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第2章 ~動き出した光・輝きだした時間~
途切れていた意識が戻ってくる、最初に感じたのは風の吹きぬける音、次に土の匂いと草の匂い。次第に視野も回復し、視界に入ったのは匂いと同じく土と草。
半円状になった場所に土肌と無造作にむしり取られたかのように散乱している草。なぜだかわからないが目が覚めたら広がっていた景気。
なんでこんな場所で寝ているんだ? と、まだ働いていない頭で考える。順を追って考えていこうと思い至り、まず昨日のことから思い出す。
終業式が終わって帰宅し、夏休み会議をして、適当な時間に解散。その後晩御飯を食べて風呂を済ませて、テレビを見た。それで流星群のことを知って丘に向かった。そしてそこで天体観測をしてたんだ。
そうだ天体観測をしていたんだった。じゃあそのまま寝て朝になったら寝相が悪くってこんなところまで転がってきた? いやそんなわけわない、流石にそこまで寝相は悪くないからな。じゃあ、何があった?
真剣に一人思い出す。
ああそうだ、思い出した。いきなり空から星が降ってきたんだった。
改めて辺りを見回す、ということはこの窪みはあの時の流れ星が穿ったクレーターの中なのか?
窪みの一番深くなっている所に視線を向けるとそこには想像通りのオブジェクトが鎮座している。
何色にも染まっていない白、左右上下対称の流線型を描いたフォルム、何らかの規則を持ったように彫られている幾つもの溝。そのどれもが意識を失う前にみたモノと合致していた。
あれは一体何なんだ? 思考の赴くままに身体を動かそうとするけれど動いてくれなない。
全身に走る痛みを重たく感じてはいるが、それ以外にも重さを感じていた。脚に掛る物理的な重さ、弾き飛ばそうと思えば簡単に飛ばせる程度の重量だったが、その重さに脚を押さえ続けられていたせいで痺れていており、あまり力が入らなかった。
重さの元凶を確かめようと視線を足元に落とすと、そこにいたのは一人の女の子。
あまりの唐突な出来事に驚き、脚に力を込め吹き飛ばしそうになったが、理性をフル動員させてどうにか行動に移さずに済んだ。
色白で華奢な彼女の額にはまだ真新しい傷の跡がある。出血自体はもう収まっているようだが、額から垂れていった血の跡が頬を伝い、僕のズボンにまで達していた。
見るからに痛々しい傷だ。顔色もおそらく元々白いのだろうけれど、不健康そうな白さに見えた。このままでは危ない、そう感じ急いで病院へ連れて行こうと考え、一先ず彼女の下から脚を抜く。刺激をしないように最大限に優しく、ゆっくりと動かす。
どうにか脱出して彼女をみると、僕の脚枕がなくなったせいで、顔を直接地面に付ける形になっていた。その姿を見てどうしてもいたたまれなくなり、慎重に仰向けにさせた。
姿勢も直してあげたので、脱出した目的である病院へと連れていくために携帯電を取り出して119と押してコールをしようとする。
が、コールボタンを押す直前に脚を何かに掴まれた。
脚を掴んでいるのは一つの手、腕を辿った先にいるのは倒れていた女の子。
その子が口を動かして何かを話している。けれどその言葉は何と言っているのか聴きとることができなかった。が、口の動きが止まって四半秒と掛る前に頭の中に直接響いてくるかのような声が聴こえた。
「病院、駄目」
最初、彼女の声かと思ったけれど、直感的に違うと思った。根拠など何一つとしてない、けれど“違う”ということだけはなぜかわかった
ならほかにだれがいるのか? と辺りを見回しても誰ひとりとしていない、あるものといえば空から降ってきた謎のオブジェクト、これくらいだった。
それでも病院に行った方がいいんじゃないですか? と言い返そうと思ったのだけれど、言った所で、もう一度病院は駄目、といわれるような気がしたので、言葉を飲み込んでおく。
「なら、どうしたらいい?」
どうすればいいのか僕には浮かぶ手立てがなかったので、行動を彼女に委ねることにする。
また小さく口を動かす。
「君の、家」
「えっ!!」
思わず口が勝手に動いていた。考えるよりも先に口が次の言葉を放つ。
「僕の家に来るくらいだったらやっぱり病院に行った方がいいって」
「お願い、病院、駄目」
こんな重体にも関わらず、なぜ病院を頑なに拒むのかはわかわらないけれど、要望通り連れていくと苦渋の決断をくだす。
「本当に僕の家でいいんですね?」
確認のために訊く。
小さく縦に動く首、本当にいいんだなと思い至り、連れていくと決意する。
「身体起こせます?」
起こすことができるのなら、おぶって運ぶことができるので訊いてみる。
けれど、首は横に振られた。
マジかぁ、と心中で呟き、しょうがないと腹を括って心を決める。
仰向けで寝転んでいる彼女の横に立ち、跪いた体勢になる。間近でみる彼女の顔は一見したら、作り物なのではないのかと思ってしまうくらいに綺麗に整っている。纏っている服は白いライダースーツの様なもので身体に密着し、女性らしいラインがはっきりとわかってしまって、露出があるわけでもないのに目のやり場に困り、ドキドキしてしまう。
苦しんでいる女の子を目の前にして、こんなことを考えているだなんて自分で自分をぶっ飛ばしてやりたい。下心よフライアウェイ。
このままでは僕が持ちそうにないので着ていた薄手の上着を気休め程度ではあるけれど彼女に掛けてあげる。
短く一回息を吐いて、気合いをいれる。
脇の下と太ももの辺りに腕を回し、勢いよく立ちあがる。
「うぉ!!」
驚いて声に出していた。
驚いた理由は至極簡単。持ち上げようした彼女が想像以上に軽かったから。あと少しだけ強く力を入れていたら持ち上げるのではなくて、投げ飛ばしていたかもしれない。どう見たって、今手にしている重量と、身体の大きさが一致していなかった。
両腕に掛る負荷は10キロあるかどうかといったかんじだ。これじゃ小学生よりも軽いということだぞ。どう考えたっておかしい。
もう一度彼女の顔を見つめる。とても苦しそうに見えた。こんな表情を見てしまったら、思いだ軽いだなんてことはどうでもよく思った。
本当はまだ病院に連れていきたいと思っているが、彼女の希望に沿いたい、きっとなにか治す手立てがあるから、ああ言ったんだと無理矢理納得させる。
お姫様抱っこの状態で立ち上がることができた。
なら今僕にできることは、お姫様の要望通り、お城(僕の家)までエスコートすることだ。さて、行きますか。
転ばないように慎重になりながらゆっくりとクレーターを登り、草原を下り、林を抜ける。その先にはどこまでも伸びているんじゃないかと思わせるくらいの一本道。止めて置いた自転車を横目で見送って、田んぼに挟まれている道の中を進んで行く。
誰にも会いませんように、と祈りながら自宅との距離を詰めていく。
結果を先に言えば不安はただの杞憂で済んだ。時代に取り残された感が残る、このド田舎にたまには感謝してみる。
やっとの思いで自宅前まで辿りつけた。いくら軽いと言っても、ずっと抱えていると流石に疲れる。
そして玄関の前に着いて一つ問題発生。どうやってドアを開けようか。
当然のことながら両腕は塞がっている。鍵を開けるにも扉を開くにも最低でも片手は必要な訳だから、どうしよう。
ちなみに我が家の玄関のドアは引いたり押したりするやつではなくて、横にスライドさせるタイプだ。
取り合えず何かをしてみようと、脚でドアを開けてみようと試みる。当然のことながら開いた。……。
あ、鍵閉め忘れてたんだラッキー。
自分のミスから目を背けて、ポジティブシンキング。
実際泥棒に入られても取られるよううなモノは何一つとしてない訳だし、盗みに入るような人はここら辺にはいない訳だし(泥棒が入った後のように部屋を荒す人はいるけれど)。
靴を適当に脱いで玄関から上がり、居間へと向かう。臨時的に敷いてある座布団の上に寝かせてから、彼女が履いていた靴も回収して玄関へと置いておく。
あそこにずっと寝かせておく訳にはいかないので、客間に布団を敷いてそこで寝て貰おうと考えた。
敷き終えたので、移動させるたまに居間へと戻る、けれど寝かせていたはずの場所には彼女はいなかった。だが探す必要もなくすぐに見つけられた。
X軸にはほとんど動いておらず、Y軸方向に1メートルほど浮上した状態で空中に留まっていた。
重力を無視して浮いているその身体は寝かせた時の体勢を維持したまま制止している。
刹那、何か光が放たれた。不思議な色をした輝きが彼女を中心とした円形に広がっていく。
広がった光円一つ一つは平面の様でその中には文字なのか記号なのかわからないモノが描かれている。それは何なのかわからないが、魔法陣のように思えた。
大小と様々なサイズの魔方陣が、幾つも複雑に動きながら彼女を包んでいる。
その陣はどんどん数を増し輝きが強くなっていく。光がぶつかって跳ね返っているのか、部屋の中にある卓袱台やテレビからも同じ色の光が出ているようにみえる。
拡張し続ける光の陣はいよいよ部屋に収まり切らなくなり、飽和して光が溢れる。
あまりの光量に目をすぼめる。
大きさが最大限に達したのか、光の陣はこれ以上大きく広がることはなく、無数の光の粒へとほどけていく。解かれた光はその場で霧消することなく、彼女の身体へと集って行く。
光集まってくる光の数が増えていくにつれて、彼女からも同じ色の光が漏れてくる。薄いベールを纏っているかのように全身を包んでいる。
そして部屋中に広がっていた魔方陣もほとんどが吸収されなくなっており、最後の一つの陣がほどけ、光の粒へと変化して彼女の身体の中に収まった。
未だ宙に浮いている彼女、オーラのように放たれている不思議な色の光、その光が音もなく四方八方へと弾け雲消霧散する。
一体何が起きたのか、何もかもが意味不明過ぎてただ、茫然と立ち尽くすことしかできないでいた。けれどそんな頭でも、浮遊している彼女の高さが下がってきたことがわかった。
危ない! と脳が判断するよりも疾く身体が動き出している。
身体に遅れて思考がついてくる。
このままじゃ床に叩きつけられてしまう。その前に辿りつけ!
勝手に動いていた脚、今度はもつれることなく、目的地目がけて動き出す。伸ばす腕、着床する前に彼女を救うために。
流れる時間が減速しているように思えた。パラパラ漫画、コマ送りの世界のように、瞬間瞬間がわかっている。一センチ一ミリと確実に床との距離が縮まっていく。
目的地までの距離2メートル弱、床との高さは30センチを切っている。
駆けている脚に最後の力を込めて床を蹴り飛ばし、身体を前へと飛ばす力に変える。受け止めるために両腕が伸ばされる。
そして地面からの高さ10センチとない所で受け止めることができた。驚くことに腕の中にいる彼女の重さが更に軽くなっていた。赤ちゃんと比べても大差ないくらいの重量しか腕の中には掛っていなかった。
ヘッドスラディングの状態から立ち上がり、つま先から頭まで見回してみてわかることだが、身長は少なく見積もっても150センチ以上あるから、いくら女の子が軽いといっても、限度を超えている。
不思議に思いながら彼女の顔を覗き込む。悪かった血色がいつの間にか引いており、健康的な赤みを帯びている。そして額にある傷口を見たけれど見つけられない。疑問符を頭に浮かべよく見てみるけれど、傷のあった形跡すら見当たらなかった。
あれは見間違いだったのかと不安になり、そういえば僕のズボンにも血が付いていたということを思い出して、確認してみると、時間の経過によって赤黒く変色しているけれど、しっかりと血痕が残っている。
見間違いじゃない、これが何よりの証拠だ。じゃあ何故なくなっている? さっぱりわからない。まぁそんなことはどうでもいいか、怪我は消え、傷跡も残っていないのならそれでいいじゃないか。誰が困る訳でもないのだから。
もう大丈夫そうにみえ、自然と安心し、小さく笑みが零れた。
「う、うぅ」
腕の中にいる女の子が、小さく唸り声を上げる。閉ざされていた瞼が微かに動き、そして徐々に開かれていく。寝起きのようにぼーっとした表情、開かれた瞳の色は星明かりを取り込む夜空と同じ黒。
唇を動かして言葉を紡ぐ、その音は耳にまで届いてはいたけれど、何と言っていたのかは聞きとることはできなかった。
「ありがとう、やさしい」
届いていた言葉が途切れた直後に頭の中に響くように聴こえた。
この声で僕の直感が当たっていたんだと確信できた。彼女の口から紡がれた声と頭の中に響いた声は違う、と。
具体的にどこがどう違うのかは、はっきりとわからなかったけれど、声の中に含まれている感情の量が後者の方が少なく感じた。声の質や雰囲気は同じなのに、どこか機械のような感じがあった。
もう一度唇が動く。やはりまた話された言葉を理解することはできず、言い終えてから頭の中に直接聴こえてくる。
「降ろして、大丈夫」
理解はできたけれど、脳がまだ状況を把握しきれていない。
「ああ、ごめん」
一泊遅れて反応し、脚からゆっくりと降ろしてあげる。
大丈夫かなと心配になりながらみていたけれど、その必要はなさそうだった。しっかりとした足取り、というわけではないけれど、ふらついてたり、よろけていたりはしなかった。
きょろきょろと辺りを見回して何かを探しているようだった。
「なにか探し物?」
訊いてみると少しだけ遅れて口を動かし、言葉を発する。けれどまたその言葉が遅れて頭の中に届く。腹話術かなと思ったけれどたぶん違う気がする。
「情報、媒体、ない?」
情報媒体ってなんだ? わからなくって首をひねる。
僕が理解できていないことがわかったのか困ったような顔をして、もう一度声を出す。
「大量、情報、欲しい」
たくさんの情報を手に入れることができる媒体って一体なんだ、と考えて一つのモノが浮かんだ。
「オッケー、わかった。じゃあついてきて」
僕の言葉を聴いて一拍置いたくらいのタイミングで頷く。
廊下を通り抜け、階段を登り、ニ階の僕の部屋の中に入る。昨日ちゃんと片付けておいてよかったと安心の息を一つ漏らして、目的のモノを紹介する。
「これでいいかな」
みせたものはノートパソコン。沢山の情報を手に入れることのできる媒体といわれてすぐに浮かぶモノといえばこれだろう。
正解の様で首肯してくれる。
「じゃあ待ってて、今から起動するから」
コク、と首を縦に振る。
少し時間が経ってから起動が完了したので、どうぞといって、手を指し伸ばして使っていいですよと促す。
彼女がパソコンの前に立ち、腕をパソコン目がけて伸ばす。そしてそのままの体勢で動かないでいる。
一体何をしているんだ、と不思議に思い声を掛けようとした時に、彼女の両掌の間に先ほど見た不思議な色小さな光の球が浮いている。その光が手から離れ、ゆっくりとパソコン目がけて進んで行く。直進する輝きがパソコンに触れ、光がモニターに吸い込まれ、薄く包むように淡い光を全体に纏っている。
広がった光が画面に集まり、色の密度を増していく。画面の中の光が溢れ輝きが部屋中に四散する。
なんだこれは、新しいパソコンの使い方なのか? と再び茫然としながら消えていった光を眺める。
「もうおわったの?」
尋ねてみても答えは返ってこない。腕を伸ばしたままの姿勢でまだ静止している。
何も言ってくれないので困り、視線を泳がせていたら何かが室内に侵入してきた。それは広がり消えたと思っていた光だった。散っていった光達がまたモニターの中に集っていく。そしてモニターから溢れ、部屋の中に漂う。
浮遊している光にはしっかりとした形がある。さっきの魔方陣の様なよくわからないものではなく、見なれた形をしたもの。
平仮名や片仮名、漢字、アルファベットの形をした光がモニターから次々と生まれ出てくる。増える文字たちの量が多すぎて視界がなくなってくる。
さっきの陣とは比べ物にならないほどの量の輝きが床や壁、天井を押し返して家を壊すのではないかという程の量が溢れかえっている。
次第に文字の量が減ってきていた、けれどある一か所に限ってはまだ物凄い密度の文字が動いている。
パソコンに光球を放った女の子。彼女を軸として光の文字が渦潮の様に周り。吸収されていく。
そしてすべての輝きが吸収されつくした。無限とも思えた文字も、光も、今はどこにもない。
思考が働かず、棒立ちとなる。あまりの光景に見入っていた。
本日何度目になるかわからない困惑。一体何が起こっていたんだ? と自分に自問自答してみようと思ったけれど駄目だった。そもそも問題自体を理解できていないのだから、答えを問う以前の問題だった。
そんな僕を見かねたのか、微笑ながら声をかけてくる。
「驚かせて、ごめんなさい」
ぎこちなくではあるけれど、ゆっくりと紡がれた言葉が鼓膜を振るわせて届いた。頭に直接聴こえてくるような声ではなかったけれど今度は意味がしっかりとわかった。
「この、世界の、言語、情報、集めてたの」
聴こえてくる声は今までの違和感を抱いていた声と質や雰囲気は同じなのだけれど、なぜか暖かく感じ取れた。人のココロ、感情、血の通ったそんな言葉だった。
「まだ、ここの、言葉、慣れてない、話し、通じてる?」
僕がずっと無反応だったから心配させてしまったようだ。
「うん、大丈夫。ちゃんと伝わってますよ」
改めて声をちゃんと聞くと、見た目と同じく可愛らしく澄んだ通る声。年齢は同じくらいだろうか。
「よかった、あなたに、感謝」
話しながら一歩一歩と近づいてくる。そして唐突にハグをされた。
「ありがとう」
僕の真横にいる彼女がもう一度謝辞を述べる。けれどそんなものは頭の中に入ってこなかった。
右肩に乗っかっている顎、髪から香る彼女の匂い、服越に伝わる体温、早鐘を打つかのように響く自身の鼓動。
意識するな落ち着けといくら言い聞かせても、考えないようにしようとすればするほど考えてしまう、抑えきることのできない熱さに脈が速くなる、顔が火照ってくる。これ以上は僕が持ちそうにない。
「そんなに感謝されるようなことしてないから」
言いながら肩を掴んで引き離そうと試みる。
少しくらいは抵抗するかなと思いながら引き離しに掛ったが、そんなことはなくするりと離れた。
けれど彼女は目を瞑ったままその場に立っている。視線が吸い寄せられるように一点へと向かっていく。雪のように白い肌、その中にある淡く朱い唇。
そういうことなのか? と一瞬の逡巡。いいのか、駄目なのかと考え終える前に歩みを進める脚。お互いの距離が近づき、顔の距離を段々と詰めていく。
鼻と鼻が触れるくらいに距離が縮まった時に何か違和感を感じた。
乱れることの無い呼吸、まるで寝息を立てているかのように一定のリズムで吸気している。というより本当に寝ているようだ、立ったままの姿勢で。
だからすんなり離れたのか、と少し残念に思いこの先の行動は起こしては駄目だ、と自制することができた。
自分を見失ったままこの先の行動を起こしていたら、それは最早ただの犯罪でしかないので押さえこめてよかった。これなら罪悪感も負い目も感じずに済むから。
こんな行動をしようとしたのは僕の頭の中にある勝手なイメージに原因があったのかもしれない。欧米ではハグからのキスというのが一連挨拶だ、といううろ覚えの知識に頼ったのがいけなかったんだ。それに普通の挨拶の時のキスは口と口じゃなかった気がするし。まぁよくわからない。
視線を目の前に向ける、目を閉じたゆっくりと呼吸をしている彼女がいる。その姿をみて自分のしようとしていたことを思い出して、顔を紅潮させてしまう。
深呼吸だ、深呼吸をして落ち着け、落ち着くんだ。
大きく2回、3回と息を吸って、吐いてを繰り返して、落ち着きと冷静さを取り戻す。
ようやく自我をしっかりと取り戻した所でこのまま寝かせておくのは良くない、と思い至り、客間に敷いて置いた布団で寝かせようと決めた。
起こすのもはばかれる気がしたので、もう一度お姫様抱っこをして客間に運び、ゆっくりと布団の上に寝かせてあげた。
寝かせた時に今更ながら気がついたが、僕と同じように土の上に寝かされていたにも関わらず彼女の服には一切の汚れも付いていなかった。それに引き換え僕といえば、地面と擦ったのか膝小僧にはささくれ立ったように少しだけ皮膚に傷があったり、血の滲んだ跡があったり、服に至ってはあちらこちらに土汚れが付いている。
この姿だけを見たらまるで一日中外で遊んできた子供の様だろうな。そう考えてくすりと笑う。
服が汚れているから着替えたいし、身体も砂っぽいからシャワーを浴びるか。
風呂場へ向かおうと決めて歩きだす。一瞬彼女のことが不安になり、一瞥するが、家の中なら大丈夫だろうと判断して、一人でそのまま寝かせておくことにする。
久しぶりの朝シャワーだぁ、と呟きながら風呂場に向かう。
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そこは真っ白な場所だった。
天井も床の壁もすべてがすべてくすみ一つない完璧な白さだった。足元にあるはずの影すらない。恐ろしいくらいの無色。
ここにあるものといえば空気と私だけだろう。
ああそう言えば扉もあったんだと視界に入って気がついた。
忘れてしまうのは無理もない。開かないのだから。
正確に言えば開けられない、だけれど。
いくら力を込めても、いくら叩いても、いくら蹴ってもその扉はこちらからは開かれることはなかった。
開くタイミングは一日三回。朝、昼、晩。
ご飯の運びこまれる時だけに開かれる。
運んでくるのは感情も何もない、ただ命令を忠実にこなすだけの無機質な機械。
この毎日与えられるモノのお陰で生きながらえることができている。
これじゃあただの家畜と変わらないな、いや家畜の方がまだましかな。
家畜には最終的に食糧となる目的があって餌が与えられるけれど、じゃあ私はなんだ? 何があってご飯を与えられている?
答えはどうせ簡単なことだ。
人間を殺せば罪になるから。
ならそれより罪の軽い監禁。
閉じ込めて置けば知らない。
閉じ込めて置けばわからい。
閉じ込めて置けば漏れない。
外から隔離された虚無空間。
我関せずと放置しておける。
最低限のモノを与えておく。
罪にならぬよう生きておけ。
私の存在が罪そのものなの?
生まれてきた意味はないの?
なら、なんで生きているの?
わからないわかりたくない。
ここにいる価値はもうない。
始めから無かったのだろう。
なら、行ってもいいだろう。
この場所から抜けだすんだ。
機会ならもうそろそろくる。
その時を逃さず、掴み取る。
心持はすでに定まっている。
計画もすでに整ってきてる。
後は時間が過ぎるのを待つ。
そうすればここから自由に。
どこにでも、自由に行ける。
それを糧に無意味を有意義。
虚無、虚構から逃れられる。
遠くない先に思いを馳せる。
自由を噛みしめる時を思い。
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