94. 市木くんのお引っ越し
その翌日の月曜日。
午後になりある程度時間が空いたのを見て、木南は市木と共に、内科部長に土曜に起こったことを相談することにした。
「なんてこった........」
部長先生は、頭を抱えてしまう。
それもそうだろう、研修医がとんでもない問題を起こしたんだから。
それを受けて病院側が牧を呼び出し、聞き取りをしたところ、やはり職員名簿の不要な閲覧があったようだ。
しかし、その情報を流出させるのではなく、個人的に使用したということで、減給6か月の処分となった。さらに牧が処分されたことは、病院内でも上層部のみに留められていた。その後、牧は、内科部長の勧めで心療内科を受診し「うつ病」と診断され、1年間休職することになった。
牧が1年後に復職する頃には、木南も市木も、専攻医となりこの病院から異動する予定だ。
牧が本当に「うつ病」なのかどうか、いまとなっては誰もわからない。
それから約2週間が経過した。
牧の問題が片付いて、仕事に集中できると思ったのも束の間、木南は別の問題に頭を悩ませていた。
「木南せんせ。彼女と同棲中ってホントですか?」
「写真あるなら見せてくださいよー」
ナースステーションの裏にある、薬剤などを置いている部屋に入ると、数人の看護師に囲まれた。
牧の件で部長先生に話した「彼女と同棲中」というのを、牧の処分を決める会議の際に看護部長が聞いていて、そこから一気に看護師の間で広まったようだ。
(おいっ、個人情報はどこいった⁉)
そう思いたいのは山々だが、個人情報とはあくまでも「特定の個人が識別できる情報」であるため、木南の彼女という情報は個人情報にはならない。
しかし木南は、ここでこの看護師たちに負けていたら、また深尋を傷つけかねないと思い、勇気を出してスマホを手に取る。
「いいですよ写真。見ますか?」
そして木南は、本当に深尋の1ショットの写真をスマホの画面に出し、看護師たちに見せる。その写真は、前の年のライブ終了後に、いつもの通り楽屋に行って撮った1枚だ。衣装が可愛くて似合っていたので撮らせてもらった、木南のお気に入りの写真だ。
「.....え?先生、この人って......」
「あ、なんだっけ......そうそう!buddyっていうグループの!」
「ああー!フワフワしてかわいい子だよね」
看護師たちに深尋を可愛いと言われ、木南が満足していると、次にとんでもないことを言ってきた。
「でも木南先生、それは彼女じゃなくてファンっていうんです」
「もう~~っ!そんな芸能人の写真より、本物の彼女の写真を見せてくださいっ!」
(だから、お望み通り見せましたけど⁉)
決して口には出さず、木南は笑顔を引きつらせている。
すると、その看護師の後ろで薬剤の準備をしていた芽衣が、肩を震わせて笑いをこらえているのが見えた。
それをじっと木南が見ていると、芽衣とバチッと目が合う。
(芽衣ちゃん.....君の彼氏もバラすよ?)
(わたしは関係ないよね、木南くん.....)
なぜか2人は目だけで会話が成り立っていた。
「おつかれさま~。木南先生、もう終わり?」
隣の病棟からやってきたのは、いま最も来てほしくない市木だ。
「あっ、市木先生!木南先生と友達なんですよね⁉木南先生の彼女ってどんな人ですか⁉」
「え⁉木南の彼女⁉......えぇ~っと.....」
木南は市木に目配せして、スマホの画面を見せる。
それを見た市木は、すぐさま、
「あっ、そうそうこの子!深尋ちゃん!」
と、名前まで呼んでくれた。もうこれで引いてくれるだろうと思ったが、
「ほんっと、市木先生までそんなことばっかり言って」
「嘘をつくならもっとマシな嘘をついてくださいっ!」
「今度こそ本物の写真、見せてくださいねっ!」
そう言って、看護師たちはプリプリと怒りながら出ていった。
部屋に残ったのは、木南と市木と、黙々と作業している芽衣だけだ。
「芽衣ちゃんひどいよね。笑ってないで助けてよ」
「木南、全然信用してくれなかったな」
「だって、わたしが入ったらおかしいでしょう?」
「でもさ、芽衣ちゃんが番犬くんの写真見せても、同じ反応かな?」
「今度試してみる?」
「や、やめてよ!わかった、今度からフォローするから...」
「でもさ木南、いませっかく人生最高のモテ期到来中だし、ちょっとくらいおイタしても......」
「はぁ?(怒)」
「デビルマン、深尋ちゃんにチクるわよ」
「ああっ、ごめんなさいっ!最近やっと許してもらえたのにっ!」
「デビルマン、これ以上自慢の資産を減らされたくなかったら、下手なことは言わない方がいいぞ」
「ううっ、ごめんなさい......」
デビルマン改め市木が深尋にした謝罪の数々は、市木の資産にダメージを与えたらしく、市木は今後数年間は逆らえなくなっていた。
一体何をしたのかは想像にお任せする。
そして季節は少し進み、3月中旬。
市木が本当に、僚と明日香が住むマンションに引っ越してくることが決まった。しかも、同じ25階の3つ隣の部屋だ。
「他の階も空いているだろ⁉なんで25階なんだ!」
と、僚に言われていたが、市木は僚のことが大好きだからしょうがない。
木南は、こっちに来なくてよかったと、ホッと胸を撫で下ろす。
そんなことを言いながらも、やっぱり友達。忙しい合間を縫って、市木の引越しの手伝いをすることになった。
僚、隼斗、市木で、市木の実家に行き、荷物を車に乗せる。
家具や家電は新しく全部揃えたものを誠、竣亮、木南で設置していく。家具は、組み立てサービスを利用したので、ゴミもなく楽ちんだった。
軽いものは明日香、深尋、美里、芽衣、葉月の女性たちですることにした。
しかし、人気グループのbuddyを引っ越しに使うとは、なんとも贅沢な男だ。
市木たちが戻ってくる頃には、家の中も普通に生活できるように整えられていて、あとは市木が書斎として使う部屋に、自宅から持ってきたパソコンを設置したり、医学書や参考書などの本を並べるくらいだった。
「いやぁ、みんな助かったよ~。こんなに短時間で終わるとは思わなかったぁ。ありがとう」
そう言って、市木はみんなに大量のピザやポテトフライなどを振舞った。
でも、明日香がこんなジャンクなものばかりはダメと言って、自宅で野菜サラダを作って持ってきた。
「でもさ市木くん。鍋とかフライパンとか、調理器具が一切ないんだけど、明日にでも買いに行くの?」
キッチンを整理しようと荷物を見たら、お皿が数枚とグラスが2個、マグカップ1個という、いくら一人暮らしでもあまりの少なさに驚いて、明日香は市木に聞いてみた。
「え?だって俺、料理できないし。というか、したことない」
「!!!!!!!」
あまりにも当たり前に言うので、全員言葉が出てこなかった。
そして、僚が恐る恐る聞いてみる。
「お前さ、普段の食事はどうするつもりだ?」
「まあ、なんか、適当にしたらいいかなって......」
「市木くん、野菜嫌い克服できてないでしょ?」
「ゔっ........」
明日香は市木の野菜嫌いを知っている。だから今日も、野菜サラダを作ってきたのだ。そして、畳みかけるように僚も市木に言い放つ。
「今までは家政婦さんたちに甘やかされて、好きなものばっか食べてきたんだろうけど、1人で暮らすんだから、食事の用意も全部自分でしないといけないの、わかってるよな?」
「それに、偏った食事をして体を壊すと、それこそ医者の不養生って言われるのよ?それでもいいの?」
僚と明日香が市木に詰め寄っている姿を見て、他のメンバーは、まるで2人の子供を叱っているようにしか見えないなと、思ったのは内緒だ。
するとそこに、救世主が現れた。
「市木くん、竣亮くんにお料理を教えてもらったらいいじゃない」
葉月がパンっと手を叩き、嬉しそうに提案してきた。
「.......え?僕......?」
突然指名された竣亮は、びっくりしている。
「だって、竣亮くんのお料理は美味しいし、無駄がないし、経済的だわ。何よりわたし......竣亮くんのご飯じゃないと、何を食べても味がしないのっ!」
((........なんだ。ただの惚気か))
全員一致でそう思った。
竣亮に胃袋を掴まれている葉月は、もうすっかり(竣亮が作る料理に)ハマってしまっていた。
そして、葉月はなぜか市木の肩に手をポンと置いて、最後の演説をする。
「市木くん、女が男の胃袋を掴む時代はもう終わったのよ。これからは、男が女の胃袋を掴むのよ!お料理を勉強すれば、あなたにもきっと、いいご縁があるわっ!私を信じてっ!」
葉月にそう言われた市木には、葉月の後ろから後光が差しているように、キラキラと光って見えていた。
「は....葉月さん....いえ、葉月様っ!わかりましたっ、俺、頑張ってお料理をマスターして、未来のお嫁さんの胃袋を掴めるようになりますっ!」
「ええ、ええ、あなたならできるわ......」
「はいっ‼」
ここにきて、市木と葉月という謎のペアに、竣亮という生贄が捧げられ、料理レッスンを行うことになった。
隼斗「なにこれ?新たな宗教か?」
深尋「葉月教でしょ」
誠「入信したら抜け出せそうにないな」
美里「今のところ犠牲者は竣亮くん1人だけど......」
芽衣「これ以上増えたらヤバいよ」
明日香「とりあえずここは、市木くんのためにも竣亮に頑張ってもらおう」
僚「木南、臨床心理士って催眠術も出来るのか?」
木南「そんな話聞いたことないよ」
他のメンバーがそんな話をしている間にも、葉月教の計画は進行していて、市木は翌日、早速、調理器具を買いに行くことにした。
そうやって、久しぶりに全員集合して楽しんでいた。その時、
「うぅっ......気持ち.....わるっ.....」
そう言って美里が両手で口を押え、トイレに駆け込んでいく。
「えぇ⁉美里ちゃんっ、大丈夫⁉」
深尋が言っている間に、何かに感づいた市木と木南、そして芽衣は、すぐそのあとを追う。誠も心配で3人の後を追った。
残された6人は心配でどうするべきかわからず、だたオロオロするだけだった。
トイレでは美里がえづいていて、それを芽衣が介抱している。
それがやっと治まって落ち着くと、市木が誠と美里、そして木南と芽衣を書斎に案内する。
「美里ちゃん、誠、これから質問することは、医者として質問するから、恥ずかしがらずに正直に答えてね」
市木は2人にそう説明して、美里に質問する。
それを聞いた市木と木南は、1つの答えを出す。
「美里ちゃん、妊娠している可能性が高いと思う。だから明日にでもクリニックに行って検査してほしい。俺たちも嬉しい報告待ってるから、ね?」
それを聞いて、誠が市木に迫ってくる。
「ホ、ホントか⁉市木!」
「検査をしたわけじゃないから確実じゃないけど、月経の周期から考えて、その可能性が高いと思うよ。木南も同じ意見だろ?」
「うん、そうだね。僕も市木と一緒だよ。でも、あくまでも可能性だから、違っていてもがっかりする必要はないよ?それだけは覚えていてね」
市木と木南にそう言われて、少し落ち着いた誠は、美里と静かに喜んだ。
そして書斎から戻ってきた誠と美里が、僚たちに報告すると、みんな一斉に喜んでくれた。
「うわー!マジか⁉」
「誠がパパだよー」
「なに、もう.....わたし、心の準備できてないよ」
「誠が.....お父さんに.....」
「すごい!すごいよ誠!」
今日は市木の引越しで集まったのに、それとは別の明るい話題に包まれていた。
そして翌日。
市木に言われた通り、美里は誠に付き添ってもらい、クリニックを受診した。
その結果を、全員一斉にメッセージを送信する。
『妊娠6週でした!私と誠くん、パパとママになります!』
そのメッセージを、事務所で打ち合わせ中に受け取った誠以外の5人は、昨日以上に大喜びだ。
元木に至っては、先のスケジュールは大丈夫だろうかと、その心配をしていた。理由は、出産に立ち会ってほしいからだ。
出産予定日は11月中旬だ。
またひとつ、楽しみが増えた。




