5束目
午前七時。店内に運び込まれた箱を開けた瞬間、一花は目眩を覚えた。
視界を埋め尽くしたのは、吸い込まれるような深い青、青、青。長い茎の先に、透き通るような青い花弁を無数に湛えた『デルフィニウム』の群れだ。それも、最高級品種の『オーロラ・ブルー』。
「……二葉。これ、何かの間違いよね? 桁が一つ、多いわよね」
一花が震える手で納品書を差し出す。二葉はバケツの準備をしながら、のんびりと答えた。
「間違いじゃないよ。今週末、駅前の大型商業ビルでやる『初夏のアート展示』のメイン装飾。お姉ちゃんが取ってきた仕事でしょ? だから、市場で一番いいやつを全部競り落としてきたんだよ」
一花は頭を抱えた。確かに、自分が取ってきた仕事だ。しかし、一時間前に届いた一通のメールが、その全てを白紙に変えていた。
「……中止よ。展示会の主催団体が、昨夜の台風で機材搬入に失敗して、イベント自体が来月に延期になったの。キャンセル料は出る。でも、それはあくまで実費の三割。この、生モノの『現金の山』をどうしろっていうのよ!」
デルフィニウムは繊細な花だ。水揚げが難しく、気温が高いとすぐに花びらが散り始める。一花が電卓を叩く。仕入れ値だけで数十万円。これを個人客に一本ずつ売って完売させるには、この街の住民全員が今日中に花を買わなければならない計算になる。
「今日中に捌かないと、明日の朝にはゴミの山よ。……あぁ、私の経営計画が、この青い花に飲み込まれていく……」
一花はレジカウンターに突っ伏した。独立以来、最大の赤字。それは、この小さな店にとって「死」を意味しかねない数字だった。
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午前十時。開店の時間は無情にもやってきた。
一花は「やけくそよ!」と叫び、店の外に看板を出した。
『緊急事態! 幻の蒼いデルフィニウム、レスキュー販売。通常価格の半額!』
本来、ブランド価値を下げる値下げは一花のポリシーに反する。しかし、背に腹は代えられない。一方、二葉は黙々と作業を始めていた。彼女が作っていたのは、デルフィニウムを一輪ずつ、小さな透明な袋に入れ、それを可愛い麻紐で結んだワンコインのミニブーケだ。
「そんなの手間ばかりかかって、利益が出ないわよ!」
「いいの。まずは、みんなにこの青色を知ってもらわないと。お姉ちゃん、この花はね、見てるだけで呼吸が深くなる色なんだよ」
雨上がりの蒸し暑い午前中。通りがかりの主婦や、部活帰りの高校生たちが、その異様な「青いジャングル」と化した店を覗き込んでいく。
「あら、綺麗な青ね。五百円なら、テーブルに飾ってみようかしら」
「彼女とのデート、これ持っていったら喜んでくれるかな?」
最初の一歩は、小さなものだった。二葉は一人一人に丁寧に、デルフィニウムの「持ちを良くするためのコツ」を伝えていく。
「この子はね、お水が大好きなんです。でも、深すぎると茎が腐っちゃう。浅めのお水で、毎日切り戻してあげてくださいね」
一、二、三……。レジの数字は刻まれるが、在庫の山は一向に減らない。一花は焦り、必死にB2B(業者間)の連絡網を叩いた。近隣の葬儀場、結婚式場、レストラン。しかし、どこも急な在庫は引き取れないという冷たい返答ばかり。
「……やっぱり無理よ。個人客に百人売ったところで、このバケツ二十杯分は捌けない」
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午後一時。店内に少しずつ変化が起き始めた。先ほど花を買っていった女子大生が、自分のSNSに写真をアップしたのだ。
『フロライ・フラティノイのデルフィニウムが、宝石みたいに綺麗。#ロスフラワー救出 #青い魔法』
その投稿が、静かに、しかし確実に拡散され始めた。
午後の日差しが店内に差し込み、デルフィニウムの青が発光するように輝く。その美しさに足を止める人が、二人、五人、十人と増えていく。
「ネットで見て来ました。この青、本当にすごいですね」
「仕事で疲れちゃって。癒やされたくて来ました」
一花は気づいた。二葉が作ったワンコインブーケは、単なる安売りではない。それは、人々がこの店に足を運び、この「蒼」に触れるための「入場券」だったのだ。
店内が活気づく。一花のレジ打ちは、もはや事務的な作業ではなく、救出作戦の戦況報告のようになっていた。
「完売の空気」というものは、不思議な熱量を持つ。人は、誰かが「良い」と言っているもの、そして「今しか手に入らない」という状況に引き寄せられる。だが、それでも。
(……ダメ。これだけ売っても、まだバケツ十五杯分は残ってる。夜までにこのペースじゃ間に合わない……!)
一花が唇を噛んだ、その時だった。
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午後四時。店の前に、ロゴの入っていない大型のバンが止まった。
降りてきたのは、黒いTシャツにカーゴパンツを履いた、見るからに現場主義といった風貌の男だった。
「ここか。SNSで『デルフィニウムの緊急レスキュー』って騒ぎになってるのは」
一花は即座に察した。この男の目は、一般客のそれではない。素材を見極める、プロの目だ。
「……いらっしゃいませ。デルフィニウムなら、ここに最高の状態のものが揃っています」
「俺はステージ装飾のスタイリストをやってる。実は明日、ある有名ブランドの新作香水のローンチパーティがあるんだが、メインの装飾に使おうとしていた資材が、台風の物流混乱で届かなくてな。代わりの花を探して、都内の市場を回ったが、これだけのクオリティの『青』はどこにも残ってなかった」
男はバケツの中のデルフィニウムを一本手に取り、その茎の太さと、花の密度を確認した。
「……信じられない。この鮮度、この量。なぜこんな街の花屋にこれだけの特級品がある?」
「本来なら、駅前ビルのメイン展示に使われるはずだった子たちです。事情があって、ここに取り残されていました」
一花は、ここが勝負どころだと確信し、電卓を置いた。
「お客様。個人客への切り売りで、すでに三割は捌けました。でも、残りの七割……バケツ十五杯分。これがあれば、会場を『蒼い海』に変えることができます。……いかがでしょうか。この子たちの価値を、一番理解してくださる方の手に渡したいんです」
男はフッと笑った。
「……面白い。SNSを見て、『もしかしたら』と思って来て正解だった。おい、これ、全部もらう。一本残らずだ。積み込みを手伝ってくれ」
「……!! ありがとうございます!」
そこからは、怒涛の勢いだった。一花と二葉、そして男のスタッフが協力し、店内にあった青い森が、次々と大型バンに吸い込まれていく。
あんなに絶望的だった青い山が、ものの三十分で、空っぽになった。
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夜、八時。
一花は、静かになった店内で、最後の一本のデルフィニウムを花瓶に挿した。それは、積み込みの際に少しだけ茎が折れてしまった、今日という日の「生き残り」だ。
ウィーン、という音。レシートの帯が、今日の激闘の結果を吐き出す。
「……二葉。聞きなさい」
「……怒られる?」
一花は、ふっと息を吐き、満面の笑みを浮かべた。
「……個人客への切り売りの利益、そしてスタイリストへの全量売却。……特にあのプロの方には、特急料金と、希少価値を考慮した『プロ向け価格』で納得してもらったわ。……結果。当初のイベント装飾の予定利益を、二割上回ったわよ」
「えっ! じゃあ、大赤字どころか……」
「ええ、大・大・黒字よ! ……あの子たちが、自分で自分の価値を証明したのね。でも、最初にSNSで火がついたのは、あんたが千円以下で丁寧に配ったあのミニブーケのおかげ。認めざるを得ないわね。ビジネスには、『理屈』じゃない『熱』が必要だってこと」
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一花はエプロンを脱ぎ、店のシャッターを下ろした。
見上げた夜空は、あのデルフィニウムと同じ、深い紺色をしていた。
「さて、二葉。今日は文字通り、死線を越えたわ。……今夜は、最高のご馳走よ」
「わあ! お姉ちゃん、何? 焼き肉!?」
「いいえ。今日は、あの青い花を助けてくれたみんなに感謝して……『海の幸』よ! デパ地下で最高級の生ウニと、大トロの刺身を買い占めるわ。それから、蒼いラベルの高級シャンパンもね!」
「やったー! 蒼いディナーだ!」
「今日の夕飯、何にする?…なんて、聞かなくてもわかってたでしょ。さあ、行くわよ!明日は明日で、また新しい花を仕入れなきゃいけないんだから」
姉妹は笑いながら、夜の街へと消えていった。
空っぽになった店内のカウンターには、最後の一本の青い花が、月光を浴びて誇らしげに咲き続けていた。




