91. 新たな火種
年が明けた1月中旬。
木南は医局の給湯室で、コーヒーを淹れていた。
「お、木南お疲れ。俺の分もある?」
声を掛けてきたのは市木だ。木南が救急センターから内科系に診療科が変わったことで、最近はよく医局で会うようになった。
「お疲れ。まだ残ってるよ」
木南の言葉を聞いて、市木も棚から自分のマグカップを取り出し、コーヒーを淹れ、それから2人は研修医のデスクへと向かう。
2人のデスクは背中合わせになっており、いまは2人以外誰もいないので、暖かな日差しを見上げ、コーヒーを飲みながらくつろぐ。
医者という仕事は、本当に忙しい。それは研修医であっても同じだ。
だからこそ、休めるときに休まないと、後々自分の身体が悲鳴を上げるぞと、指導医の先生に教えてもらった。
「そういえば、まこっちゃんたちの新築祝い行く?」
少々猫舌の市木は、コーヒーをふぅふぅと冷ましながら木南に聞いてくる。
「ああ、時間空けたから、深尋ちゃんと行くよ。市木は?」
「俺?行くに決まってる」
「ははっ、そうだね。大好きだもんね」
そんなことを話していると、後ろから声を掛けられた。
「なに、市木。好きな人でもいるの?」
その声に振り返ると、2人の同級生で、僚の同級生でもある、牧 有紗が立っていた。
「なんだよ牧。盗み聞きか?趣味悪いぞ」
「違うわよ。自分のデスクにきたら、たまたま聞こえたの」
「ふ~ん......」
市木は、牧と話しながら木南をチラッと見る。
木南は何もしゃべらず、ただ静かにコーヒーを飲み干していた。そして、市木の方だけを向き、
「悪い市木、さっきの話はまたあとで。ちょっと病棟に行ってくる」
そう言って、牧の方には見向きもせずに行ってしまった。
牧は木南の背中を見つめ、すぐに自分のデスクに座る。牧のデスクは、木南の2つ隣だった。
「あのさぁ、牧......」
「うるさい」
「まだ何も言ってないんだけど?」
「あんたの言いたいことくらい、わかってるわよ」
「わかってるならいいけど」
市木はそれ以上何も言わず、いまだに残っているコーヒーをちびちび飲んでいた。
木南が病棟に行くと、ちょうど指導医の先生が午後の回診をするところだったので、一緒に回ることにした。回診をしながら、指導医の先生と患者さんの話しや、診察内容、投薬内容、検査結果などを電子カルテに入力していく。
それを受け持ちの患者さん全員を回り終わったときには、すでに夕方17時になろうとしていた。
「木南先生、電カルの入力が終わったら、もう今日は帰っていいよ。指導医の承認はわたしがしておくから」
「あ、はい。ありがとうございます」
病棟のナースステーションで電子カルテを入力していたら、指導医の先生にそう声を掛けられたので、今日は早く上がれそうだと俄然やる気が出てきた。
木南が電子カルテの入力をしている後ろでは、日勤の看護師と準夜勤の看護師が申し送りをしていた。
その準夜勤の看護師の中には、芽衣の姿があった。
芽衣は看護科を卒業後、同じ系列のこの大学病院に従事していた。
医学部は6年制のため、市木や木南よりも勤務年数で言えば芽衣の方が先輩だ。
木南は電子カルテの入力が終わると、指導医の先生に挨拶をしてエレベーターに向かう。すると、そこには芽衣が先に立っていた。
「あ、木南く......先生、お疲れさまです」
「長瀬さん、お疲れさま。今日準夜勤?」
「そう。しかも輸液が足りなくて、いまから薬剤部に出してもらうの。時間外だから、何言われるか.....」
「それは、それは......」
そんな話をしながら、2人でエレベーターに乗る。
「そう言えば、誠の新築祝い行く?」
木南は今日市木から聞かれたことを、芽衣にも聞いてみる。
「わたし、その日は夜勤なんだ。だからお祝いだけ、隼斗くんに渡しておこうと思ってる......」
その時、途中の階でエレベーターが開くと、牧が乗ってきた。
「お疲れさまです」
芽衣は、白衣を着ている牧に挨拶をする。しかし、木南は何も言わずに黙っていた。
「お疲れさま」
牧は、木南と芽衣が並んで立っているのを一瞥し、形だけの挨拶をする。
部外者が入ってきたことで、木南と芽衣は先ほどの話が出来なくなっていた。
思えば今日は、牧に話を潰されてばかりいる。
温厚な木南でも、少しイラっとした。
そして医局がある2階につくと、木南は牧に構わず芽衣に声を掛ける。
「じゃあね長瀬さん。お疲れさま」
「あ、うん。お疲れさま......」
異様な雰囲気を感じつつも、芽衣は木南に軽く手を振って、薬剤部がある1階へと降りていった。
2階で降りた木南と牧は、少し離れて医局へと向かう。
あまり一緒にいたくないが、向かう場所が同じだからしょうがない。
医局に入るとその足ですぐ更衣室へ向かう。自分のロッカーに白衣を掛け、白衣の下に着ていた紺色のスクラブと、スクラブパンツから私服に着替える。
そしてそのままカバンを持って医局を出た。市木ともゆっくり話したかったが、今日はどうも無理そうなので、所在を確認しないまま帰ることにした。
木南が駐車場に向かって歩いていると、後ろから「光太郎!」と呼ぶ声がした。この病院で、木南のことをそう呼ぶのは、1人しかいない。
木南は聞こえていないフリをして、足早に車に向かう。
でも、相手の足が速かった。すぐに木南に追いついて、右腕を掴まれる。
「ねぇっ!光太郎っ、話しを......」
「別に話すことなんかありませんよ、牧先生。それに今は勤務時間外です。仕事の話しなら勤務時間内にお願いします。それ以外の話しはありません」
そう冷たく突き放すと、車に乗り込み発進させる。
(はぁ.....深尋ちゃんに癒されたい.....)
木南は自宅に向かいながら、ひたすら深尋のことを考えていた。
牧は、高校3年の夏に告白されて付き合い始めた。
最初は、この人葉山のことを追っかけていたのに、なんで?と思ったが、まあいいかと軽い気持ちで付き合った。そして、お互い医学部を目指しているということで、よく一緒に勉強もした。
自分も男だし年頃だったから、女の子と2人きりになると、そういう雰囲気にもなる。身体を重ねるまで、そう時間はかからなかった。
勉強を言い訳に、行為に耽ることもあった。
でも、大学に入って新しい友人が出来始めると、牧の束縛が激しくなった。
高校の時もそんな気配はあったが、付き合ったばかりだったからか、そこまで気にならなかった。
しかし大学入学後は、朝昼晩関係なく電話やメールが止まらず、少しでも返信が遅れると、その催促が止まらないという悪循環になっていた。
しかもそれが、ほぼ毎日だ。
友人との付き合いで帰りが遅くなったときには、実家の前で待たれていることもあった。男ばかりの付き合いなのに、口を出されて辟易していた。
そういうことが続き、さすがに嫌気が差して、自分から別れを切り出した。
別れるのも大変で、牧は別れたくないの一点張りで埒が明かなかった。だから電話番号やメールアドレスなど全てを変え、大学内でも徹底的に距離を置いてやっと諦めてくれた。
もう当分女の子はいいやと思っていたのに、その約1年後に深尋ちゃんと出会った。
深尋ちゃんは、見た目こそ可愛くて甘えん坊なタイプだが、実は結構しっかりしていて、決断力があったりもする。
葉山たちが大事にしていたおかげで、年の割には純粋で濁りのないところに惹かれた。素直で、表情がコロコロ変わって、そして頑張り屋で、惚れるのに時間はかからなかった。
深尋ちゃん自身も、大学と芸能界の二足のわらじで大変なのに、僕のことをずっと応援し続けてくれた。
大学の実習が続いたり、試験前で忙しくて会えない日が続いても、不満を口にしたことなどなかった。それが逆に寂しくなったりもした。
そんな深尋ちゃんだから、僕もずっと大切に大切にした。
それなのに、研修医として系列の大学病院に牧と一緒に配属された時には、この世の終わりかと思った。
最初の頃はやること、覚えることがたくさんあり、そんなことに構っていられなかったけど、最近は内科系の診療科を回っているためか、顔を合わせる機会が多く、なにかと自分に話しかけてくるようになった。
別れてから6年以上経つというのに、今さらなんのつもりだよと、考えるだけでも腹立たしい。
マンションの駐車場に車を止め、エレベーターで27階まで上がる。
自宅の玄関を開けると、廊下の先の扉の向こう側が明るくなっていて、木南はホッとする。その扉が開き、ひょこっと顔を出してきたのは、いま一番見たい顔だった。
「おかえり光太郎くん、早かったね」
言いながら、パタパタと駆け寄ってくる。その駆け寄ってきた深尋を、木南はぎゅうっと抱き締める。
玄関の段差で、いつもよりも身長差がなくなった深尋の肩に、木南は顔をうずめる。
「光太郎くん?どうしたの?」
同じ『光太郎』でも、牧に呼ばれるのと、深尋に呼ばれるのとでは全然違う。深尋に呼ばれると、さっきまでのイライラが落ち着いてくる。
心に刺さった毒針が抜けていくような感覚だ。
「深尋ちゃん、もう1回僕の名前呼んで」
深尋は不思議に思いながらも、素直に名前を呼ぶ。
「光太郎くん」
「.......もう1回」
「ふふっ、光太郎くん」
深尋は、木南がこうして自分に甘えてくれるのが嬉しかった。普段は自分が甘やかされてばかりだから、たまにはこういうのも悪くないなと思っていた。
やっと玄関からリビングに移動すると、深尋は呼んでいた雑誌を片付ける。
「ごめんね。もう少し遅くなると思って、ご飯まだ作ってないの。今すぐ作るね」
「うん、大丈夫だよ。僕、着替えてくるから、一緒に作ろう」
1人でキッチンに行こうとしている深尋にそう言うと、「うんっ」と笑顔が返ってきた。
それから2人でご飯を作りながら、深尋の仕事の話を聞いたり、誠の新築祝いの話をしたりして、穏やかな時間を過ごした。
それから1週間後。
今日は、僚と隼斗と市木と久しぶりに飲みに行くため、車を置いて電車で通勤していた。
仕事が終わり、市木と一緒に待ち合わせをしている店に向かう。
指定された店は、全席個室になっている店で、落ち着いた雰囲気の大人が通うような店だった。
僚も隼斗も、いまではすっかり有名人になってしまったので、どうしてもこういう店を選ぶのだろう。
店に着くと2人は先に来ていた。
いつも通り、簡単に挨拶を済ませ、市木は隼斗の隣に座り、木南は僚の隣へと座る。
最近、男同士で飲むのは、この4人で飲むことが多かった。たまに、竣亮や誠が来るが、めったに参加してこない。
飲み始めてしばらくすると、隼斗が「そういえば」と、話を切り出す。
「芽衣が言ってたんだけど、お前たちの病院に、怖い女の研修医がいるって?」
隼斗にそう言われて、市木と木南は顔を合わせる。
「芽衣ちゃん、なんて言ってたの?」
「なんかされたのか?」
2人が隼斗に聞くと、隼斗も芽衣から聞いた話を思い出しながら、2人に話す。
「いや、その先生とは受け持ちの病棟も違うし、接点もないけど、なぜか会うたびに睨んでいるように思うって。名前が何て言ってたかな.......そうそう、牧先生って言ってたな」
隼斗からその名前を聞いて、市木と木南はやっぱり....という顔をし、僚は驚いている。
「え....牧先生って、あの牧か?」
僚が市木と木南に尋ねる。それに市木が答える。
「そうだよ。あの牧だよ。木南の元カノ」
「ええ⁉」
木南の元カノと聞いて、今度は隼斗が驚く。僚が驚いていないのを見ると、僚は、木南と牧が付き合っていたのを知っていたようだ。
「僚も知っているのか?その牧先生のこと」
「.......ああ。中学から一緒で、友達だった」
「だった?......いまは友達じゃないのか?」
事情を知らない隼斗に説明すべきか悩んだが、芽衣が巻き込まれているようなので、隼斗には説明した方がいいと思い、中立の立場の市木が隼斗に順を追って説明する。
「牧はさ、中学から高校の途中まで、ずっと葉山を追いかけていたんだよ。友達だと思ってた葉山はそれを断ったのに、1回でいいからデートしてくれたら忘れるとか言って、ホントに1回だけデートしたんだよ。でも、それ以降も諦めなくてさ、そのあとの対応は番犬くんも想像がつくだろ?」
明日香と付き合い始めたことですっかり忘れていたが、僚は女性に対して極度に潔癖だった。
特に、言い寄ってくる女性には容赦がなかった。
「んで、バレンタインかなんかにもう一度告白した時に、そこにたまたま明日香ちゃんがいて、おまけに自分もフラれて、ボロボロになったんだよ」
バレンタインの僚の告白現場に、明日香がいた?
隼斗は何かを思い出しそうだった。
「なあ僚、それっていつの話?」
隼斗に聞かれて、僚も思い出そうとする。牧と友達関係が切れたのは......
「確か、高校1年の時だったかな。高校2年の時には、牧とはだいぶ距離を置いたから」
その言葉を聞いて、隼斗はやっと思い出す。
「わかったっ!牧って、下の名前じゃなくて、苗字の牧だろっ⁉」
「そうだけど......」
僚の返事を聞いて、隼斗はすべてが繋がった。
「あのバレンタインの時、明日香だけじゃなくて、俺も深尋もいたんだよ。確かあの日は深尋がうちに泊まりに来て、明日香と一緒にチョコを作っていたんだ。んで、翌日レッスンのために3人で駅に向かったら、そこで僚とその牧って人がいるのを見て......」
その話を聞いて、今度は木南が驚く。
だいぶ前のこととはいえ、深尋と牧がそこで顔を合わせていたなんて.....と。
「まあそれで、葉山にフラれた牧は、高校3年の時に木南に告白したんだよ。それで付き合った。あとは木南から聞いて」
市木にそう言われて、木南も付き合ってから別れるまでの話をする。
木南の話を知っていた市木と僚は平然としていたが、隼斗はその束縛の仕方にかなり引いていた。
「おいおい、かなりやべぇ女だな.....」
最初こそ牧先生と言っていた隼斗だが、最後の方には女呼ばわりだ。
「でもさ、その女がなんで芽衣に当たるんだ?」
ここまで話して、やっと本来の問題に辿り着く。
「それはたぶん......僕のせいかもしれない」
木南は隼斗に申し訳なく思いながらも、先日のエレベーターでの件や、ここ数日牧に付き纏われていることを話す。
「なんじゃそれ。完全に的外れの逆恨みじゃん。芽衣は知らずに巻き込まれたんか......」
隼斗にそう言われて、木南は余計に申し訳なく思う。
「隼斗、とりあえず芽衣ちゃんには、なるべく牧に近づかないように、気を付けてって伝えて。僕はいまは芽衣ちゃんと同じ病棟にいるけど、それがかえって悪い方向に行くかもしれないから。あまり刺激しないようにしたいんだ」
木南の話を聞いて、3人ともそれがいいと思った。
「しかし、なんで今さら付き纏うのかね。別れてからだいぶ経つだろ?」
それは木南も疑問に思っていることだ。
まだ大学在学中ならともかく、6年もたったいま、なぜ?と、木南にもそれはわからない。
「思うにさ、牧は男に依存するタイプなのかもな。葉山に断られても諦めなかったり、いまはすぐそばにいる元カレの木南に執着したり。本人は一途な思いでしているかもしれないけど、当人にしてみたら、大迷惑だよな」
市木はハイボールを飲みながら、これまでの話をまとめる。
「木南、深尋には言ったのか?」
僚に聞かれて、木南はフルフルと首を横に振る。
「心配かけたくないし、それにいま、ツアーの準備で忙しいでしょ?」
今年もbuddyは5月から8月にかけて、全国ツアーを開催する。
チケットは全日程即日完売しており、いまやプラチナチケット化していた。
牧については、いまのところ木南に付き纏っているだけで、なにか実害があるわけでもなく、とりあえず様子見しかないなという結論になった。
木南も本音を言えばイヤだったが、自分が我慢するしかないと考えた。
とにかくこれからあと1年、研修医期間を乗り越えることだけを考えていた。




