鈴の音
極端な描写はなく、R-15を匂わせる程度のものです。
読後感重視。読んだ後の余韻を感じていただけたら幸いです。
いつものように、私は大学からの帰り道を自転車で駆け抜けていました。少し広い車道のある道です。夜9時にもなると車も人も大分減るので、この時間に帰るのが私の気に入りでした。
そして今日という一日も普段通りに終えられるのだろうと、私は信じて疑いませんでした。
しばらく走ると、私は遠く後ろの方から一つの気配を感じました。一定の間隔でチリンチリン、と自転車のベルが鳴ります。私はその音がちょっと耳に付いて不愉快でした。早くどっかで曲がってほしい。ですが後ろの気配は、離れることなくただベルを鳴らし続けています。
音が少しずつ近づいてきました。そして気配を真後ろに感じた時、フッとベルの音は止みました。
どいてくれという意味かと思ったので、私は脇に寄りました。しかし、私を抜かそうとはせず、いつまでも真後ろについてくるだけです。
少し気味が悪かったので、私は勢いよく自転車を漕いで後ろの気配を突き放しました。すると、また後方からチリンチリンというベルの音。いよいよ気持ち悪くなってきました。早く家に着きたいです。
目一杯漕いでるのに、何故か後ろの音はまた近づいてきます。
やっと、いつもの曲がり角を見つけました。これで後ろの人が付いてこなければ、あとは安心です。
私はスピードを更に上げて(立ち漕ぎして)急いで道を曲がりました。そして後ろの気配は…
チリンチリン
背筋がゾクッとしました。すぐ真後ろから音がしたのです。
ガコンッ!
ガシャーン!!
何か小石のようなものを車輪で踏みつけてバランスを崩し、私は大きく転びました。
ベルの音も止みました。でもついに、追いつかれてしまったのです。
(逃げなきゃ)
突発的に立ち上がり、自転車まで駆け寄り…たかったのですが、実際は、動くことも瞬きすることもできない私が地面に座り込んでいるだけでした。私の近くには、音の主と思われる男が立っています。
その男は真っ黒なトレンチコートに黒ズボン、黒いYシャツを着ていました。全身の本能が逃げろと叫んでいるのに、私は指一本動かせません。
男が何かを拾い上げます。
「酷いなぁ、私の鈴を踏むなんて」
小石だと思った物は鈴だったのです。
踏まれた衝撃で鈴はひしゃげ、音も濁っていました。
ヂャリ…ヂャリ…
「フフフ、音も酷い。困ったな、大事な鈴なのに」
困ったと言いつつも、男はどこか楽しんでる感じでした。
「お嬢さん!」
こちらを振り向いて、いきなり男は話しかけてきました。
「あなたのせいで私の鈴が壊れてしまいました。何かお詫びをしていただけませんか?」
「そうだなぁ、丁度いい、私の願いを叶えていただきましょう」
話を振っておきながら、男は勝手に話しつづけていました。
(いや。逃げなきゃ)
「フフフ、我ながら良いアイディアだ。あ、お嬢さんは心配しなくていいですよ。何もお金をくれなどと言うつもりはないですから。ただちょっと手伝ってもらいたいのです」
(逃げなきゃ)
「私の願いを叶えるために」
(逃げなきゃ)
「私、ずっと前から『ヒト』になりたかったんです」
(助けて)
「だから少しだけ、あなたの体を貸してください!!」
(助けて!)
男はいきなりコートを羽のように広げると、鷹が獲物をとらえるように私に突進してきました。
ぶつかる!と思って身構えた瞬間、男は跡形もなく消えていました。「貸してくれ」などと不可思議な言葉を吐いたくせに、逆に私は体の自由を取り戻していました。動かせないところはありません。
正常に戻った私は、アパートに帰る途中だったことを思い出して慌てて自転車を起こすと、また走り出しました。
その後あの男に会うことはありませんでした。
それから1ヶ月後、私は恐ろしい事実を突き付けられました。
生理が始まらなかったのです。私は最初何か悪い病気にでもかかったのかと思い、不安になって産婦人科を受診したのですが、そのとき医師が放ったのは意外な一言でした。
「おめでとうございます。妊娠なさっています」
「・・・は?」
「だいたい妊娠1ヶ月ですね」
1ヶ月前の出来事が、走馬灯のように駆け抜けていきました。
でも、まさかそんな…あの男は、少しも私に触れなかったというのに…
「大丈夫ですか?落ち着いてください。とりあえず今はまだ時間があります。お相手の方と、必要なら双方の親御さんとも相談して…そうだ、院内のカウンセラーをご紹介しましょう。様子を見てまた一週間後―――」
確かに、ショックは大きかった。後半部分はほとんど聞き流していた気がします。私は医師からもらった数枚のメモを持って家路に着きました。
帰ってからも何秒か何分か何時間か放心していましたが、しばらくして堕ろそうと決意しました。こんな災いの元といつまでも一緒にいたくない。一週間で何とかお金のめどを立てようと考えました。
そんな私に更なる変化が現れたのは、二日後でした。お腹が膨らみ始めたのです。何かの危機を感じ取ったのでしょうか。私のお腹はありえないほどのスピードで日に日に大きくなっていきました。
1週間後
医師は私が先週来た患者だと、一瞬理解してくれませんでした。
「一体、何故…お腹は今、妊娠7ヵ月なんです。馬鹿な…いやでも…」
医師は、自分が今言った言葉を信じられない様子でした。
「ここまで大きくなってしまうと、堕ろすことはできなくなります。産まれるまで待つしかありません」
絶望でした(いやだ)私はまだ若いのに(あの時逃げていれば)やりたいことも沢山あるのに(産みたくない)どうして私がこんな目に(こわい)
どうして?(いやだ)助けて(いやだ)助けて(たすけて)助けて(助けて!)
私は、この時から壊れてしまったのでしょう。だって、人生初のつわりを体験してしまったのですから。妊娠なんかしていないのに。お腹が大きいのも何かの間違い。
「少しだけ、あなたの体を貸してください」
きっと夢を見ているのですね。今、私の気持ちはとても穏やかなのです。
「お詫びをしていただけませんか?」
あ、夢の証、聞こえました?ホラ、おなかの中から鈴の音がする。フフフ、ありえないですね。
「『ヒト』になりたかったんです」
聞こえますか?
チリン、チリン…