鶴と松
文芸部の方に投げた短編作品です。
あらすじは適当すぎるのは気にしないでください
夜通し雨が降っていた。
ある歌舞伎劇場の前に崩れるようにして座り込んだ男が一人、長夜に降る秋雨にうたれて動かなくなっていた。
なんてことはない。この男――四月一日松は今日、この歌舞伎座から追い出されたのだ。それも、師匠の汚職の件をばらそうとした事で。
信頼していた師匠に裏切られ、数年居座った歌舞伎座から放り出され、途方にくれない事があるならばそれは歌舞伎に一切の信念を持たないものだろう。勿論歌舞伎をやっている輩にそのようなものはいない。彼の師匠の汚職も、彼が歌舞伎をしたいがためのものだ。
「……くそったれ」
地を見ていた目を空へと向けると、空は煌々と光っていた。いや、空が光っていたわけではない。
「そんな不景気な顔をするものでないよ。首を斬られるわけではあるまい?」
十歳くらいだろうか。番傘と提燈を持った少女がいつの間にか松の前に立っていた。
少女は丸く整ったおかっぱの黒髪にはところどころ赤い線が混じっており、白装束に黒と赤の模様が混じったような着物を着ている。
「君のような小さい子に言われるたぁ、俺も落ちたもんだなぁ。いや、確かに落ちるところまで落ちたのかもしれん」
松は表面ではへらへらとしているが、内心は穏やかではなかった。いっそ、この少女をさらって売ってしまおうかと思ってしまう程に精神的に病んでいて、そして明日の生活に困っていた。
「お主、名は?」
少女が問う。
「四月一日松ってんだ。これでも固定客が数人いる程度には頑張ってた役者だったんだがなぁ」
「終わったことを嘆いても仕方あるまいさ。どうだい、私と一緒に来ないか?」
少女はすっと松に手を伸ばす。
違和感を覚えた。話して少し落ち着いたのか冷静に状況判断ができてきたためだろう。松はすぐには少女の手をとらなかった。
こんな時間に、しかも雨の中、こんな少女が歌舞伎座の前を通ることがあるだろうか? この先は山になるし、住宅地からも少々遠い。明らかにおかしかったのだ。
「……」
「どうした? そんなにじろじろ見つめても何にもならんぞ」
ついでに言えば、口調も大人っぽい。これはもしかして狐か何かに化かされているのではないかと考えた。
しかし、結局松は少女の手を取った。
それは、からっぽになってしまった自分に喝を入れる意も込めて、ここでいっちょ化かされてしまおうではないかと言うようであった。
立ち上がると服のあちこちにたまっていた水が一斉に地に落ちた。
「お前はなんて呼べばいい」
体を動かしたせいか、ようやくあたりの寒さに体が感付き、少し声が震える。
「桐ケ谷鶴という。鶴でいい」
「はっ、松に鶴か。縁起がいいこったな」
「あぁ、縁起がいい。これも何かの縁だと私は思う」
さほどの力ではないが、鶴は松の手を強く握った。
背の低い傘に腰を折って入る元・役者男。これからどうするかはこの少女、鶴に任せることにした。
鶴が恩返しするというのは有名な話だが、この鶴は一体何を考えているのか。松は暫く考えたが結局思いつくことはなかった。
松は勘が良く当たる方で、この時点で完全に鶴の事を妖魔の類と決めつけていた。勿論今までの自分の勘の当たり具合などもろもろを考慮したうえでの判断である。
里の外まで歩くと小さな小屋が見えてきた。恐らく誰もいない。そして、きっと鶴の家でもないだろう。
鶴はその家へと松を引っ張った。
濡れた上着を棒にかけ、火を付けたところで素朴な疑問が口から漏れる。
「で、何をするんで」
ここまでの道中二人はほとんどしゃべらず来たため、松は今から何をすればいいのか全く理解できていなかった。
予想したことと言えば、強盗だとか、山までひとっ走りとか、如何にも狐や狸が人間にやらせそうな下らない事だ。彼女が鶴という事を考慮しても、善行をするとは思えない。
「団子作りだ」
「……は?」
「二度も聞くな。団子作りと言っておるに」
ぱちぱちと火の音だけが小屋の中に鳴った。
鶴は松の反応を待ち、松は鶴の言葉の理解に苦しんだ。
鶴がただの少女であれ、妖魔であれ、『団子作り』の為だけにあんな状態であった男を一人、小屋まで連れてきたという事自体が異常でしかなかった。
「私一人では作れんのだ」
「あぁ、なるほど」
鶴のような少女の細腕で米を突き、餅を練るのは確かに不可能だと分かった。
少しあたりを見回すと部屋の隅の薄暗いところに臼と杵、そして米俵が一つ見えた。が、どうやって持ってきたのかが謎である。
「私一人では餅を付けても素早く濡らして返すことができんのだ」
「要するに、あれらは全部鶴が用意したってことか?」
「当たり前だ。他に誰がおるよ」
「……」
前言撤回である。細腕ではなく剛腕であったらしい。
口を閉じてしまった松を余所に、鶴はとてとてと部屋の隅へ行くと臼と杵と米俵を一気に抱えてしまった。
現実離れした光景になんとも言えない松はなお口を閉じたままである。
よいしょ、と鶴は松の傍までそれらを運んだ。
「……女武道」
「ん?」
「いや、なんでもない」
「そうか」
特に難なく準備は進んだ。手慣れているところを見ると、何度も自分一人で団子を作ろうとしたのだろう。
あらかた準備ができたところで鶴は着物の袖を襷で縛り、杵を構えた。
てっきり自分が杵を持つものだとばかり思っていたが、よくよく考えると餅を返す方が技量が必要になるだろう。……まぁ、早突きをするわけではないのだが。
小屋の中で餅を突くというのはなんだかおかしな感覚であった。餅は基本広い場所で着くものだ。少なくとも畳の上で突くものではないだろう。
「よいしょー!」
鶴が可愛らしい掛け声で杵を下ろす。ズドンという良い響きを松は聞こえてない事にした。
杵が上がっている間に餅を返す。返そうとしたのだが――
「うぉぉぉおおおおおお!!」
ズドン。
思ったよりも杵が下りてくるのが早かった。手を引くのが遅れていたら餅に何が混じっていたのか、想像するだけで血の気が引く。
「てめぇなにしやがる!」
「……? 餅を突いているだけだが?」
首をかしげる様子を見るとどうやら悪気はないらしい。
「……もっとゆっくりでお願いします」
「あいわかった」
ズドン、ズドン、と何度も音が小屋の中に響く。そのたびに確実にそれは出来上がっていった。
秋の夜は長いとは言え、団子ができる頃にはひょっとすれば夜が明けているかもしれないだなんてことを考えつつも松は手先に集中した。いや、そうせざるを得なかったという方が正しいかもしれない。鶴の杵振りは油断していると確実に手を持っていきそうであったからだ。
先ほどよりゆっくりにはなっているのだが、疲れを知らないのか等間隔で杵は振られた。一方、松と言えば、ずっと中腰で餅を返す作業に少々ではあるが腰が痛くなってきていた。
暫くして餅は出来上がる。丸める作業にもさほど時間はかからなかった。
「餡は入れずともいいのか?」と聞いたところ「あれは外道だ。本物は中身なくとも旨い」という拘りのような回答をもらったため中身は入れなかった。最も、入れようと思っても材料がないわけだが……。
最後の餅を丸めた頃には空が白くなっていた。
松が歌舞伎座の前でうなだれていたのが長かったのか、それとも餅を突いている時間が長かったのか……。
「終わったぁー」
団子を古びた皿に盛ったところで嬉しそうな声が隣から飛んでくる。当人はそのまま倒れ込んだが、どうやら疲れているわけではないらしい。松の方もだてに役者をやっていない。体力ならそれなりの自信があった。
「ところで、これをどうすんだ。自分で食うのか?」
「いや、供えるのさ。……どうせ気がつているんだろう?」
どうやら松の勘は当たっていたらしい。鶴はやはり鶴であった。
「てーと、恩返しか。んで、その返し主はもう死んじまったと?」
「うむ。私がもたもたしている間にな……。情けないものだよ」
鶴は並んだ団子を見てため息を吐いた。安堵と自嘲の混じったため息だというのは部外者の松でもわかった。
要するに鶴は正しい事をしようとして失敗したのだ。すべき時を誤ったと言ってもいい。その点においては松も同じであった。
汚職の摘発など、自分がもっと力を付けてからでも良かったのだ。無論、それがいつになるかわからない以上、黙り通し続けれるかはいまいち微妙な線ではあるが。
「すまんな、松には今は何もしてやれん。力は使い果たしたからな」
はっはっは、と陽気に天井を見上げるその様は実に痛ましかった。
「かまわんさ。いい転換点になった」
「そうか」
短い応答以降、少し沈黙があったが鶴は皿を持って立ち上がった。墓の前に届けに行く心構えができたのだろう。
小屋の前に出ると雨は上がっていたが、二人にはいつ雨が止んだのかわからなかった。雨音よりも鶴の杵がくり出す音の方が大きかったのか、あるいは……。
「して、松はこれからどうする?」
胸の前に丈にあわない大きな皿を抱え、団子の横から顔をぬっとだした鶴が別れ際に問うた。
「……そうだな」
空を見上げると白から青へと色が移ろっている真っ最中だった。雲はほとんどない。
「……団子」
「ん?」
「や、歌舞伎座にはもう戻れないだろうし、団子屋ってのもいいんじゃねぇかなと思ってな」
思い付きでこの先を決めようとする姿に鶴は少々呆気にとられ、そして陽気に笑った。
どこからみてもいい笑顔だった。松はどことなく安心する。
「元歌舞伎役者の団子屋か。いいではないか、面白い」
「そうと決まれば、どっかの甘味処にでも弟子入りするか」
にかっと笑う松の笑顔は完璧なようでどこか鍍金を張ったように見えた。
「……松のおかげで不景気な顔で恩返しせずに済みそうだ」
「そうか、それはよかった」
「じゃあ、これでな。私はこちらだ」
「あぁ、頑張れよ。俺はこっちだな」
振り返ることはなかった。
山の麓に小さい足跡が一人分。山から里への道に大きな足跡が一人分。
二人の足跡は、湿りつつもしっかりとした土に残った。
暫く後の事だった。
人里で一件の団子屋が有名になる。餅も餡子もとても美味と評判であった。
「主、評判の団子を頼む」
幼い少女の声が店の奥にいるであろう店主に放たれる。
「へい」
少し待つと店主は通りの方を向いて座る少女の横に、すっと皿にのせた団子を串二本置いた。少女は依然通りの方を向いたままで串を取る。
はむっ、と少女が団子を頬張る。
良く噛んで呑みこみ、そして言った。
「おい店主。評判に聞いていた餡子が入っておらんぞ」
どこか楽しそうな声音であった。
店主は年にしてはよく通る――まるで役者がおどけて言うように、それに答えて言う。
「お前さん。団子には何も入れない主義じゃなかったのかい?」
少女は陽気に笑った。昔と変わらない笑顔と声で。