事をされたのか?」
「うん。とても酷い事をした。きっと僕は許せないと思う」
「そう」
「それって駄目かな?許さなきゃいけない?」
「それはお前次第だろう。両親や先生が何と言おうと自分の気持ちに従えばいい。許せないなら許せない。それでいい。間違ってはいない。今は周りから何と言われても自分の思いに従うべきだ。許せないならその理由をしっかりと言えばいい」
「でも僕、一人は嫌なんだ。皆と遊びたい」
「できるさ。皆と遊べるようになる」
虐めのリーダーは篠田だ。
リーダーが圭吾を虐めなくなれば周りの状況は変わるだろう。
「お兄ちゃんは?」
「ん?」
「友達と喧嘩するの?」
「俺には──友達なんていないよ」
「うっそだぁ!」
「嘘じゃない。いないんだ。友達」
「欲しくないの?」
「ほしいさ」
─ああ。友達ほしいんだ、俺。
「作らないの?」
「ん、んー。友達ってのは作るとか作らないの話じゃない。できるかできないかだ。俺にとっては」
「そうなの?」
「俺には─できないんだよ」
─作ろうともしていないくせに。
「できるさ。お兄ちゃんも。皆と遊べるようになるよ」
その言葉に驚き、横に座る圭吾を見る。
「お兄ちゃんも自分の気持ちに従えばいいんだよ。自分の気持ちを素直に言えばいいんだ」
─うっひょ~。
「何を偉そうに言ってるんだ」
圭吾は嬉しそうに笑う。
すると「あ」と言って空をキョロキョロと見た。
「あ。もうそろそろ行かないと」と圭吾が立ち上がる。
「お、帰るか。送ろうか」
「ううん。大丈夫。一人で帰る」
─一人は嫌だと言っていたのに。
「そう。気を付けろよ」
「うん。お兄ちゃんもね」と言って歩き出す。
圭吾は振り返って「まったねぇ~!ネコネコ、ネッコまたぁ!」と手を振った。
「元気でな」
そう言って手を振り返すと圭吾は笑顔で答える。
小さな背中はひょろりと今にも消えてしまいそうだった。
─上手くやれるだろうか。あいつも、俺も。
鳥居を抜けて左に消えた圭吾を見届けると力が抜けた。
慣れない子供を相手にして疲れたのだろう、家に帰って休もうと思い仁市も帰宅した。
翌日、朝礼に間に合うように登校する。
すると、クラスメイトたちが珍しそうにこちらをチラリとだけ見てから視線をそらした。
─さて、どうしたものか。
誰に何から話をしようか考える。
─今頃あいつも悩んでいるのか。
仁市は室内を見回す。
その時最初に目が合った人物と話をしてみようと思ったのだ。
仁市が顔を上げると視線を合わせないようにするためか、全員があらぬ方を見た。
─わざとらしい。そっちがそうならこっちも話し掛けないさ。
話してほしくないなら、こちらもわざわざ話し掛けたりはしない。
「おか、岡田くん」
─ん?
何処からか声が聞こえてきた。
「お、岡田くん」
振り返る。
丸い眼鏡をかけた色の白い昆布のような男がびくびくしながら何かを渡してくる。
後ろの席の──
─名前、何つったっけかな。
「これ、昨日配られた数学の宿題」
「お、サンキュー」と馴れ馴れしく言ってみる。
相手の反応は──
「今日提出だって」と仁市の挑戦に気付かない。
「え!今日提出?」
こんな数学の問題の一問や二問、仁市にとっては眠気覚ましにもならないが少しだけテンションを上げてみたのに無反応。
─なんだよ。
「うっひょ~」
「え?うそ!」
反応あり。
─けど俺、今何か言ったか?
「ん?」と聞き返す仁市。
「え、あ、いや。その──」
「なんだよ~」と馴れ馴れしく言ってみる。
今度は軽く肩を押す。
─友達みたいだろ?圭吾。みたい、だけど。
「岡田くんってミキスケネコマタチンドウチュウ観てるんだ」
「は?」
─何だって?
「このクラスじゃ観てるのは僕くらいかなって思ってたけど」とニヤリとする。
「ミキ─なんつった?」
「あれ?観てないのか」としょんぼりする。
「三木助猫又珍道中。江戸時代に生きていた三木助って大店の息子と猫又、これは妖怪なんだけど、その二人がこの時代にタイムスリップするって話。まぁ、子供向けのアニメ番組なんだけど。なかなか面白いんだよ。社会風刺も混ざってて」
「ネコ?珍道中─」
その二つのワードはつい最近耳にした。
「江戸に居た頃の二人はそれぞれ葛藤や問題を抱えていたんだよ。この時代にタイムスリップしてそれと向き合うんだ。ドジな猫又を文句を言いながらも世話する三木助も面白いんだ。まぁよくある話なんだけど。その猫又の口癖が「うっひょ~」とか「うにゃ~」なんだ。さっき岡田くん、うっひょ~って」と名前を思い出せない男が恐る恐るこちらを見た。
「あぁ、なるほど。そうだったか」
─圭吾だ。あいつの口癖が移ったのか。あいつも三木助猫又珍道中を観てるんだ。
「ん、んー。もしかして『うにゃ~!ネコネコ、ネッコまたぁ!』って歌が流れるか?」
数時間一緒にいるだけで歌を覚えてしまった。
「う、うん。それエンディングテーマだよ」と少し表情を固める。
─やっぱりそうか。観てるんだ。
朝礼終了後、担任が仁市を呼び出した。
「お前、髪の毛」
仁市は担任の頭を見る。
─相変わらず薄いね。
「お、俺の髪じゃなくて、お前の髪の色だ」と仁市を睨む。
「黒くしてこいって言っただろう」
「ん、んー。忘れてました」
「昨日一日何してた?休みの連絡は無かったぞ」
「神社で心を鎮めていました」
─嘘と真。
「とにかく今日はそれでいいから明日は黒髪で来い」
─気に入ってたのに、残念だ。たった三日の銀髪だったなぁ。
圭吾は今頃どうしているだろうか。
この髪を見て「おじさん」と言った。
見た目で判断されたのだろう。
次に会うとき黒髪だと気付かれないかもしれない。
そうなると悲しいなと思う。
三木助猫又珍道中。
昨日あいつはその登場人物になりきっていたのかもしれない。
ウニャウニャ言っていたから猫又の方だろう。
お気に入りなのだ。
篠田とかいう悪ガキに何か言われていないだろうか。
あいつは恐竜博士になるんだ。
挫けるな圭吾。
下校途中に染髪剤を購入するため薬局へ寄ろうと、いつもとは違う道を歩いていた。
昨日、圭吾と歩いた公園がある。
試しに中を覗いてみる。
すると、二人の男の子が公園からでてきた。
年頃は圭吾と同じくらいだろうか。
一人はふっくらと丸く、一人は並の体型の圭吾よりもほっそりしている。
二人は仁市のことをチラリとだけ見て通り過ぎた。
その時、どちらかの口から「たちばながおきた」と聞こえてきた。
─たちばな、たちばな。立花?どこかで聞いた。立花、圭吾か。圭吾の苗字だ。
この二人は圭吾の知り合いなのかもしれないと思い、意味もなく後をつける。
─おきた。ってのは『起きた』かな。立花が起きた。どういう事だ。
「ねぇ、ヒトシくん。どうしよう」とやせっぽちの方。
「うるせぇ」と丸い方。
「立花が起きたって本当かな?」とやせっぽちが今にも泣き出しそうだ。
「そ、そんなの知らねぇ」と丸い方も動揺している。
「立花、先生に言うかな」
「知るかっ!」
「立花が僕たちの事を言ったら、僕たちどうなるんだろう。怒られるかな、逮捕されちゃうのかな」
─おいおい、逮捕ってなんだよ。
「た、逮捕されるわけないだろ!」と丸い方は明らかに戸惑っている。
「僕たちが押さなきゃ立花は落ちなかったんだよ」
「う、うるせぇ!わざとじゃない!」
仁市は気になってつい声をかけてしまった。
「おい、お前たち」
ギクッとした表情で振り返る二人の名札を確認。
ほっそりした方が山根利幸。
丸い方が──
─やっぱり。篠田だ。篠田仁志。
篠田仁志の名札を見て、圭吾に『仁市』という字を見せた時の反応を思いだした。
─間違いない。こいつが圭吾をいじめるやつだ。
「お前たち何年生だ?」
「に、二年生」と篠田。
「立花って立花圭吾の事か?」
視線を合わせずに二人を見下ろすような格好で言う。
この二人と仲良く話す気にはなれない。
「そう──おじさんは」と篠田。
「おじさん?」
「おじさんは立花の家族?」とびくびくしながら聞いてくる。
「俺はおじさんじゃねぇし、あいつの家族でもない」
そう言うと二人はホッとする。
「俺は──俺は──圭吾の」
怪訝な表情を見せる二人。
「おい、圭吾は。圭吾が起きたってどういう事だ」
「そ、それは──」と山根は言葉を詰まらせる。
「なんだ」
「びょ、病院──」とモゴモゴする。
「病院?何で病院だ」
「そ、それは」と山根はもう半分泣いている。
「はっきり言わなきゃ伝わらねぇんだよ」
その言葉で本格的に山根は泣いた。
チッと舌打ちをする仁市に篠田が肩をビクッとさせる。
「お前に聞こう。圭吾がどうしたって?」
篠田は鼻をすすり上げ目を赤くさせる。
「T病院にいる。昨日の朝に──学校の階段から転んで──病院に行った」
─お?
「昨日はずっと目を覚まさなくて──ずっと」
─お?
「ずっと、病院に居た。今日もまだ病院。学校から帰る時、さようならの挨拶の時─先生が皆に教えてくれた。立花が起きたって。起きたけど、あまり意識──?がはっきりしないって」
─ん、んー。それは、変じゃなかろうか?
「昨日の朝に階段から落ちて病院へ入院した。それから今まで一歩も外へ出ていないのか?」
「うん。ずっと──起きなかったって」
─おいおい。じゃあ俺が昨日話していたのは誰だ?
立花という苗字は珍しくはないが、そうゴロゴロいるものでもない。
ましてや同姓同名なんて。
学年も被っているし。
「T病院だな?」
「え?─そう。T病院」と頬に涙を伝わせる篠田。
「反省してるのか?」
二人は溢れ出る涙を拭うが、ひっきりなしに伝ってくる。
「申し訳なかったと心の底から言えるか?」
何度も頷く二人。
─子供だからと言って容赦しないぞ。
「嘘だな。お前たちは圭吾に申し訳ないとは思っていない。お前たちは自分の罪が誰かにバレるのが怖くて泣いているんだ。お前たちがしようとしているのは、自分の罪の意識を軽くさせるためだけの謝罪だ。『立花が僕たちの事を言ったら怒られるかな、逮捕されるのかな』って言ってたろ?自分の事しか考えてない証拠だ。もし、ずっと圭吾が目を覚まさなくて──覚まさなくてお前たちが大人になったらお前たちは本当の罪の重さを知る」
─圭吾。
「他人の人生をねじ曲げた罪は重いぞ」
─昨日のお前は圭吾だったのか?
二人は大声を張り上げて泣き崩れる。
「子供は嫌いだ」
仁市はそう言い残して歩き出した。
T病院へ急いだ。
─おいおい。圭吾。お前。一体全体どうなっているんだ。
あれは圭吾ではなかったのか。
いいや、あれは圭吾だ。
同姓同名の同い年なんて滅多にいるものでもない。
では、やはり昨日のは圭吾だったのだ。
だが、ずっと病院で眠っていたと言っていた。
そのような状況で会えるわけがないのだ。
─どうなっているんだ?
とりあえず圭吾の姿を見たい。
万が一にも同姓同名の同い年ならばどうってことない。はずだ。
そいつが篠田という同級に虐められているとしても、万が一ならば可能性としてはなくはない。はず。
昨日と同一人物ならば──
─ん、んー。もう、うっひょ~だぜ、圭吾。
病院に到着する。
受付で病室を聞くときは緊張した。
意識不明のような状態ならば会うことは叶わないかもしれない。
しかし、それは杞憂に終わる。
─個室か。
そろりと扉を開ける。
ベッドの上で窓の向こうを見つめる小さな人。
白く無機質で静かな病室にはその人物しかない。
その頭は圭吾のようにも見えるが違うようにも思う。
─どっちだ。
「誰?」
仁市の登場にベッド上の人物がこちらを向いた。
頭にネットを被せられている。
とてもゆったりとした動作。
─おいおい。
「誰?」
─そんな。
「け、圭吾か?」
そろりとベッドに近付く。
「─そう、だけど」
薄いカーテンが風で揺れる。
─うっひょ~。
「おじさん、誰?」
─やっぱり圭吾だ。
恐竜のパジャマを着ている。
寝癖がひょこひょこ揺れている。
「お、おじさんだぁ?俺は高校生だ」
─冗談だろう?
「だって、髪の毛が白い」
「これは─銀色に染めてるんだ。もうすぐ黒く染めるけど」
─俺の事を忘れたのか?そもそも、どうなっているんだ。
「俺の事──分かるか?」
圭吾はポカンとした表情で頭を振る。
─これは、もしかして。言葉だけはよく耳にする。記憶喪失。いや、違う。昨日一日眠っていたのなら出歩くことなど不可能だ。ならば、やはりあれか。
「お兄ちゃん誰?」
「俺は──岡田仁市だ」
─幽体離脱、か?信じがたいが。それしか考えられない。
「ん、んー。分からないよ」
─俺は分かるぜ、圭吾。
「お前、将来は恐竜博士になるんだろ?」
「へ?」
「──じゃあな。早く退院しろよ」
これ以上此処にいる理由がない。
病室から出るときは圭吾の顔を見ないようにした。
─これでお別れだ。
今では一方的な知り合いになってしまった。
覚えていなかったという事と、もう会うことができないという二重のショックが仁市を襲った。
なんだか酷い喪失感だ。
とても、悲しい。
怪我の具合すら聞くことができなかった。
仁市は財布から昨日の昼食のレシートを出して購入した物を確認する。
そこには間違いなくオレンジジュースが記載されていた。
仁市は深く深く息を吐いた。
─どうなっているんだ。
あの数時間のうちに仁市にとって圭吾は身近な存在となっていたのだ。
しかも、その関わりを確認しようにも己の記憶しかない。
圭吾は仁市の事を覚えてはいないのだから。
そう思うと腹の底から孤独感が沸いてきた。
─夢だったのか。霊魂なんて、存在しないのだから。
夢だったのだ。
夢ならいずれ忘れてしまうだろう。
しかし。
─忘れるには酷だぜ、圭吾。あれは夢とは思えない程に鮮明すぎて忘れるなんてできないよ。お前は厄介なものを残してくれたな。
数日後、大幅な遅刻をした仁市を放課後に呆れ顔の担任が呼び出した。
「おい、お前。その髪の色」
仁市は銀髪を摘まむ。
「あぁ、これ。お洒落でしょ?金髪は好きじゃないんです」
「そうじゃない。この前、黒く染めて来いと言ったよな?それから学校に来ないと思ったら。一体何をしていたんだ。からかってるのか?」
「そ、そんなことはありません」
─ただ、忘れていただけ。
「じゃあ、何故だ?」
─混乱した。
混乱して動揺して衝撃的で。
ショックで。
「─友達と──突然の別れがあって、少し動揺してしまったんです」
担任は困ったような表情を見せた。
「ん、まぁ、何があったか深入りはせんが、次に来るときはお前の髪が黒くなっていることを願っている。─うまく言えないが、落ち込むな」
担任と別れるとそのまま帰宅する。
今日こそは、と染髪剤を買うため寄り道をした。
もちろん、あの公園を通るのでついでに覗いてみたが、今日は誰も居ない。
─まぁ、そんなもんだろう。
どんなもんかは分からないが、少し歩けば神社があるので少し期待をしながら足を早める。
緑に囲まれた古びた社。
そこには誰も居なかった。
なんだか別れた恋人を忘れられないいじけた奴のようで笑えてくる。
自然と足が鳥居を抜けた。
くたびれている濡れ縁に腰掛けるとフワリと風が吹いた。
心地好い風は全身を包み込む。
ゆったりと目を閉じる。
この風に乗って何処へ行こうか。
公園で逆上がりを教えてやるよ、それが嫌ならシーソーだ。
砂遊びするか?
そう怒るなよ。
分かっているよ。
お前はもう砂遊びで喜ぶような年じゃないな。
じゃあ、ハンバーガーでも食いに行こうか。
その後はゲーセンだ。
明日は学校が休みだから連れて行ってやれるぞ。
何とか言えよ、圭吾。
お前は俺にとって初めての友達なんだぜ。
風が凪いだ。
それと同時に後ろから肩を叩かれた。
振り向いて圭吾が居ても特に驚きはしなかった。
期待していたのは事実だし、期待はずれになることも考えていた。
「お兄ちゃん」
「お、おう」
圭吾は仁市の隣にちょこんと座る。
頭に被されたネットから髪がぴょんぴょんとはみ出ている。
─何故、此処に来た?
「何してるんだよ。病院は?」
─俺の事覚えているのか?
「一昨日に退院したんだ。落ち着いてきたからお父さんもお母さんもお仕事に行ってて。家にずっといても暇だから──」
「寝てなくていいのか?」
「ん、んー。何だか─気持ちが悪くて」
「お、おい!気持ちが悪いなら病院戻れ!何してんだよ」
「そうじゃないよ!ん、んー。何て言うのかな、モヤモヤっていうのかな。あの日──お兄ちゃんが帰った後も僕はお兄ちゃんの事思い出せなかった」
─やはり、そうか。
「でもね、知ってるんだ。お兄ちゃんの事。ん、んー。よく分からないよね。──でも、僕は、お兄ちゃんを知ってる。それがずっと、モヤモヤしてたんだ。─何だか─忘れちゃうのは──嫌だと思った。それだけは、すっごく嫌だった。お兄ちゃんの事を思い出したかった。だから何か思い出すかなって家を出て歩いていると此処に辿り着いた。そしたら─お兄ちゃんがいた。─僕は、全部思い出した。何があったかとか、お兄ちゃんの事も──全部」
背中に圧力を感じると身体がぐらりと揺れた。
目の前には階段。
落ちる。
あぁ。骨が折れたらどうしよう。痛いだろうな。と思った。
階下が歪み、地の底に吸い込まれるような錯覚。
遠くで叫び声が聞こえてきた。
意味が分からなかった。
どうなっているんだ。
状況が読めない。
気が付いた時にはベッドに横たわる自分を見ていた。
自分が見つめる自分は、手や口、鼻から様々なチューブが出ており、その先はテレビなんかでよくみる機械が繋がれていた。
ベッドの横には泣いているお母さんと悔しそうなお父さんがいた。
とても不思議な感覚で怖かった。
─あぁ、死んだんだ。
と圭吾は思った。
でも、死んだなら機械がピーとピコンピコンかいう変な音をたてて、お医者さんが駆けつけるはずだとも思った。
─僕は、幽霊なのかな。
その証拠に両親は起きている圭吾には全く気が付いていない。
眠っている圭吾しか見ていない。
その時、部屋の扉が開いて担任の松原先生と校長先生が入ってきた。
二人は両親に気が付くと深く頭を下げて謝罪した。
両親は何も言わずに二人を睨む。
誰も圭吾には気が付いていない。
担任と校長はなんと、圭吾の身体をすり抜けた。
自分が空気になったようで気味が悪かった。
四人が難しい言葉を使いながら話をし始めたのでつまらなくなった圭吾は病室を飛び出した。
不安や恐怖は消えていた。
今は自由に飛び出すべきだと思ったのだ。
よく分からないが、すぐに自分へと戻れる気がしたのだ。
その間、散歩でもしよう。
院内を歩いていても誰にも何も言われない。
自分の姿を確認しようとしても鏡に映らない。
─ん、んー。幽霊だ。
悪戯でもしてやろうかと思ったが手は宙を切るだけで物を掴めない。
触れることさえできない。
自動ドアなんて開かなくてもそのまま、外へと出る事ができた。
─触ることができなかったら、何もできないじゃないか。つまらないなぁ。幽霊になっても結局は一人なんだ。
一人フラフラ、というかユラリユラリというか、そんな調子で歩いていると神社を見つけたので鳥居を抜けた。
誰も居ない寂れた社に居たのは若い男だった。
若く見えるが髪が白い。
年が分からない。
彼は気持ち良さそうに眠っている。
どうせ見えないのなら何でもしてやれ、と思い付く限りの可笑しな顔を男に向けた。
─こんなに変な顔を見られないのは残念だなぁ。
と思っていると男が起きた。
そして、なんと圭吾を睨みながら話しかけてきたのだ。
─み、見えるの?僕が見えるのっ?
しかし、圭吾は思った。
この人は自分を知らないし、幽霊だとも思っていない。
もしかすると、少しぐらいなら遊んでもらえるかもしれない。
圭吾は岡田仁市と言う青年に出会い、とてもワクワクした。
この時間が長く続けばいいな、と思った。
その為には自分が幽霊であることは知られてはいけない。
物に触れるな、人に触れるな、飲んだり食べたりもしてはいけない。
幽霊だとばれると──
制限はあったがとても楽しかった。
最初のうちは嫌々圭吾に付き合っていた仁市だったが、時が経つにつれて笑ってくれるようになった。
大人になっても悩みは尽きないのだと落胆した圭吾だが『学び』そして『成長』することで乗り越えられる事も多いのだと仁市が教えてくれた。
今を生きて状況を学ぶのだ。
無理に合わせる必要は全くない。
理由をしっかりと持ち、相手を受け入れる。
それは我が儘とは別だと考える。
大人になることが今までよりも楽しみになる。
自分の身体に戻るタイミングは直ぐに分かった。
胸の奥が何処かに引き寄せられる感覚。
手を引かれるようにスッと。
それから圭吾は意識を取り戻したのだ。
「だから何も食わなかったのか」
「僕が幽霊だと知られると──嫌われると思った」と俯く圭吾。
「お前は幽霊じゃないよ。よく分からないけど、あの時のお前は幽霊じゃなかった。透けてなかったし足もあった。ちゃんとした人間だったぜ」
─幽霊は透けているし、足がないと相場は決まっている。どちらも当てはまらなかったぞ。
「─篠田くんたちが、ごめんねって。そう言ってきた」
「おう」
「本当にごめんなさいって。篠田くんたちのお父さんとお母さんも謝ってた。篠田くんはね、自分にしか解けないナゾナゾを僕に解かれたから、僕が気に入らなかったんだって。可笑しいよね。──僕、許せないって言ってたけど、本当はよく分からないんだ。許せても、篠田くんを、好きには、なれない」
圭吾は叱られるのを恐れるような表情でこちらを見た。
「いいんだよ、それで」
仁市は濡れ縁から飛び降りた。
「さぁ、行こうか!」
「何処に?」
仁市は圭吾の脇を抱え、濡れ縁から降ろしてやる。
神社を囲む木々がサワサワと風に揺れる音が響く。
その音だけが二人の耳に届いた。
それは至極普通でありきたりな音だ。
しかし心に染み込むこの音は、二人が大人になり離ればなれになったとしても、今この時へと戻れる心地好く爽やかで特別な音となった。
「シーソーでもしたい気分なんだ。付き合ってくれるか?」
圭吾の頬が赤く染まり、表情が笑顔に変わる。
さぁ、行くぞ、圭吾!




