王冠の狩り
まだ少し冷気の残る風が古城の尖塔を撫でていく。
王国歴453年。王都ボストックは来るべき春の祝宴と、水面下で蠢く次期王太子妃の争いに関する話題で持ちきりであった。
エクレールが羽ペンを置く。静謐な部屋に蝋燭の炎が揺れるたび、羊皮紙の文字の上で優雅に影が踊る。
彼女は琥珀色の瞳を鮮やかに煌めかせ、今しがた書き終えたばかりの文書を読み返した。
文書の内容は簡潔だ。
隣国シャンピニョン公国の外交使節クグロフ・トリュフ卿に宛てた私信。そこには王宮の北回廊警護体制に関する詳細が記されており、末尾には「約定の通り、次の宮廷舞踏会にて」という一文が添えられていた。
署名欄にはパルミエ男爵家の家印が押されている。
筆跡もまた、模倣であるとは到底信じられないほど精緻に仕上がっていた。
六週間をかけてエクレールはマドレーヌ・パルミエの直筆文書を十七通収集し、その筆跡の癖――末尾の跳ね上がりや、特定の合字、インクの濃淡のつき方――を完全に自分のものとしたのだ。
エクレール・オランジェット。王家の傍系である公爵家の一人娘であり、ガレット・デ・ロワ王太子の婚約者だ。
彼女が社交界に知られるのは、その容姿の美麗さ、公爵家の財力、そして際立った知性のためだった。
対してマドレーヌ・パルミエは、北方の寒村を所領とするパルミエ男爵家の三女である。類まれなる弁舌で社交界に入り込み、近頃エクレールの地位を脅かしつつある令嬢だった。
二人の対立が表面化したのは先の春季宮廷茶会においてのこと。
マドレーヌが王太子と交わした議論が話題を呼び、ガレットが「パルミエ嬢の知見は王国の財産になり得る」と公の場で述べたことで、王太子の婚約者であるエクレールの立場は微妙に揺らぐ次第となった。
「速やかにご退場願いたいものですわ。宮廷はあなたのような方がいらっしゃる場所ではなくってよ」
エクレールは穏やかに微笑み、文書を三つ折りにして封蝋で閉じると、それを化粧台の引き出しに収めた。
窓の外で王都の夜が静かに更けてゆく。
第一段はマドレーヌの筆跡で描かれる偽の密書。
第二段は証人だ。エクレールは二ヵ月前から、マドレーヌの侍女として王宮に勤めるロシェという女を懐柔していた。ロシェの兄は借金を抱えており、エクレールはその証文を密かに買い取ったのだ。
エクレールが幾人もの貴族を介してロシェに与えた命令はシンプルで、「宮廷舞踏会の夜、マドレーヌがシャンピニョン公国使節と立ち話をしている姿を目撃した」と証言せよ。
もちろん、これは外交の場では当然起こることであり、マドレーヌを糾弾するには値しない。ただし当然起こることが意味ありげに重なれば、次第に敵を追い落とす甘い罠となる。
エクレールが偽造した密書は舞踏会の翌朝、マドレーヌの居室から発見される手筈になっている。
そして彼女に疑惑の視線が向けられると同時に、王国北部パルミエ領の通行権をシャンピニョンの商人に独占的に売り渡すという、より詳細で致命的な文書が他者の手により告発されるのだ。
外国勢力への通謀。糾問さえ始まってしまえば、社交界からの事実上の追放は既定事項だった。身分の低い者は疑惑だけで充分に失墜する。
オランジェットの家名を懸けて、王太子妃という地位を男爵令嬢ごときに奪い取られるつもりはさらさらなかった。
「ごきげんよう、マドレーヌ様。貴女は少々、身の程を知らなすぎました」
しなやかな指で紙をなぞる。あとは宮廷舞踏会を待つばかりだった。
***
王宮の大広間にシャンデリアの明かりが降り注ぎ、仮面をつけた貴族たちの靴音と喧騒が辺りを満たしていた。
エクレールは白貂の仮面をつけ、扇子で口元を隠しながら回廊の影を縫うように歩く。
ほんの数分前まで財務大臣と税制改革について白熱した議論を交わし、この後すぐに王太子の叔母にあたる大公妃への挨拶が控えている。誰かが彼女が姿を消したことに気づく隙はなかった。
マドレーヌ・パルミエに割り当てられた控え室は、回廊の奥まった場所にある。エクレールは鍵開けの専門家ではないけれど、客室棟の鍵が密会を望む客人たちのためにあえて粗末な作りであることを知っていた。
廊下に人影はない。近衛兵の巡回ルートと時間も把握済みだ。
カチャリと軽い音がして扉が開く。暗い室内に香水の甘い残り香だけが漂っている。
エクレールは躊躇なくライティングデスクに歩み寄り、庭から拝借した粗末な手袋につけかえて、マドレーヌが日頃持ち歩いている革張りの文箱を取り出した。
一番底に偽造文書を忍ばせる。すぐに部屋を出て鍵をかけ直し、再び回廊へ戻る。
誰にも見られていない一瞬の出来事。心臓の鼓動すら一定のリズムを保っていた。
舞踏会場に戻ったエクレールは何食わぬ顔で大公妃に挨拶を行い、その後、遠く離れた場所にガレット王太子の姿を認めた。
彼の隣にいる女は森梟の仮面をつけている。質素でも仕立ての良い紺碧のドレスを身に纏い、堂々と背筋を伸ばして王太子と向き合う影。
「……マドレーヌ様」
視線を逸らし、エクレールはグラスを傾けた。
王太子との会話が終わると、マドレーヌはクグロフ卿と話しているようだった。外交使節との会話は礼儀として避けられないものであり、そしてロシェは確かにその場を目撃する。
――楽しむがいい、田舎の才女よ。明日の朝にはその首に反逆者の縄がかかるのだから。
翌朝、王宮警護隊が動いた。
***
三日後、王家の書記官を通じてマドレーヌは正式な召喚を受けた。いつものように王太子の隣で補佐をしていたエクレールは、緊張に凍りつく室内で敵の破滅を見届けるつもりだった。
机の上にはエクレールが仕込んだ羊皮紙が一枚、置かれている。
ガレット王太子、隣にエクレールが寄り添い、数名の近衛兵に囲まれて立っているのが、マドレーヌ・パルミエであった。
ここまではエクレールの筋書き通りだ。
舞踏会の翌早朝、ロシェからの通報を受けた警護隊が部屋を捜索し、文箱からクグロフ宛ての密書が発見された。
時を同じくして北部のポメ・ルネ伯爵から、「パルミエ領の通商権売却に関する密約の告発」が届けられている。
「パルミエ嬢。いくつかの文書の提出を受けました。あなたの意見を聞きたい」
ガレットの声は低い。感情の色は見えないが、その瞳は鋭くマドレーヌを射抜いている。
「これはパルミエ嬢が外国使節に宛てた密書だと、私の書記官のもとに匿名で届けられたものです」
エクレールは内心で口角を吊り上げそうになるのを扇子で隠した。パルミエ家の財政難は周知の事実。動機は充分であった。
しかしマドレーヌは顔色一つ変えることもなく静かに一礼し、澄んだ声で答える。
「殿下。その文書は、私の手による物ではございません。舞踏会の最中に、何者かが私の部屋に侵入し、混入させたものですわ」
「すでに私は王国の筆記鑑定士に調査を依頼しました。筆跡はパルミエ嬢のものに近似しております」
エクレールは優雅に驚いてみせた。
「マドレーヌ様、往生際が悪くてよ。ご自身の文箱から見つかったのでしょう? それに、貴女の部屋周辺には近衛兵の巡回がありましたわ。侵入など不可能です」
「はい、エクレール様。ですが、内部の事情に精通し、かつ近衛兵の巡回ルートを知り得る立場の者ならば、造作もないことかと」
マドレーヌの青い視線がエクレールに向けられる。挑発ではない。それは狩人が獲物を見る目だった。
背筋にひやりと冷たいものが走る。マドレーヌは正面から彼女を見つめている
「殿下、私の証人を招き入れてもよろしいでしょうか」
「もちろん、許可します」
ガレットが鷹揚に頷くと、待ち構えていたかのように扉が開かれて二人の男が入室してくる。
一人は王宮の文書保管室を管理する老齢の司書官。もう一人は、エクレールには覚えのない職人のような身形の壮年の男だった。
「パルミエ家の書簡は一貫してカノルの製紙工房のものを使っています。ですが、この密書の紙はポーニュ産です。二つの紙は目視では区別がつきませんが、羊皮紙職人は繊維の走り方で判別できますわ」
つまりあの男はパルミエ家御用達の羊皮紙職人なのだろう。ふと隣の気配が気になって、エクレールはガレットの顔を窺った。
「ポーニュ産の紙は、王宮内の公文書作成にのみ使用が許可された特注品ですね」
ガレットの問いかけに職人が緊張した面持ちで頷くと、エクレールの心臓が僅かに跳ねた。
羊皮紙。
彼女は自室にあった予備の羊皮紙を使った。オランジェット家は王家に連なる血筋であり、ガレットの婚約者であるエクレールは王宮御用達の羊皮紙など日常的に使っていた。
それが特別であるという意識が欠落していたのだ。
「この文書は、パルミエ領で書かれたものではございません。王宮の羊皮紙を使って作成されたものです」
口元を扇で覆ったまま、エクレールは困ったように首を傾げる。
「でしたら、外国との密約に飽き足らず、王宮書庫への不法侵入と窃盗にも加担なさっているということなのかしら、マドレーヌ様」
「エクレール様。もう一点、こちらの司書官の証言をお聞きください」
平然としているマドレーヌに促され、老齢の司書官が重々しく口を開いた。
「文書保管室の資料の中に、およそ八十年前に交わされたシャンピニョンとの条約文がございます。これはエクレール様が過去に閲覧された記録が残っております」
「当然ですわ。わたくし、殿下と婚約を結ぶよりもずっと以前から、書庫で勉学に励んでおりましたもの」
「司書官として、存じております。この、パルミエ嬢の元から発見された文書に使われている文言、特に『不可侵領域』を指す古語は、現在では使われていない廃語でございます。八十年前の資料特有の言い回しなのです」
そしてパルミエ男爵にはその閲覧権限がございません、そうマドレーヌが言葉を継いだ。
マドレーヌの表情は奇妙なほど平坦で、エクレールにはあの舞踏会の日の仮面がまだそこにあるように思えてならなかった。
まるで音もなく獲物に食らいつく森の狩人の仕事だ。マドレーヌの首にかけたはずの縄は、今やエクレールのほうへと忍び寄りつつある。しかし彼女の瞳にはまだ闘志が宿っていた。
「文書が偽造であることは理解しましたわ。ならば、誰かがマドレーヌ様を陥れようと罠を仕掛けていますのね。恐ろしいこと」
「恐れながら、エクレール様。こちらは私の侍女であるロシェが持っていた、彼女の兄の借金証文です。借金の移転記録を追うと、オランジェット公爵家の代理人が介在していることが確認されています」
「それは公爵家への宣戦布告と受け取ってよろしいかしら?」
「いいえ」
そしてマドレーヌは、ガレットへと視線を移した。エクレールにはそのことが何よりも悔しかった。
「殿下、説明してもよろしいでしょうか」
「お願いする」
「私がエクレール様の動きを最初に察知したのは、六週間前です。私の直筆文書が複数の経路で誰かの手に渡っている形跡を、ある書商を通じて確認しました」
それはエクレールが筆跡の模倣練習を始めた、ちょうどその時期だった。
「その時点で私は、自分の筆跡を公式には一切使わないことを決めました。すべての書状を口述筆記に切り替えていますから、文書が私の筆跡であるならば、六週間以内に私が書いたものではございません。私がクグロフ卿とお会いする手筈だったとされる舞踏会の開催は、」
「二週間前に決まったことですわ」
冷たく切り捨てたのはエクレール自身だった。
彼女の投了を受けてガレット王太子が静かに頷く。
「パルミエ嬢。あなたが社交界の伝手を使って独自に収集した証拠の信憑性と、王家に頼ることなく、自力でここまで構築した手腕を讃えます」
「もったいなきお言葉です」
そしてガレットの視線が、彼の婚約者へと向けられる。
「エクレール。君の計画も精緻だった。筆跡の模倣も見事なものだ」
「ええ、殿下。光栄ですわ」
「しかし、君が選んだ手段はシャンピニョン公国の使節を利用した外交問題への偽装を含む。もしこれが表沙汰になっていれば、隣国との外交関係に傷がついた可能性がある。王太子妃となるべき者が、家名のために国家の外交を道具として扱った。それは致命的な誤りだ」
エクレールは扇を降ろし、そっと目を閉じた。マドレーヌが強敵であると認めるあまり、目が眩んでいたのかもしれないと自省する。
「王太子妃の資質とは自身の利益のために国家の安定を代価として支払わないことだ。今回の件で、私は君がその基準を満たすかどうかについて確信を持てなくなった」
「異論はございませんわ、殿下。マドレーヌ様はわたくしよりも勝っていることを証明なさいましたもの」
「……オランジェット公爵家への敬意は変わらない。しかし君との婚約については再考を要すると判断した。正式な書状は明日、公爵家に届けよう」
そう告げるとガレットは二人の令嬢を残し、執務室を後にした。
マドレーヌも彼に続こうとしたが、扉の前で一度だけ振り返る。
「あの文書は本当に素晴らしかったです、エクレール様。貴女が勉学に励み、我が国のことに精通していたからこそ、貴女にしか作れないものが仕上がってしまったのです」
それは侮辱でも皮肉でもなく、純粋な、敵対者への賞賛だった。
「ありがとう、マドレーヌ様。わたくしの敵が貴女であったこと、嬉しく思いますわ」
初めて表情が崩れたマドレーヌは親友にするように微笑みかけると、ガレットの後を追って部屋を出ていった。
穏やかな陽光が差し込む窓に近寄り、エクレールは一人で柔らかな春の風を浴びる。
一つ、マドレーヌが筆跡収集の動きを察知していたことを見抜けなかった。
一つ、紙の産地という細部を詰め切れなかった。
そして最も根本的な失敗は、ガレットが外交問題への偽装を、単なる手段ではなく資質の問題として深く評価することを読んでいなかった。
「わたくし、あなたのことを甘く見ていたのかしらね。その有能さを誰よりも知っているつもりだったのに」
王家はこの婚姻にさほど乗り気ではなかった。オランジェット家の力は王家にとって過大すぎたのだ。それが証拠にガレット王太子は今回の件を「婚約破棄の根拠」として使ったのであり、エクレールの策略が露見しなければ、別の根拠を探していたはずだった。
盤上の技を競うだけでは、盤そのものを動かす者には届かない。
ガレット・デ・ロワはエクレールよりも一段高いところに立っていたのだ。
「でも、なかなか楽しかったわ」
彼女の髪を揺らす風は、次第に春の和らぎを見せつつあった。




