ニ
夕暮れ時、リリアンは街道を往く馬車に揺られていた。柔らかく淡い緑を基調とした、レース、リボン、造花などの装飾があしらわれた女性服に身を包み、網目の細かいフードヴェールはその顔を巧みに隠している。髪を結っていることもあり、間近でじっくりと観察しない限りは彼女であると察するには難しい。リリアンはあれから城に戻って情報を整理し、またすぐに宿屋数件を訪ね、宿泊の予約を確認して遠方からやってくる旅行者のリストを作成した。来訪の日付が近い組から順におおよその到着日数を予想、さらにロンドから各方面に点在する馬車停留所までの距離を計算し、旅行者が馬車に乗り込むであろう日時を逆算していった。それからは自分の足で方々の街へ向かい、それらしい旅行者たちを見つけては馬車に相乗りを申し出て、ロンドまで移動する。襲撃されず無事にロンドに到着したら、また次の街へと――もちろん、人目に付かないように道なき道を――走って向かい、また同じ手順を繰り返す。それでも狙い通りとはいかず、何も起きないまま試行した回数は既に七回を数えており、かけた時間は日数にして二十三日が経過していた。
「いやあ噂通りのいい景色だねぇ」
「ほんと、向こうじゃなかなか雪は降らないし」
一面に広がる雪景色を楽しむ旅行者たちは無邪気に笑い合っていて、馬車の中で一人黙り込んでいるリリアンにより一層の悲壮感を浮かばせた。それでもしきりに話しかけられたり、余計な詮索をされるようなことは無く、それぞれが勝手に旅を楽しんでくれていることに助けられてもいた。彼らは運が悪ければ、これから地獄を味わうことになる。が、それはリリアンにとって幸運なことでもあった。やや遅れ気味だったのか、馬車は速度を上げて日が傾き始めた街道を暫く走り続けた。
「そろそろ馬を休ませないと……すみませんねお客さん方、ちょいとここらで休憩でも」
二時間ほど経った頃、従者はそう言って馬車を路肩に寄せ、水を汲みに森へと入って行った。まだ日は沈みきっていなかったが、背の高い木々が並ぶ囲まれた街道は既に薄暗い。他の旅行者たちが気分転換にと降り始めると、リリアンもそれに続いて馬車を降りる。カラ街道――王都ロンド・ジールと隣町グレッセルを繋ぐ主要な交通路であり、物流路でもある。そういえば、あの青年から聞いた話もここが舞台だった。西側は街道に沿って広大な森が広がっており、耳を澄ませば近くを流れる清涼な川の音が聞こえてくる。なるほど、襲撃には適した場所と状況だ。リリアンは納得するように辺りを見回しながら、自分の中の第六感が何かを察知した感覚を覚えた。見えないが、何かがいる。見られている。そう確信すると、緊張が足元から這い上がってくるのを感じた。半月以上に渡って服の端が擦り切れるほど繰り返したこの囮調査が、ようやく実を結ぶ時がやってきたのか。彼女の口元は僅かに微笑んだように見えた。するとその想いが通じたのか、意図したかのような時機に異変が襲い掛かる。
「な、なん――ガハッ」
「なに、なんなの!? ちょ、やめてッ! やめ……」
馬車から離れ、森側に近づいていた旅行者たちが次々に鮮血を散らしていく。馬は騒ぐ様子を見せていないが、何かを察知しているのか旅行者たちの方へ首を向けて耳を立てていた。リリアンは馬車の陰に身を隠しながら様子を伺う。彼女には旅行者を守ろうとする意思はあったが、相手の姿が見えないだけで行動は後手に回らされてしまう。自分の無力さへの苛立ちにまたも唇を噛むリリアン。しかし焦るわけにはいかない。惨劇の幕間、一瞬の静寂が訪れた。目の前には遺体が三つ、残る旅行者はただ一人。馬車後部から顔を覗かせながら森を睨んでいると、奥から返り血で染まった茶色いローブを身に纏う一人の男が歩いてくる。あの血は恐らく従者を始末した際に浴びたのだろう。しかし真に驚くべきことは、その男の横、何もない空間にまるで炙り出しのように輪郭が浮き出たかと思えば、次の瞬間にもう一人男が現れたことだった。
「ペッ、汚ねぇモン飛ばしてきやがってよ」
「それはお前の殺り方が下手なだけだ、正面から斬るからそうなる」
やはり透明化の能力――後から現れたほうが転生者だろうか。リリアンは怯えた様子を演じながら二人を観察した。ローブの下には軽そうな皮鎧、武器は手斧に、ナイフ。顔つきを見るに、ここの生まれではない。褐色というには明るい、日焼けしたような肌色は――バナル人か。南の大陸に多く見られる。ふと顔を掻く男の右手首に、見慣れない腕輪のようなものが見えた。もう一人の男も同じように装着しているようで、金属が細かく編み込まれたような見た目と、灰とも銀ともとれる濁った色合い、光沢が強く艶めかしい質感が妙に目立っている。ただのアクセサリーというには妙に浮いていた。身だしなみに気を遣うような連中でもないだろうに。二人はリリアンに気付いているようで、薄ら笑いを浮かべながらゆっくりと近づいていく。
「まぁいいだろ。それにまだお楽しみが残ってるじゃねぇかよ、ええ?」
「おい、ガフ。そろそろ一人くらい生け捕りにしたほうがいい……これ以上は頭目が黙ってないぞ。お前がシメられるのに、俺まで巻き込まれるのは御免だ」
「けっ、優等生のジャックス君は言う事が違うね。ったく真面目な野郎だ。別に、生きてりゃ文句ねぇんだろ。なら、それまで俺が楽しんだっていいってこった」
ガフと呼ばれた男はナイフについた血をローブで拭いながら、口の端を上げてリリアンを見つめた。まだ、自分の正体は知られていない。全員が異能を使えるのであれば誰でも構わないが、生け捕るならリーダー格を狙いたいところだ。二人の会話を聞いた限りでは、対等な関係のようにも思えたが。リリアンは長期間の往復からくるほんの少しの疲れと、実行犯にようやく出会えた高揚感によって、普段の冷静さを僅かながら失いつつあった。それが例え百分の一の油断であったとしても、異能と対峙したときには命取りとなることを、知っていた筈なのに。リリアンが首筋に当たる冷たい感触に気付いた時には、背後から音もなく現れた三人目の男によって羽交い絞めにされていた。
「ヒヒ、こりゃあ上物だ……わりぃなガフ、頂くぞ」
「……キースか、いっつもコソコソ隠れて美味しいとこだけもっていきやがる」
ガフはやれやれと言った様子で、諦めたように歩みを止めるとナイフを鞘に納める。キースはそれを見て醜悪な笑みを見せると、左手でリリアンの身体を弄るように動かし服の下に手を入れようと試みた。リリアンはそれを気にも留めず、冷静さを取り戻すかのように小さく息を吐く。助かった。こいつは私を好きにしようと、好きに出来ると思い込んでいる。これが転生者であったら、既に死んでいただろう。どうやらこいつらはただの人間らしい。敵が二人だけと思い込んでいた自分の未熟さに腹を立てつつも、彼女は冷静に、そして素早く力を解放した。
「ぐほっ」
瞬間、肉欲が滲む表情でリリアンの胸に手をかけようとしていた男の背中を、鋭利な氷の槍が貫いた。衝撃で後ろに押されながらも、串刺しになった男は身体からひび割れるような音を立てながら氷漬けになっていく。数秒とかからず氷像と成り果てた賊の前で、リリアンは乱れた服に手を伸ばし手際よく整えると、おもむろに顔を上げた。リリアンの特異能力である白冷霜は氷を自在に操る力で、生成した氷の塊を武器として、あるいは巨大な氷塊を盾のように使うことも出来る。彼女によって生み出された氷は通常のそれとは次元が異なる硬度を誇り、灼熱の炎に晒されても溶け落ちることはない。白んだ冷気を纏い、正面に立つ二人を見据えるその眼は、ガラスに閉じ込めた深海のような青藍へと変貌を遂げていた。
「こ、こいつ……もしかして転生者か!? やべえッ、ジャックス! おい! ジャ――」
突如として開放されたリリアンの力に狼狽したガフは、助けを求めるように左隣を見て言葉を失った。先ほどまで悪態をついていた優等生ジャックスは、まるで地獄の底で悠久の時を過ごしたかのように凍り付いていた。その姿は彫刻のように美しく、しかしその表面には無数のひび割れと、身体の端々から涙のように垂れて固まった氷柱が異様な静けさをまとわせている。
「あぁ……クソッ! 朧影を――ッ!? な、なんだ、これ、腕が動かねぇぞ!」
「朧影、それがお前の力か? 色々聞きたいことはあるが、まずはその腕輪について教えてもらおうか。ああ、悪いが四肢の動きは止めさせてもらったぞ、なに、短時間なら壊疽はしない。安心して答えてくれ……まあ、長引けば保障はしないがな」
ガフの両手両足は氷漬けになっていて、透けて見える肌の色は既に血の気を失いつつあった。足元に落ちたナイフの柄には、狐のような紋様が彫られているのが確認できる。どうやら青年が言っていた件の賊らしい。
「お前たちが銀狐だな。二年前には聞かなかった名だ。その腕輪、転生者の力が込められているようだが――どこで手に入れた?」
「へっ、まさか賢王お抱えの女王様がお出ましとは、さすがにビビったぜ。手柄を挙げられなくて怒られちまったのか? げっへへ……わりぃが俺を拷問したところで何も出てこねえぞ」
「そうか。……断っておくが、私はお前を殺すつもりはない。生きて戻って貰わないと困るのでな。それに、いずれにせよお前は死ぬ運命なのだろう? 私が捕らえ、口封じのために消された奴らのように。ならいっそ、ここで吐いてしまってもかまわないとは思えないか。この状況、お互いに協力し合えると私は思っているのだが」
リリアンは淡々と会話を続けた。彼女の瞳に宿った海の底を思わせる暗い青は、ガフの命を包み込むように冷たさを放っている。まるで針を刺されるかのような冷気に顔を顰めるガフを眺めながら、リリアンは透明化する異能について考えていた。こいつが転生者であるなら、すぐに力を発現できる筈だ。異能とは、軽く手足を凍らされただけで使えなくなるような、何か道具に頼らなければ使えないような、そんな脆弱な力ではない。このガフという男は先程、力を使おうとした。その時に腕輪を気にしていたように見えたのは、気のせいではないだろう。
「その腕輪に力を込め、他人が使えるようにしているのか……? お前の、その力の主は誰だ? 会わせろと言っているわけじゃない、名前くらい聞いてもいいだろう」
「へっ……その必要はねぇよ。会えるさ、例えお前が望まなくてもな。……お前はもう、逃げられねえ」
ガフは絶望の表情を浮かべながら、自分に言い聞かせるかのように呟いた。彼の心の奥底から湧き上がっている恐怖は、目の前に立つ氷の女王ではなく別の誰かによって引き出されていることは明らかで、リリアンもそれに気付いている。よほど教育が行き届いているのだろうか、リリアンは自分の部下を思い出し複雑な気分を味わっていた。絶対的な力による支配。圧倒的な恐怖による服従。どうやらその効果は絶大なようで、ガフはどんな拷問に晒されようと口を割ることは無さそうだった。であれば、言伝を頼んで城へ戻り、色々と準備をしたほうが良さそうだ。恐らく、次は力の主と対峙することになる。リリアンはガフに背を向け力を抜くように息を吐くと、そのまま抜け殻のように項垂れる男に話しかけた。
「力を解いた、氷はすぐに自力で割れるようになるだろう。その足で戻ったら、お前の主に伝えて欲しいことがある」
「あぁ? 何を」
「姿を見せるなら、話を聞いてやってもいい。だが、隠れ続けるなら私が一人ずつ潰していく。好きな方を選べ、とな」
「……てめえ、誰を相手にしてんのかわかってんのか? それとも、イカレてやがるのか」
「誰が相手かは関係ない。それに、部分は違えど、転生者というヤツはみな一様に狂っているものさ。とにかく、伝えたぞ。言った通り、お前は見逃してやる」
リリアンは言いたいことだけを言うと、この作戦を始めた時から気にしていた踵の高い靴を脱ぎ棄てその場を去った。もう既に日は暮れ、街道に人の姿は見えない。何かから解放されたかのような足取りは軽く、加速は鋭さを増していく。よほどあの靴が歩き辛かったのか、踏み込むたびに速度を上げながら、かなりの速さで街道を走り抜けていった。リリアンの身体能力は転生者の中でも抜きんでて高いもので、紡星歴の過去千年を振り返っても彼女を超える者は存在しない。通常は馬車で数日と掛かる距離、それも複数個所の地点をたった二十日かそこらで七度に渡り往復できたのも、この力があってこそのものだった。
人知れず決死の囮作戦が行われてからの数日間は、帰還したリリアンの命によって警備にあたる衛兵の数が増やされたことも手伝ってか、ロンド・ジールでの銀狐による被害は一時的な落ち着きを見せていた。束の間の平穏に城の衛兵たちが安堵の表情を浮かべる中、ただ一人リリアンだけが自室から冷たい目で窓の外を睨んでいる。姿を消す転生者を相手に、果たして勝てるだろうか。威勢よく啖呵を切ったはいいが、正直なところどう対処すればいいのか答えが出ていなかった。先手を取られればまず勝ち目はない。かといってこちらから仕掛け、かつ殺さぬよう手加減できる相手かもわからない。ただ始末するだけならそこまで苦戦はしないだろうとも思えるが、色々と聞かなければならないことがあった。まずは話をする必要がある。いきなりけしかけるのではなく、冷静に。しかし、まるで散歩でもするかのように警備を掻い潜って牢に侵入する能力者だ。相手の土俵で戦うことだけは、絶対に避けねばならなかった。
「リリアン様!」
リリアンは一人物思いにふけっていると、激しくドアを叩く音に意識を引き戻された。声を聞く限りどうやら近衛兵が訪ねてきているらしい。妙に騒がしいな、件の賊がまた暴れ出したか。だとしたら、活動を再開するまでが思ったよりも早い。やはり二人消した程度では足りなかったのか? そんなことを考えながらドアを開ける。
「どうした」
「は、衛兵が遺体を発見したとの報告を」
「まさか、賊の……? あれから捕らえた者はいない筈だぞ」
「いえ、今回発見された場所は聖教区東の物置小屋です。市民から通報があったものと思われます。……それと、近くにはなにか文字が書かれていたと」
文字。死に際になにか書き残したのだろうか。それにしても、今まで事件が起きていなかった聖教区で遺体が発見されたとはどういうことだ。あのエリアは大教会が建つ統神派の本拠地で、観光の要素がないとは言わないが、割合で言えば圧倒的に地元の民が多い場所だ。私の警告を受けて狩場を移したのか? とにかく見に行ったほうが良さそうだ。暫く無言のまま思考を纏めると、リリアンは短く頷いた。
「わかった、私が行こう」
それから直ぐに城を飛び出したリリアンは、馬車に一時間程揺られて聖教区の中心地である大教会の前に舞い降りると、久々に訪れたこともあってか暫く辺りを見回していた。神の街とも呼ばれるロンド・ジールの中でも、やはりここだけは別格の神聖さがある。この空気に怖気づくこともなく、人の命を奪うことに躊躇いを見せない者がいるとは。やはり転生者とは、見た目こそ人であっても中身は獣なのだろう。勿論、この私も。リリアンは自らの持つ力、その異常さを認めながらも、しかし悪を滅することこそが獣である自分自身の贖罪であると考えていた。だからこそ討たなければならない。そう強く念じながら、目的地へと進んでいく。十五分ほど聞いた方向へ歩いていると、路地の傍らに一人衛兵が立っているのが見えた。どうやらその先に事件の現場があるらしい。向こうもこちらの姿を確認したのか、姿勢を正して敬礼すると、神妙な顔つきで駆け寄って声をかけてきた。
「リリアン様、こちらです」
「ご苦労。遺体の回収は?」
「一先ず保留しております。……そのままをご覧になって頂くのが宜しいかと思いまして」
「随分と意味ありげだな、私に宛てた恋文でも添えてあったか」
リリアンは冗談のつもりだったが、衛兵の表情は曇っていた。彼女はその理由をなんとなく察してはいたものの、もとよりそれが呪いの言葉であろうとも歓迎する腹積もりだった。まだ昼過ぎの街中は日差しも明るいが、背の高い建物が多く建ち並ぶロンドの路地裏はどこか薄暗い。氷の女王は既に臨戦態勢を整えながら、小屋の戸を引いた。
「こいつは、確か――」
小屋の奥で死んでいたのは、ガフだった。カラ街道でリリアンを襲った三人組の一人、最後に言伝を頼み、見逃した男。生きながらえることはないだろうと予想はしていたものの、その姿はあまりにも無残なものだった。ふと右腕の手首から先が、あの腕輪ごとなくなっている事に気付く。やはり、よほど重要なものらしい。ガフの死因は考えるまでもなく、後ろから心臓を一突きだ。それも、衝撃で身体が裂けるほどの、とてつもなく強い力で。リリアンにはこの傷口を以前にも見た覚えがあった。ひと月前に牢で兵長が処理していた遺体も、たしかこんな傷だったと思い返す。遺体から視線を上げると、ガフが横たわる後ろの壁には、大きく血で書かれた文字が乾いた跡を残していた。
――終わりの鐘が鳴る丘で
リリアンはそれがどこかの場所を指していることを、すぐに察した。ロンドでは朝九時から二十一時までの間、三時間おきに鐘が鳴る。まず大教会の鐘を始めの合図として、その後を追うように街の各所にある教会や時計台などが順々に鐘を鳴らしていくというものだ。終わりの鐘とは文字通りその鐘を最後に鳴らす場所であり、同時にその日最後の鐘という意味で二十一時を指しているのだろう。そしてその音が聞こえる丘といえば、答えは一つしかなかった。
「……イェネフの丘」
ロンド北西の外れ、山脈麓の付近まで伸びる緩やかな丘陵地帯の一角で、女王を待つ者がいる。日付の指定はないが、どうせ私がこれを発見したことも把握しているのだろう。どうやらガフに託した言葉は伝わっていたようだった。リリアンは思わず握る拳に力を込める。いよいよだ、遂にその時がやってきた。狐の尻尾を掴んで引きずり降ろし、絶対零度の凍寒に晒すその時が。武者震いにも似た、痺れるような感覚が身体を駆け巡る。壁の一点を見つめたまま、その眼は静かに凍り付いていった。